見出し画像

【前編】後悔や弱さを力に変えて——素直な音と言葉でなぞる、Juni.の今と未来

はっきりとどこで、という記憶こそ残っていないが、こんな私でもJuni.さんのお名前には、音楽活動を開始する前からぼんやりと見覚えがあった。
当然、今日こんにちこのようにライブハウスやイベント会場でお会いできるようになろうとはつゆ知らずである。

そして、その柔和な話し口からは見事に切り替わり、舞台上から力強く放たれる歌声には、一度聞くと忘れ難いものがある。
その歌声の根元で肥えている土には、どんな思いが染み込んでいるのか。丁寧に、爪弾くように教えていただいた。

取材・撮影・編集:永井慎之介

見られたくないけど歌いたい

——お会いしている割には、本当に失礼なぐらい何も存じ上げなくてですね……「そこ知らないんだ?」みたいなこと聞くかもしれないんですけど。

 いえいえ。むしろその方がありがたい……(笑)。

——(笑)。じゃあお生まれから早速なんですけど、生まれも育ちも郡山で?

 生まれも育ちも郡山。

——郡山の……どの辺っていうところろまでは聞いてもいいもんですか?

 あ、全然。実家が菜根で。

——へえ〜! 結構街なかですね。

 そうですね、シティガールですね(笑)。

——(笑)。幼少期はどんな風に過ごしてましたか?

 幼少期は、自分が覚えてる範囲でいうと……その菜根の実家にいたのが、3歳ぐらいまでで。うちは代々、駅前でお店をやってるので、商人が集まる金透小学校……まず幼稚園が安積幼稚園、で金透小学校、(郡山第)二中に行くというのが、私の家の決まりというか(笑)。

——昔からそうだった。

 そうみたいで。だからおじいちゃんもそうだし、お父さんもそうだし。だったので、うちの兄が幼稚園に上がるタイミングで清水台の、今ココラジ(郡山コミュニティ放送)のあるレジデンス清水台に引っ越してきて、そこに15年住みまして。だったので、まあ私は3歳からマンションで過ごしてたんですが。

 幼少期……なんだろう、幼少期はすごく、「負けず嫌いだけど恥ずかしがり屋」みたいな(笑)感じだったらしくて。だから「できるのにやらない」みたいな子供だったらしいですね(笑)。で、3歳からその居たところ(マンション)で、うちの父がバンドマンだったので、父の影響で音楽を結構たくさん聴かせてもらったし、楽器も、ギターを父が弾いてるのを弾いて……ビートルズとかやってるのを聞きながら、英語全然わかんないけどまねして歌ってたりとか。

——結構もう、昔から音楽は日常的に当たり前のように。

 そう。だから父のライブやってる会場……昔、郡山にKENTO'Sってライブハウスがあって。今のシャープナイン(郡山CLUB♯9)の並びの、地下にあったんだったと思うんだけど。そこに3歳ぐらいから連れてかれて、ぴょんぴょん飛び跳ねて(笑)踊ってたらしい。KENTO'Sって多分、郡山だけじゃなくて全国的にあったライブハウスだった気がする。系列店っていうか、全国各地に未だに多分あるかな。それがなくなっちゃったのは後から知ったけど、小さい頃からライブハウスに出入り……というか連れてかれてた感じ。

 で、そのマンション(レジデンス清水台)が特殊で、大家さんがスタジオをやってらっしゃるところだったので、結構入居者の中でも音楽やってる方が多い。スタジオで父が練習しているのをよく見に行ったりとか、小学校5学年ぐらいからは父のバンドメンバーの子供達でバンドをやろう、みたいな(笑)。隣のスタジオを借りて、子供たちで何か楽器弾いてたりとかっていうことをやってました。

