権力論を整理する

本稿では権力について何かしら論じているものを「権力論」とする。権力という概念は執筆者本人も濫用しがちではあるので、ここで整理を試みたい。

1.権力論の類型化

 権力の一般的意味は「他人を支配し、服従させる力」となる。ここでは盛山(2000)では権力論を3つのタイプに分けている。よって盛山の整理をパクり話を進めたい。
 なお政治学では権力という概念は「実体的権力概念論」と「関係的概念論」の2つに分けることもあるが、本稿では扱わないものとする。

(1)個人レベルの概念化
この類型は文字通り独立した個人同士、集団同士の相互行為の中に権力を見いだそうとする。マックス・ウェーバーは『社会学の根本概念』で権力を以下のように定義した。

「権力」とは、或る社会的関係の内部で抵抗を排してまで自己の意志を貫徹するすべての可能性を意味し、この可能性が何に基づくかは問うところではない。
ウェーバー 清水幾太郎訳『社会学の根本概念』

 他にも数多くの定義があるが、個人レベルの概念化においてはウェーバーが与えた定義が基礎になっていると言っても過言ではないだろう。例えば親が子どもに勉強をさせようとする。子どもの意に反して勉強を強制させようとし、結果子どもに勉強をさせることに成功した場合、親は権力を有していたことになる。「勉強しないと鞭で叩く」と制裁(サンクション)してもいいし、「真面目に勉強したらおやつをあげる」と言っても構わない。子ども

の「勉強したくない」という意志を排除できればそれでよいのだから。
 ゲーム理論からの説明も可能であるが、対象となるのは個人同士(親と子)や集団同士(企業と労働組合)となる。権力者と服従者が特定可能である。
 しかし、「権力」と「社会構造」という両方が同時に使われるとき、権力という言葉は明らかにウェーバーの定義した意味では使用されていない。

(2)観念図式レベルでの概念化
 権力という言葉が社会構造(資本主義、家父長制権力、国家権力など)と同時に使用される場合は、こちらの意味で使用されていると考えてよい。この手の権力論はミシェル・フーコーが創始した。彼は「真理自体が権力だ」と言って憚らない。もう少し分かりやすく言えば「ある人が自明視された社会的知識と科学的知識のもとで行為すること自体が権力の作用であり、知識さえも権力足りえる」ということである(盛山2000)。社会構造が権力の源であり知識を規定する。その知識を「当たり前のもの」として捉え、私たちは日常生活を送っている。
 個人レベルの権力概念は「個人の選好」を所与のものとして考える。簡単に言えば執筆者が異性愛者であるのは「私が異性愛者であることを自分で選んだ」とする。異性愛者としては私はパートナーを探すことになるだろう。しかし観念図式レベルの権力論はこうは考えない。「自分が異性愛者であることさえも社会構造(家父長制)によって決定されている」と考える。私を異性愛者にたらしめ行動させること、ここにフーコーは権力の働きを見ようとするのである。社会構造が持つ権力をもとに社会秩序や制度が構成される。社会的知識は権力であると。
 ピエール・ブルデューも内容的には近いことを述べている。象徴権力という言葉を使っているが、現状の社会構造を当たり前のものとして私たちに受け入れさせる能力である。
 この権力論では「権力者は誰なのか?」ということを考える必要がなくなる。権力は私たちのあずかり知らぬところで生成され、影響を及ぼしているのだから。

(3)集合体あるいは制度レベルの権力
 とはいえ、組織なり制度によって権力が担保されていることも少なくない。しかし個人レベルも観念図式レベルも、うまいこと概念化できていないのが現状である。
 雇い主と召使の関係を考えてみると、ここにも権力関係は存在する。召使は「解雇」という手段を取りえるのだから、それをチラつかせて言うことを聞かせることはできるだろう。ただし雇用主と召使の間には「雇用関係」にある。よって法なり倫理なりに反しない限りは、雇用主が召使に命令をするのは、制度的に保障されているとも言える。
 会社でも課長なり部長なりが課員に命令を下すが、彼らがいつも「制裁(サンクション)」をチラつかせているわけではない。組織には果たすべき目的があり、それを遂行するうえで必要であると判断されるならば、部下は命令に従うだろう。
 社会学者のタルコット・パーソンズは権力をこう定義する。「権力は集合的組織体系の諸単位による拘束的義務の遂行を確保する一般的な能力」とのことである。会社などの集合的組織には何らかの目的がある。拘束的義務とは、組織が課員に課している義務のことである。課員は与えられた義務を「正当なもの」と認識しなければならない。とある社会成員に、組織の目的は正当であること、目的達成のために協同作業を滞りなく確保する能力が「権力」であるということになる。

2.権力論の氾濫

 (1)から(3)まで権力の定義を示してきたが、「権力」の中身がかなり違うことが分かったと思う。上で示した三類型の定義も、それぞれ問題を抱えているのだが、本稿では割愛する。
 政治学も社会学も経済学も「権力と呼ばれるには何がふさわしいか」を探求してきた。しかし起こっているのは権力論の氾濫ともいえる状況である。むろん権力論に関わった学者が全員デタラメであったというわけでもないし、意図的に議論を混乱させようとしてきたわけでもない。しかし権力についての議論は混乱している。結局は「自分が権力と呼びたいものに『権力』と名前をつけた」ということをしてしまっていたのである。
 こう言い換えたほうがいいかもしれない。私たちは同じ「権力」という言葉で、異なる社会現象を観察していたのであると。言葉の使い方には気を付けよう。

参考文献
盛山和夫『権力』東京大学出版会 2000

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