見出し画像

【前編】なにもないこの場所から、すべてが生まれてゆくように。BeKoが掲げる「地方最強」論

「福島にはなにもない」
県内のプロジェクトやメディアなどで、時折目にすることのある切り口のひとつだと思う。
美味しいものも綺麗な景色もあるのに、どうして「なにもない」だなんて言うんだろうと、正直なところ私は疑問に思っていた。

福島のすべてをそのファインダーに映し、今もそれを続けているBeKoさん。取材の中でその疑問の答え合わせができたとき、それまでに伺ったあらゆる話が一本の線で繋がり、そしてそれは未来に向かってなお伸びていた。

そして、このキャッチフレーズには続きがある。
「なにもない でも ぜんぶある福島」
ぜんぶある——それは観光資源やインフラのような物質的なことだけではなく、人の思いや希望などのような目にも手にも触れないものたちも、確かに含まれているのだと実感した。

取材・撮影・編集:永井慎之介
取材協力:AREA559

そんなに好きじゃなかった。昔はね

——さっそくなんですけど、幼少期の自分って今と比べてどうでしたか? 今とは違うと思うか、ずっと今の感じだと思うか。

 幼少期は今と全然違って。一人っ子なんだけど、ずーっとゲームばっかりやってた。結構じいちゃん家がたまり場になってて、学校帰りとかはみんなで集まってうちでゲームしてた。土日もほぼゲームだったけど、たまにじいちゃんに連れられて出かけたりとはした。今よりは内向的な方だったかな。

——一番好きなのがゲーム、ぐらいの感じですか?

 そうだね。『64(Nintendo 64)』かな、当時は。それから『プレ2(Play Station 2)』が出て……ずーっとそればっかりやってた。

——会津美里町ご出身ってことなんですが、住んでたところのエリアって、どんな感じでしたか?

 会津高田っていうんだけど、合併前は。伊佐須美神社の近くで。伊佐須美神社って結構有名な神社で、「会津」っていう名前が生まれた場所だったりして。初詣の時もたぶんね、県内で3番目ぐらい(の参拝者数)かな。結構敷地も広くて、あやめがあったりとか、池があったり、遊ぶとこがあったり。じいちゃん家がその目の前で、よく遊んだりしてた。両親共働きだったから、じいちゃん家によくいた。
 有名なのが……特にないかな(笑)祭りとかはたまに行ったけど。まあ、ほぼ田んぼしかなくて……あんまりそんなに好きじゃなかった。昔はね。

——そうですか。……あ、その住んでた当時、子供の時は。

 そうそう。高校までは住んでたけど、その時はあんまり好きじゃなかった。

——今はどうですか?

 高校卒業して、仙台の専門学校に行って、そこから社会人になって違う土地に住むわけじゃない。たまに帰った時に、やっぱり良さを実感してくわけよ、よくある話だけど。それでだんだん好きになってきたって感じかな。やっぱ大人になると見る視点が変わるから、それで好きになった部分っていうのもあるし。

——何か子供の時の、印象的だったり、よく覚えてる思い出とかエピソードみたいなのってありますか?

 両親が共働きだったから、じいちゃんによく車で連れてってもらって、電車を見に行ったりとか、裏磐梯の方に行ったりとか、いわきに行ったりとか……結構いろいろ回ってたんだけど、それが今に繋がってる部分はあって。写真撮り始めたときに、やっぱりたぶんひとより結構知ってたの、いろんなスポットとか。(福島県内)59市町村巡った時も、じいちゃんと一緒にいろんな土地に行ったのがあったから、よく回れた、みたいな。馴染みのあるところにも行けたし、「ここ行ったなあ」って思い出したりもした。

 あとは……車に乗る時に、ドアに指をかけてたの。そしたらそれに気づかなくて親がバーンって閉めて、指が挟まったとか(笑)。

——いってぇ……!

 それは覚えてるかな。

——今でこそ福島はくまなく巡ってるけど、その頃からやってたことではあった、ってことですね。

 そうだね、そうそう。連れられて……それがルーツになってるってのもあるかもしれない。

——いっぱい巡ったとは思うんですけど、当時「ここ行ってめっちゃ感動したな」とか「ここめっちゃ楽しかったな」みたいな場所はありました?

 なんかね、トンネルが好きだったみたいで(笑)。喜多方から米沢に抜ける大峠っていうとこ、トンネルが5~6個あるんだけど。

——結構長いですよね。

 うん、そこをよく行ってたらしい。

——目的地っていうよりは、ドライブ?

 ドライブかな。あとは冬、猪苗代に行って、白鳥にパンの耳をやりに結構行ってた。そのくらいかな、出かけたのは。あとはほぼゲーム。

——そのドライブはいつ頃まで?

 小6とかかな? 中学から部活が始まって、行かなくなった。

——部活って何やってたんですか?