——(音楽が日々の)周りにあるっていうよりはもう、がっつり音楽と共に育ったような。

 共に育った感じですかね。あるのが当たり前、みたいな感じではあったかもしれない。けど、もともとは私、音楽よりも絵を描くのとかが好きで。まあ多分もともと根暗なんだと思うんですよ。だから、ひとりで地味な作業をずっとやってるのが好きで、絵描いたり詩を書いたりっていうのを黙々とやってた感じで。だから、昔は「美大に行くのかな?」とか言われて、本当にちっちゃい頃。

 って言われてたけど、でもやっぱり音楽が身近だったのもあって、「歌を歌いたいな」って思い始めたのが小学校4年生のとき。合唱部に入って。小学校でよくある、合唱部の先生がパートを決めるのに一人一人新入部員に声出させる、みたいな。そのときにその先生に、「6年生よりうまいんじゃないか?」って、「いい声してるんじゃないか」って言われたことが、なんか、ものすごく嬉しくて。「えっ、そうなんだ」と思って。「じゃあ私歌う人になる」みたいな(笑)めちゃくちゃ単純なの。そこから今に至る、みたいな。もうずうっと多分、それを信じて生きてきた気がします。

——絵を描いたり詩を書いたりっていう部分は、周りの誰かに見せたり褒められたりとかっていうことは?

 見せたり褒められたりは、してはいたんですけど、そこはあんまり自分のアイデンティティにはならなかったというか。ただ、今その感じでデザインの仕事はしてるから、基本好きなんだろうなとは思うけど。

——声出しで歌ったときの手応えと、褒められたのが、なんかバチッとハマったような感じ。

 バチッとハマったんでしょうねえ、多分。やっぱ「歌うのが楽しい」って思ったんだろうなって。でも人前に出るのは大嫌いで。

——そうですよね(笑)。

(笑)そう、だから「見られたくないけど歌いたい」みたいな感じ……未だにそれは同じ感覚で。

——なんとか、とりあえず出て歌って、みたいな。

 なんとか出て歌って(笑)歌えるなら頑張って出る、みたいな感じです。

すごく自分の価値がないような気がしちゃって

——じゃあ、中学校に行っても続いて?

 合唱部は、小学校・中学校それぞれ3年間やったから、トータル6年間やって、どっちも部長やらせてもらってたんですけど。やっぱりその根暗がすごくネックで。小学校はまだギリギリ普通に登校してたけど、中学校になったら……うーん。すごく周りと馴染めない気がして、どんどん自信をなくしていって。「自分を認められない」みたいな時期がずーっと続いてて……ただその中でも歌は歌って、みたいな。授業は出ないけど部活は出たい。

——なるほど。部長だったらでも、責任感じゃないですけど、お仕事とかもあるだろうし余計大変ですよね。

 でも、合唱部のそういう役割的なものに対してはすごくやる気があって。それ以外は本当に嫌だった、学校が(笑)。

——ああ、じゃあ音楽だけは前向きにやれて。

 音楽だけやれればよかったみたいな。すごくその……環境に馴染むのにすごく時間がかかるタイプで、小学校って6年間あるから、子供だしあんまり深く考えずにいれたんですけど、ただ中学校入ったらいろんなことを考えて。自分の容姿も含め、能力も問われてくるじゃないですか。勉強とかスポーツとか、できるできない。そういうのがもう積み重なって、すごく自分の価値がないような気がしちゃって。「でも歌は歌ってたい」みたいな、ずっとそれだけは根底にあったから生きてこれた、みたいなところがあるんですけど。

——考えること多くなる時期ですもんね。考え……られるようになるというか。

 そうですね。3年間でどうしても馴染めない……3年間の本当に最後の方で、やっと心を開くみたいな。中学校でも高校でも、そんな感じでした。

——最終的にはでも、開く方向にはいけたんですね。

 頑張ってた感じは……(笑)でも若干やっぱ不登校みたいな感じで。

——100%歌ですか? 楽器とかもやったりされました?

