平成31年度東京大学学部入学式の祝辞の感想

 上野千鶴子先生の祝辞が大変物議を醸しているが、私が祝辞の全文を読んだ感想としては「上野先生やっぱ文章うまいっすね」であった。とはいえ内容的に思う所があったので順に述べていくものとする。

1.問題の箇所

平成31年度東京大学学部入学式 
祝辞祝辞は↓のページで見ることができる。引用も↓のページからしているので留意されたい。
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html
まず先生は冒頭でこう述べる。


女子学生が男子学生より合格しにくいのは、男子受験生の成績の方がよいからでしょうか?全国医学部調査結果を公表した文科省の担当者が、こんなコメントを述べています。「男子優位の学部、学科は他に見当たらず、理工系も文系も女子が優位な場合が多い」。ということは、医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、なんらかの説明が要ることを意味します。

ここは別によい。合格率が男女であんまりにも違う場合は、何か説明がいることもあろう。次の箇所はこうある。

事実、各種のデータが、女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。まず第1に女子学生は浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。第2に東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました。統計的には偏差値の正規分布に男女差はありませんから、男子学生以上に優秀な女子学生が東大を受験していることになります。第3に、4年制大学進学率そのものに性別によるギャップがあります。2016年度の学校基本調査によれば4年制大学進学率は男子55.6%、女子48.2%と7ポイントもの差があります。この差は成績の差ではありません。「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。

この箇所は上野先生の推測がかなり入っている。順番に見て行こう。

①女子学生は浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります
 確かにそういった傾向はあると言われているし、投稿者の実感にも沿うところがある。だがこの傾向が「東京大学入学試験の受験者」にも当てはまるかどうかは、ある程度の検証が必要である。
 「東大でも合格ラインに達しているのにも関わらず、安全を考え受験しなかった女子学生が相当数いたはずだ」という仮定を調べるためには、まずそういった女子学生を見つけて数える必要がある。調べるには「東大模試でA、B判定だったにも関わらず、東大を受験しなかった女子学生」を数えればよい。A,B判定だった男子と女子両方とも数え、明らかに女子の実際の受験者数が少ないのであれば「女子学生は浪人を避けて余裕をもって受験先を選ぶため、優秀な女子学生が東大を受験しない傾向がある」ということが言えそうである(χ二乗検定とかをすると思われるが)。
 しかしそれを確かめるのは非常に難しい。なぜなら個人情報に関わるデータ提供を予備校に求めることとなるため、多分提供を拒否されるだろう。

統計的には偏差値の正規分布に男女差はありませんから、男子学生以上に優秀な女子学生が東大を受験していることになります。
 
これも言い過ぎだと思われる。「統計的には偏差値の正規分布に男女差はない」の部分は「受験生全体」の話である。東大は偏差値トップの中のトップな受験生が受験するであろうが、「東大の女性の入学者数が少ないこと」を持って「男子以上に優秀な女子が東大を受験している」と言ってしまうのは適切ではなかろう。受験生全体の傾向が東大にも当てはまるかについて、また別に調べる必要が出てくる。
 投稿者としては「じゃあ東大を受験しなかった女子学生はどの大学を受験したのか」と聞きたくなる。ぶっちゃけ東大前期理Ⅰ類Ⅱ類、文Ⅱ類Ⅲ類であれば、ここよりも難易度が高い大学は少数ではあるが日本にも存在する。海外の大学を含めればもっと増えるだろう。
 つまりは「超優秀な女子学生が東大よりも難しい大学を選択したならば、『女子学生が実力があるのにも関わらず東大を受験していない』という仮定は成り立たなくなるのではないか?」ということである。

③この差は成績の差ではありません。「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。
 
これも「性差別の結果」と言ってよいかは投稿者には分からない。依然として男女で四年生大学の進学率には差があるものの、差はかなり狭まったほうである。これは短大に進学する学生が減ったことも大きいだろう。
 また大学進学の規定要因については確かに男性女性で比べると男性の方が大学に進学しやすいのだが、「両親の最終学歴の方が影響が大きいのではないか」という研究結果もある(本田由紀『「家庭教育」の隘路』をどうぞ)。よって男女の進学率の差を「両親の意識差」で説明するのは、慎重になったほうがいい。というか社会現象を「意識差」で説明するのも慎重になったほうがいいだろう。

2.そもそも内容的に祝辞として適切だったか?

 また「入学式でこんな話聞かされる学生の身にもなってみろ」という意見もあろう。これに関してはウェーバー先生の『職業としての学問』の一部分を引用するに留める。

ある大学教授が、自分の天職を学生たちにたいする助言者たることであると考えており、しかもかれらの信頼を受けているようなばあいには、かれは学生たちとの個人的な付き合いにおいてかれらのために尽くしてやるがいい。もしかれが世界観や党派的意見の争いに関与することを自分の天職と考えているならば、かれは教室の外に出て。実生活の市場においてそうするがいい。つまり、新聞紙の上とか、集会の席とか、また自分が属する団体のなかとか、どこでも自分の好きなところでそうするがいい。だが、聴き手が、しかも自分と意見をことにするであろう聴き手が、沈黙を余儀なくされているような場所で、得意になって自分の意見を発表するのは、あまりに勝手すぎるというものであろう。
マックス・ウェーバー 尾高邦雄『職業としての学問』岩波文庫 1980 p60より引用

 上野先生が「祝辞で得意になって自分の意見を発表していた」と言いたいのではない。しかし誰も反論できない環境で意見が割れるであろう話をしてしまったのは、投稿者はあまりよくないとはおもった。ただ上野先生は文章がうまいとおもった。東大のこともしっかり褒めてるし。

参考文献
マックス・ウェーバー 尾高邦雄『職業としての学問』岩波文庫
須藤康介・古市憲寿・本田由紀『文系でもわかる統計分析』朝日新聞出版 2012


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