モテキの映画を10年ぶりに観たら同族嫌悪に陥った
藤本幸世を見ていると、同族嫌悪に陥る。
明確な自身の固定概念があるために、それから外れた人や物に対して嫌悪感を示す。なのに、それを顔には出せない。
そのくせ、自分のストライクゾーンに入ったものは、とことん愛してやまない。
相手を思うことよりも、自分の決断を優先してしまう。
自分の嫌いな部分を集めたような人間だと、つくづく実感する。
藤本幸世、漫画『モテキ』の主人公だ。自分はドラマが好きなので、主に森山未來演じる藤本を想像するが、漫画が原作の作品である。
ドラマは何百回も観ているので、ある程度の流れも覚えてしまっているのだが、そういえば映画版で久しく観てないなと思い、先日ネットフリックスで視聴した。
ドラマ版のモテキがテレビで放送していたのが、自分が中学2年生の頃だ。14歳には少し刺激的すぎる内容だったが、面白くて食い入るように観ていた。内容だけじゃなく、選曲も秀逸だった。あれの影響で音楽の趣味が生成されているのは間違いない。
それは映画版も色濃い。作中に星野源の『ばらばら』が流れるのだが、あれで星野源を知り、SAKEROCKを好きになった。岡村靖幸の『カルアミルク』も、ジュディマリの『LOVER SOUL』もそう。久しぶりに観て、それを思い出した。
バナナマンも出てたんだなあって思ったし、スタッフクレジットには川村元気の名前もあった。自分の感性を生成する人たちが集合していた。
長澤まさみも「今」の自分にとっては、好きすぎた。当時は感じられなかった気持ちが今になって芽生えた。最近、好きな芸能人を聞かれたときは必ずChelmicoの鈴木真海子を出しているんだけど、だいたい相手から「長澤まさみみたいだね」と帰ってくる。正直、あまりピンときてなかったんだが、モテキの長澤まさみは完全にまみこだった。たぶん、いまリメイクするなら、松尾みゆきは鈴木真海子がやっていると思う。
上映された当時と現在では、好みも変わってきているらしい。当時は全然、麻生久美子のほうがいいと思っていた気がする。
と、ここまで愛すべき作品について語ってきたが、結局“こういうところ”なのだ。
自分のストライクゾーンに入ったものには強烈な愛を示す。固すぎる概念の下に生きているため、これは簡単に覆せるものじゃない。
最近の映画の話とかしたいし、話題の作品について語らいたい。流行を素直に受け入れたい。
でも、無理なんだよね。なぜか。
湘南乃風の『純恋歌』に対して、「私、なんでこういう曲苦手なんだろう」ってドラマの満島ひかり演じる中柴いつかは言っていた。藤本と似た者同士として表されている人物だ。
同様に自分も自問自答を繰り返している。なんでこういうのに嫌気がさすんだろう。
過去の友人は、藤本を見てお前みたいだと自分に言ってきた。思わず拒否反応を起こしてしまったが、それは結局、同族嫌悪だったんだ。
この暗闇に光は灯されるのだろうか。
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