「ゴドーを待ちながら」観劇記録 2019年6月23日

2019年6月23日にKAATで上演された「ゴドーを待ちながら」の昭和・平成verを観劇したので、その感想です。

この公演は、シン・ゴドーと銘打たれた『新訳ベケット戯曲全集1』の新訳を元に上演された公演でした(私のゼミの先生である、岡室美奈子先生による新訳です)。
2017年の11月にこの新訳で行われたリーディング公演を観に行っていたので、その時の解釈とまた違うゴドーを観ることができて、とても刺激的でした。以下感想になります。

私は「ゴドーを待ちながら」を、つらい境遇にいるゴゴとジジが、ゴドーという存在しない人を待つこと、を生きる理由とする物語だと解釈していた。つまり、彼らは悲惨な環境下において、虚構を信じてでも泥臭く生きようとする、という希望の物語だと考えたのだ。

しかし、この公演を観て私が感じたのは「ゴドーを待つ」という行為から脱却するべきだというメッセージだった(希望の物語という点では同じ)。実際、劇場で配布されたパンフレットには演出の多田淳之介さんのこんな言葉が書いてある。

「明日は良くならない」「ゴドーはいない」そう認めるところから私たちの新しい「ゴドー」が見つかるのだと信じています。

ここで言うゴドーとは「希望」であり、それは作中では理想の国家や政府といったものとして表されていたのではないかと思う。私たちの新しい「ゴドー」とはそれに頼らない希望だ。

この公演で、ポゾーとラッキーは国家や政府の姿を表し、ゴゴとジジが民衆の姿を表していたと思う。
ポゾーという存在は、ゴゴとジジに「ゴドーではないか?」と期待され、「ゴドーではなかった」と落胆される存在だ。
ゴドーとはゴゴとジジの生活を良くしてくれる存在であり、いわば私たちの問題をきちんと解決してくれる理想の国家、政府といったところだ。となると、ポゾーとラッキーは現実の、そうはいかなかった形の国家、政府なのである。1幕では戦争、暗転時のバブルを挟んで2幕では自然災害(これはおそらくだけど東日本大震災)の時の姿だ。

1幕から2幕の間には不思議な時の流れがある。ジジ(とゴゴ)にとって、1幕と2幕は連続した2日間である。しかし、木に葉がつくことや、ポゾーの目やラッキーの声についての変化は一晩にして起こる変化として無理がある。それに、今回の公演では上に書いたように、昭和・平成の時間の流れが当てはめられている。
そのような、ジジとゴゴの2人の時間とその他の時間の差が、2人を民衆だと考えるゆえんである。

2幕でジジは、ポゾーとラッキーの変化、つまり彼らの弱体化にひどく狼狽する。これは、自分の知らないうちにひどく時間が過ぎたことへの不安だ。
それはまさに、民衆が気づいたときにはもう手遅れ、という焦りの感覚と似ていないだろうか。こんなにひどいことになっていたなんて、という愕然とした気持ちと、ジジの狼狽は似ている。

2幕の終盤にジジは自分は眠っていたのではないか、という疑念を一人語りする。
「ゴドーを待ちながら」において寝ること(盲目)や夜というモチーフは頻発していて、今回の公演ではそれは民衆の無関心さ、みたいなものなのではないかと思った。ゴゴ(どちらかと言えばゴドーへの執着が少ない)はゴドーを待つまでの暇な時間を寝てやり過ごすことが多いからだ。そして、2幕のポゾーは盲人には時間の概念がない、とも言う。
夜が来て眠っていたゴゴとジジの時間はゆがみ、バブルが過ぎ去り、2人は2幕のポゾーとラッキーに直面するというわけだ。
2幕のポゾーを助け起こす際のジジの言葉に、この場所で人類とは俺たちのことなんだ、という趣旨ものもあり、まさに彼らは民衆であるように思える。

ここで、冒頭の多田さんの言葉に帰ってくる。この演劇をみて、私たちは誰かがどうにかしてくれる、という気持ちを捨てることで、新たな希望を創り出すことに向かっていくことができる、ということなのだと思う。
そう考えると、1幕のジジの、おれたちは権利を自分で手放したんだ、という趣旨の言葉は深く刺さるものだった。この演劇を観た私たちは、権利を手放すわけにはいかないのだ。

今回の公演をみて「ゴドーを待ちながら」という作品は色々な形で、世の中の不条理とシンクロしながら、存在していく作品であるのだと実感しました。
上演された状況を鏡のように映し出しながら、さまざまな不条理に対して希望を与えていく作品なのだと思います。

#ゴドーを待ちながら #演劇 #感想

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