 ソフトテニス。

——似合うな~(笑)。

(笑)。中学校の時は一応3年で部長で、高校の時もまあ、県大学ぐらいだけどちゃんとやってた。

——結構、頑張ってというか。

 うん、楽しくやってた。周りがやっぱ、結構頑張ってた感じだったから。

初任給で初めて買った

——中学・高校あたりだと、まだライブとか音楽みたいなところには出会ってないです?

 一番最初の出会いは中学……何年だろう。2年? 3年? 太陽族が最初で。インディーズロック、太陽族とかガガガSPとかSHACHIとか、その辺が入りだった。

——何きっかけで入ったんですか?

 友達がCDを持ってきたの。お兄ちゃんが聴いてるやつとかを持ってきて、それを聴いたら結構ハマって。

——ライブを観にいったりもしました?

 ライブは行かなかった。仙台に行くまでほぼライブ行ってないかな。

——ああ、じゃあ音源をめっちゃ聞いて。

 うん。会津のライブハウスにも太陽族は来てたけど、ちょっと抵抗あって。

——それはなんか、おっかないみたいな感じの?

 うん、多少あったかな。あと帰りがね、帰れなくなる。若松~美里の電車が早く終わっちゃうから。

——なるほど、確かに。会津でライブハウスっていうと、Karan堂ですか?

 の前に、BARDLANDっていって、映画館の地下一階にあった。でもその映画館は燃えて無くなって、今ロイヤルプラザっていうところでKaran堂になったけど……今度ロイヤルプラザが取り壊しになるよね。

——そうですね。その後ってどうなるんですかね……どっかに移転するのかな。

 どうなんだろうね。月に何本かはライブやってるみたいだけど。

——進学で仙台に行くじゃないですか。それって、将来の夢的なものが?

 当時やりたかったのが、自動車整備士だったの。で、整備士の専門学校に。

——整備士っていう仕事とは、どこで出会ったんですか?

 何なんだろう。車が好き……? でもきっかけとかは覚えてないな。

——さっきの「ドライブが好き」みたいなところとは別に関係ない?

 うん。ああでも……D1グランプリかな。ドリフトを見るのが好きで、D1グランプリっていうのが当時全盛期だったから、それを高校のとき観に行ってたのかな……ドリフトがきっかけって好きになったのかな、思えば。

——それって福島でやってたんですか?

 二本松のエビスサーキットで。大会は全国でやってるけど。

——それもあって、みたいな感じですかね。仙台行ってからライブとか行き始めるっていうのは、どんなきっかけが?

 仙台で付き合ってた彼女がライブ好きで、連れてってもらってた。その子も太陽族が好きで。

——おお、すごい。好みが合ったんですね。

 そう、それで一緒に行った感じ。

——最初ライブ行った時どうでした?

「ああ、画面の中の人だ……」みたいな(笑)。

——へへへ(笑)。結構いっぱい行きました?

 行ったね。the pillowsもその時、教えてもらって好きになったし。MACANAも移転する前だった、震災前で。

——え、移転する前ってどこにあったんですか?

 広瀬通があって、フォーラスがあんじゃん、ここに。で、アーケード、ここにディズニーストアだっけ。……の、この辺。

——あ〜、そっちの方だったんですね。

(ディズニーストアの裏手側、エビスヤビル地下1階。MACANA主催のコンピレーション盤『EBISUYA FILE』はここに由来するそう。以下出典。)

 そうだね。そこから、通りをまたいで移動したみたいな。写真あるよ。

——(写真を見て)へえ〜! でもなんか雰囲気は変わんないですね。結構じゃあ彼女さんきっかけで影響というか、趣味が広がった感じ。フェスとかも行きました?

 フェスは、2009年に初めてアラバキを観に行って、そっから10年間は毎年行ってる。

——すげえ……(笑)そんな人いるのかな。

 いるいる、結構いる。……そうだね、10年はもう間違いなく。

——専門学校だったら2年で終わって、そのままじゃ向こうで就職を?

 そう。最初の配属が……研修で岩沼市にいたのね、仙台市の下のほうにある。研修が終わってから、須賀川の支店に来て。

——あ、戻ってきた。

 だいたい地元配属だからね。須賀川の支店に来て、27歳くらいまでいたのかな。

——なんやかんやでじゃあ、それこそ10年ぐらい。

 うん。27のときに転勤で会津に行って、で辞めてって感じ。

——ちなみに、今に繋がる写真との出会いっていうのは、どのあたりからになりますか?

 20歳かな、確か。初任給で初めて買ったんだよ、カメラ。で、研修の時に住んでた岩沼市から閖上ゆりあげ海岸っていうところが近くて、そこで初めて、買ったカメラで写真ちょっと撮ったんだけど……途中で飽きて。

——それまでは写真とか興味持ったりしたことは、別になく?

 そんなには……うん。なかったね。

——そっからまた再燃するのは?

 のは、震災後だね。

自分に言われてるような感じがして

——震災の時はもう福島にいたんですもんね?

