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面倒くさい自分が、好きで嫌い

電話で他愛無い話をしている間、自分がどういう人間だったか分からなくなる。明るいのか、暗いのか、天真爛漫なのか、穏やかで落ち着いているのか。普段の自分がどのテンションでどういう話し方をしているのかが、途端によく分からなくなるのだ。これはなぜか電話をしているときだけに起こる。対面で会話をしているときはそんなことはないし、経験して分かったことだがテレビ電話のときも発生しない。

おそらく、相手がどういうテンションで自分と会話しているのかが分かりづらいからではないかと思う。私には、相手の口調や気分の乗り方に自分のそれを合わせる癖がある。相手が楽しそうだと表情や身振り手振りで分かれば、自分も安心して楽しく話すことができる。しかし相手がどんなテンションでいるのかが分からないと、仮に相手がつまらなそうにしていた場合に自分だけ楽しそうにしているのが恥ずかしいやらいたたまれないやらで、それを避けるためにフラットなテンションで話さざるを得なくなる。本当に面倒くさい人間だと思うが、それが私なんだから仕方がないと思う。

面倒くさい人間、それが私だ。

自分が嫌いな自分が嫌いだ。でも、自分が好きだと思うときもある。自分のことを好きになれないところに自分の良さがあると思う。こんなダメな自分のことを結局愛さずにはにはいられない自分のことが嫌で嫌でたまらない時もある。自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。そんな訳の分からないことばかりが私の頭の中をいつも埋め尽くしている。

自分で自分のことを褒められない。「自分ってすごい」と思えない。いや、思うときが全くないわけではないのだけれど、それも結局は「そう思わなければならない」と思って無理やりそう思っている可能性が高い気がしている。

考えてみれば、全ての行動の根底に「こうしなければならない」が横たわっているように思える。お昼に何を食べるか決めるのも、友人と遊びに出掛けるのも、お風呂に浸かるのも夜寝るのも、全部「しなければならない」から。だから何を選んでもいいとき、そして「こうすべき」という規範がない時にどうすればいいのか分からなくなってしまう。最近は、夕食に何を食べたらいいのかわからなくてコンビニに寄る気も起きず何も買わずに帰宅し、家に帰っても何もないので、冷蔵庫に辛うじて入っているヨーグルトだけを食べるというのがルーティーン化している。いつからか、食べたいものを決められなくなっている、決められないから、コンビニで食べ物を買うときは毎回これを買うというのを決めるようになった。極力カロリーが抑えられ、片付けの手間やごみの少ないものを、という観点で、買うものは何パターン化に固定化されている。

実にややこしい人間である。よくこれだけとっ散らかった脳内で、普通の、なんならしっかり者とよく言われるような人間に擬態して暮らしているなあと我ながら感心している。しかし、世の中のしっかり者の人たちは案外、みんな私みたいに頭の中がぐちゃぐちゃなのを上手いこと隠して生活しているのかもしれないな、とも思う。お調子者や天然と呼ばれている人たちの方が、実はすっきりとした脳みそをしているのかもしれない。「人は見かけによらない」ということは、これまでの人生でなんとなく学んできたつもりだ。

最近は、通勤の電車の中で星野源『そして生活はつづく』を読んでいる。初めは曲が好きで星野源のファンになったのだが、その後何冊か著作を読んで文章も大好きになった。『そして生活はつづく』も、数年前に文庫版を購入してこれまでに4,5回繰り返し読んでいる。やはり今回も面白い。好きなものは何度触れても最高。

この本の中のあるエッセイで、「ストレスを感じたことや不満や苦痛が、自分の創作活動の源になっていて、嫌なことだけれどそれがあったおかげで今の自分がある」みたいなことを源さんが言っている。その言葉にすごく救われた。自分のことはなかなか好きになれないけれど、そんな面倒くさい自分だからこそ身に付いた考え方や、そんな性格だったからこそ好きになれたことや出会えたものはきっとたくさんある。だから私は、自分が嫌いな自分が好きで、やっぱり嫌いで、でも好きだ。

『そして生活はつづく』は、くだらなくてほっとするけどどこか自分の在り方について考えさせられる、不思議で素敵なエッセイ集なので、是非読んでほしい。特に私みたいに脳内がとっ散らかった面倒くさい人間には絶妙に「刺さる」と思う。


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