 うんと、ギターは父が弾いてたのを見よう見まねで弾いたりとかしてて、なんとなくだけ弾けるみたいな、中学校の時点で。ピアノはコード弾きみたいなやつを、マンションのスタジオがある側で……音楽やってる入居者が集められてるのが4階、5階、6階で、私5階だったんですけど、4階がピアノの先生。いつもピアノの音が聞こえる。で、6階が音響さん。いつもなんか聞こえてくる(笑)みたいな、なんかうるさい端っこだったんですけど、だからマンションだけど気にせずピアノを弾ける。アップライトのピアノが部屋にあって、それを適当に弾きながら、適当に歌って。それは小学校……多分4〜5年ぐらいから、適当に弾きながら歌ってた感じ。

——「適当」は形になっていったんですか?

 いや、全然ならなくて。ただ楽しくてやってる。その中で、私がポップスを歌うようになったきっかけが、小学校5年生のときかな。ドリカム(DREAMS COME TRUE)の『DELICIOUS』っていうアルバムを……初めて自分のお小遣いでアルバムを買ったのがそれで。初めて買ったのもあるし、「すごい、この人」と思って。「こういうふうに歌えるようになりたい」と思って。ずっと多分、CDだけど擦り切れるまで聴いて、一緒に歌うみたいな……フェイクとか真似して歌ったりとか。っていうのを、大声で窓開けた状態で(笑)マンションなのによくやってたなと思うけど。それが小学校……高学年から中学校ぐらい。

——歌うことにおいては結構、その一枚が根っこにあるような感じ。

 めちゃくちゃ根っこ、土台だと思う。歌の教科書だと思う。その後いろんな音楽を聴いたけど、多分あれが今もなお土台になってる。

ウチに生まれてなかったら、もっと何も考えずに不良になれたかも

——音楽の話めっちゃいっぱいお聞きできてすごくありがたいんですけど、そのぐらいの時期で、音楽に全然関係なくてもいいので、印象に残ってるできごととか記憶ってありますか?

 なんだろう…………なんだろう(笑)人格形成の部分でいったら、多分……私、実家が柏屋(株式会社柏屋)なんですけど、それがものすごく重圧っていうか、プレッシャー。

——幼少期から感じてたんですね。

 めちゃくちゃ感じてて。だから、そういう視点からいくとすごくこう、「いい子でいなきゃいけない」ってずっと思ってて。だから「外面よく」じゃないけど、挨拶はちゃんとするとか、子供ながらにだけどね。そんな感じでとにかく「いい子でいなきゃ」っていう、「家の汚点になってはいけない」みたいな……ちょっと表現が強いけど、そういう意識がずっとあって。どこまで喋ったらいいのか分からないけど(笑)。

——全然、話せる範囲で。そうしたら、中学のときの思い悩んでいたところとかにも関係していた?

 もちろん、未だにそれはあって。多分これは一生あるものというか、当たり前に一生付き合っていかなきゃいけないなっては思う。多分、音楽の話ばかりになるのって、それを拭いたくて。「柏屋の娘」の私じゃなくて、ただの一人の人格、私の価値っていうのが欲しかったんだと思う。だから多分「歌だ!」っていうのがすごく、ちっちゃい頃から強かったんだと思う。だから、他のことではいい子でいるけど、歌うときは勝手に、自由になれるみたいな。

 でもその「いい子でいる」っていうのが、意外と難しくて。やっぱり中学、高校とかって、反抗期もあるし、着たい服だってあるし。ルーズソックス履きたかったし(笑)履いたけどね(笑)。だから例えば、「もしウチに生まれてなかったら、もっと何も考えずに不良になれたかもしれない」とか。「高校生としては悪いこと」みたいな……夜の街に行ったりとか、そういうのもすごく中途半端なところで「ああ、こっから先はだめだ」「悪いことできない」みたいな、いつもそのブレーキをかける自分がすごく嫌だった。だから、音楽に結びつけないとしたら……そこだけでみたら家が負担で、家柄が負担で、人の目をすごく気にしていた……いる、まだいる人生ですね。

