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感情の支配下登録

バキッ

 落とした瞬間嫌な音がした。すでに液晶が割れていたから、これ以上酷いことにはならないだろう。そんな甘い考えを打ち砕くように、携帯の画面が外れて見るも無惨な形になってしまった。なんだかよく分からない上の方で繋がれてるもの以外全部取れてしまい画面は真っ暗。もちろんタップしても反応しない。
「ここまで壊れるもんか…」
自分でも呆気に取られる。でもこんな状態にまで追い込んだのは自分だ。とりあえず切り替えて、遅れそうなバイト先へ急いだ。

 結果的にその日は1日携帯のない生活を余儀なくされた。携帯がないことによって開放感が生まれるなんてよく言うけれど、今の俺から言わせればそんなことは、必要とするものが在ることを分かった上での余裕でしかない。そんなちっぽけな開放感より、今後の連絡はどうしようとかデータのバックアップ取れてたかなとかそんな不安感しかなかった。

 翌日携帯を保証を使って以前使っていたものの新しいやつと交換してもらった。最初は新型iPhoneでも買ってしまおうかと思ったけど、昨日の精神状態並みに財布も寂しいものだった。だからそのまま。自分の携帯の形を見て古いの使ってるねと言われて、
「これ5じゃなくてiPhoneSEだから」
と反論するけど、今思うとiPhone Xとか使ってる人からしたら5もSEも“古い”という枠組みの中では同じなんだろう。

 取り換えの携帯が店に明後日届くからと渡されたのはXperia。5年くらい前に一度だけ使ってたけど、それ以降iPhoneユーザーの自分からしたらハイレベルなミッションだ。慣れるのにも時間がかかるし、慣れた頃にはもう換えの携帯が届いている。でもこれでもうひと安心。連絡も取れるし、データもバックアップも揃ってるし何も不安になることなくなった!なんて思った瞬間、不思議と気持ちの奥底から恥ずかしさと疑問が芽生えてしまった。

 何かの作品を見て感動して涙を流したり不快に感じたり恐怖に怯えたりと、人は映画やドラマ、芸術やスポーツといったコンテンツから感情を揺さぶられる。携帯はそれを見るための1つのアイテムでしかなかった。しかしどうだろう。この時の自分は携帯を壊したことで不安を覚え開放感という概念に怒っていた。現に携帯が戻ってきた後も全てバックアップできていなかったことに悲しさも感じていた。つまり、感情を動かすために必要なアイテムの1つでしかなかった携帯が今では携帯という存在自体に一喜一憂するようになっているのだ。携帯という存在自体に感情が支配されてしまっている。それほど人間の中で大きなものになっていることを改めて実感してしまう。というかもう人生において必要不可欠な存在に成長してしまっている。家の鍵や財布をなくしてしまった時と同じくらいの喪失感が携帯にはあるのだ。モノが感情を支配していくことは、この先もたくさん増えてくるんだろう。

 便利なものはその分、存在の大きさの証明であると自分は思う。人間は便利ものが好きだ。だって自分が努力しなくていいから。自分も大好きだ。でもその代わり邪険に扱いやすい。便利なもの、あって当たり前なものの存在がどれだけ大きいか。当たり前だと思い込んでいる自分では気づかない。失ったときにその存在の大きさに初めて気がつく。そして自分がどれだけモノに支配されていたのかを。きっとこれからも、この支配からの卒業は一生できない。むしろもっと支配されていくんだと思う。永遠に支配下登録され続けていく。でもそれは生活だけでいい。感情まで支配されるようにはなりたくない。だから携帯がないことによる開放感とか、焦りとか悲しみとかそういうのは全部捨ててしまおう。もっと感情を出す場はたくさんあるはずだ。そうやって携帯と一定の距離を保ちながら向き合っていきたい。自分の心は携帯の中ではなくて自分の中にあるのだから。

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