——でも、音楽ってカウンターカルチャー的というか、本当の自分の表現をするためにあるみたいな部分もあるじゃないですか。そういうのが、そのおうちの中ですぐ近くにずっとあったっていうのは不思議だなと、聞いてて思って。

 多分だけど、父も悩んできたんだろうなって。これは記事にはできないかもしれない……してもいいかもしれないけど。「継がなきゃいけない」っていうのもあったけど、やっぱり音楽が大好きで、父はプロになりたかった。だから私が多分「音楽で食べたい」「歌で食べたい」って言ったときに、自分の夢を託してくれたというか、すごく応援してくれて、それはありがたかった。反対はされなかった。当たり前に「お前は歌うんだろう」みたいな感じで、受け入れてくれた気がする。

——明確に「歌をやる」っていう話をしたタイミングがあったんですか?

 いや、「やりたいから応援して」っていう話を自分からしたことはないかもしれない。多分してはいなくて、「やるから!」みたいな。普通に「歌うから」「おう、頑張れ」みたいな感じだと思う。まあでも、心配はされてたんですけど。

 18歳のときに、「高校卒業してからどうするんだ?」ってなって、「どうしよう」ってなって。私は音楽の専門学校に行こうかとか考えてたんだけど、「音楽で成功すればいいけど、成功しなかったときの保険みたいなものは考えた方がいいんじゃないか?」って言われて。でもやっぱ、音楽にどうしてもプラスになるものじゃないとやる気が絶対出ないから、どうしようと思って。あと、郡山にいるのがすごく辛かった。福島県内だったら、やっぱり絶対知ってるし。名字も珍しくて、その名字聞けば「あ、柏屋さんの?」って言われるくらい珍しいから。この土地にいるのがすごく辛くて、出たかった、県外に。だから東京の、音楽にも絶対役に立つだろうと思って、高田馬場にある通訳の専門学校に行ったんだけど。

——あ、へえ……!

 行き始めてすぐくらいに、インディーズデビューの話が出て。

インディーズデビューをしてからシンガーソングライターになった

 それも、親の関係でそういう話がきて。でも、すごく大きい話で、レコーディングもニューヨークまで行ってやって。そのときに父親が、たまたま出会ったジャズギタリストさんで、吉田次郎さんっていうジャズギタリストさん。ケイコ・リーのバックとか、SMAPとかもやってたりとか……ジャズ界では本当にトップのその方と知り合って、「娘、歌ってるんですよ」みたいなことを良かれと思って言ってくれて、そしたら「柏屋の社歌を作ろう」みたいな……こんな詳しく言っていいの?(笑)

——(笑)Juni.さんが大丈夫であれば。

(笑)全然大丈夫です。柏屋って、昔から子供の詩を集めてる「青い窓」っていうのがあって。

——あ、お店の前に置いてあるやつ。

 そうですそうです。子供の詩を集めて、掲示して、青い窓の会報みたいなのも出してて。その詩を見た吉田さんはすごく感銘を受けて、「これを曲に、音楽にしたい」と。「CDにしましょう、社歌も作りましょう」って言ってくれて。で、作ったわけです、アルバムを。作ってくれて、歌どうするってなったときに、私が歌うことになる。その歌を録るためにニューヨークまで行って、レコーディングをして。そのときはデビューの話はなかったんだけど。

——あくまでもその社歌、アルバムのために。

 そう、アルバムを作って。ただそのレコーディングメンバーがものすごいメンバーで。グラミー賞を取ってる人とか(笑)そんな人ばっかりだったので、社歌作ったのは作ったけど……社歌っていうか、会社が今まで集めてきた子供の詩を形にしたっていう、もうそれで良かったんだけど、「もったいない」ってなっちゃったの、その、オケが。すばらしいんですよ、それが。で、もったいないから、「これもう、このオケを使って歌詞もメロディーもつけなおして、私のファーストアルバムにしよう」みたいな。デビューアルバムみたいな、っていう話に大人たちが……。

——盛り上がっちゃって(笑)。

(笑)盛り上がっちゃって。で、それを言われたときに「嫌だ」って言えなかった。それも、やっぱ「いい子でいなきゃいけない」っていう小さい頃からの呪縛に囚われて、それを嫌だって……正直自分が歌いたいものではなかったし、歌いたいジャンルでもなかったし、演奏がすばらしいのはわかるけど。

——思ってた夢の叶い方ではなかったですよね。

 ではなかった。それで首を縦に振るしかなく。「やります」っていう。で、やってインディーズデビューをして、そのアルバム、その楽曲でデビューして。やっぱり自分が歌いたい曲ではないものでデビューしちゃったから、でもそれでライブをしなきゃいけないし、その作品を売らなきゃいけないし、お金もかかっちゃってるから。それが辛くて辛くて、早くそこから脱したい一心で、ギターを持ち、自分で曲を作って歌うっていうのをやり始めた。だから、インディーズデビューをしてからシンガーソングライターになった。

——走り出しは、言ったらボーカリスト的な形で。

 そう。もともとは、高校のときとかはブラックミュージックが好きで……郡山にいたくなかったから高校は桜の聖母(桜の聖母学院高校)に行ったんですよ。郡山よりは知ってる人が少ないっていうか(笑)新しい世界と思って行って。そのときに知り合った子、他に音楽やってる、ラップやってる男の子とかと一緒に、イベントやったりとか、クラブイベントやってみたりとか、バンドやってみたりとか。だからどっちかっていうとシンガー色の方が強かった。楽器を持って一人でステージに上がるとか、全く考えてなかった。

——今みたいな感じの活動の始まりでいうと、デビュー後になるんですね。「そこから脱する」ために、どんな曲を書こうと思いました?

 特に「どんな曲を書く」っていうわけじゃなかったけど、やっぱりつらいことが多かった……もっとつらい人もいるだろうけど、自分の中ですごく葛藤が多い幼少期だったから。ひとにものすごく気を遣ってきてしまったから、人が怖いとか、人と関わるのが怖かったりとか……それは今もあるんだけどね。だから、同じような気持ちの人に伝わるっていうか、「一緒だよ」って言えるような曲を。そういう曲を書くきっかけになったアーティストは多分、Coccoと鬼束ちひろかな。一番多感なときに出てきて、聴いてて「わかる!」って、「私も消えたい!」みたいな(笑)「誰も見ないで私を!」みたいな。

——出会いはおいくつぐらいのときだったんですか?

 多分17歳とかじゃないかな。Coccoと鬼束ちひろ、椎名林檎……その歌詞の世界に救われたところがあって。だから明るい、前向きな、「明日も幸せだよ!」「未来は幸せで溢れてるよ!」みたいな音楽じゃなくて、「明日もつらいかもしれないけど、とりあえず生きよ?」(笑)「生きてればなんとかなるんじゃない?」ぐらいの、「でも消えたくなるのはすごくわかるよ」っていう……共感みたいな音楽をやりたかった。やりたかったっていうか、作り始めたら普通に自然と出てきたのがそっちだった。書く歌詞、書く歌詞、暗いんだよね(笑)「あれ? またこんなの書いてる?」。自己肯定感がないというか、「自分を信じるにはどうしたらいいんだ」みたいな、「今すぐ消えたい、けど大事な人いるから消えれない」とか、そんなのばっかり歌ってた。

<次回>
背中を押してくれた人々と、迎え入れ、肩を組んでくれた人々。
*後編は5月8日公開予定

記事に頂いたサポートは、全額をその記事の語り手の方へお渡しさせて頂きます。