 そう、須賀川に。

——めっちゃ被害受けたわけではないけど。

 うん。水が2日止まったくらいかな。

——震災受けて変わった部分とか、芽生えたものとかも。

 震災以降の話がたぶん一番長いと思う(笑)。

 震災後にさ、県外のミュージシャンがたくさん歌いに来てくれたじゃん。細美(武士)さんとかさ、BRAHMANとか。フェスとかもやってたりして。その時に、あるアーティストで、「これからの福島をどうしたいんだ?」って言ってる人がいて。「これからはもう自分たちでやらなきゃダメだぞ」みたいな感じで。それがなんか、自分に言われてるような感じがして、「自分でも何かしたい」って思って。

 当時NHKを観てて、箭内(道彦)さんと郡山市民が集まって、喋ってる映像が流れてた。そこで、その人たちが「福島リアル」っていうコミュニティを作ったの。

 それをmixiで見つけて、「俺もちょっと参加してみようかな」と思って参加したの。当時、なんかモヤモヤしてる人たちとかが集まったコミュニティなんだけど、そこで音楽好きの、同じように何かしたいって言ってた松崎(竜也)と出会い、何か音楽イベントやろうってなって、そこで「DIVE福島」が生まれた。
 そのイベントを発信していく上でホームページとかもちゃんと作って、写真も必要だよねってなったんだけど、ライブ写真を撮ってる人は誰もいなかったの、当時。「それだったら自分で撮ろう」ってなって。

——カメラもあるし。

 そう、そこからライブを撮るようになった。

——ええ〜。自分の企画がきっかけだったんですねえ。

 そう。あとカメラだけじゃなくて、自分も何か出演者で出たいなっていうのもあって、それでDJもちょっと初めて。

——楽器には行かなかったんですね。

 ギターとベースをちょっとやったんだけど、挫折した(笑)。DJなら、まあまあって。

——それと一緒にじゃあ、風景写真もまた復活みたいな感じに?

 うん、そうだね。イベントやりつつ、風景写真撮って福島の良さも発信していければいいなと。そこでまた再燃して、撮り始めた。

——俺、当時は高校生だったんで、DIVE福島にはちゃんとコミットしたことが一度もないまま終わったんですけど、どんなイベントだったんですか?

 基本的には地元のアーティストをメインにして、プラス1組、関東とかからゲスト。あと出店者を必ず入れてた、復興支援活動してる人とかのブースを入れたりとか。

——ライブハウスでやってたんですよね。

 シャープナイン(郡山CLUB♯9)が、ほぼ。最初の1年目に4回やった。

——うおお(笑)初速めちゃくちゃ速いじゃないですか。

 そう(笑)で、たぶん今でこそ、ライブイベントにDJ(も一緒に参加)ってよくあるじゃん。それ(県内で最初に)始めたのたぶんDIVEなんだよ。あんまりやってなかったからね、DJ入れてっていうのは。

——それまでってじゃあむしろ、棲み分けというか、「それはそれ」っていうような。

 そうそう。ライブはライブ、DJはDJ……クラブイベントとかね。あと、ライブカメラマンっていうのもたぶん、俺が最初だったのかな。

——ああ、県内では。

 そうそう、割とちゃんと発信するようになったのは。

——ええ〜。パイオニアじゃないですか。

 イベント重ねてるうちに、雑誌の『POPEYE』の人から取材受けたりとか。

——おお〜。「なんか面白いことやってるぞ」と。

 そうそう。あと民報さん(福島民報)、民友さん(福島民友)とかからも。

——結構じゃあ、注目度高めというか。

 うん。(渡辺)俊美さんとかにも来てもらった。

 あと俺、箭内さんがやってるLIVE福島の、ドキュメンタリー映画に出たことがある。

——ええ〜〜。

 内容としては、「LIVE福島に参加して、思いが変わった人」っていうのを募集してて、「参加します」。

——それは、カメラの前で思いを述べる、っていうような?

 そうそう。で、そうだ、DIVE福島vol.1を取材してもらったんだよ。時系列的には、LIVE福島があって、福島リアルがあって、DIVE福島vol.1。

——ああ、なるほど。結構じゃあ根っこというか、スタートの部分にそれがあったんですね。

 うん。確か2012年。

ただのライブイベントじゃなく、ちゃんと考えてた

 で……(データを探す)……2012年7月21日、なんと野外ライブをする。

——DIVE福島で?

 そう、「DIVE飯坂」として。ご当地アイドルを立ち上げするっていう人がいて、じゃあ出てもらおうってなって。その時にターキンさん(DEFROCK)と繋いでもらったんだよ。

——おー……(ターキンさん)変わらないなあ(笑)。

 そうなんだよ(笑)。
 あとフードで(音楽食堂)SessioN、熊田さんとかに。
 で、これ俺、DJ。トオルちゃん(ONE STROKE)もいて。

——BeKoさんも変わんないですねえ(笑)。

 うん。
 MITCH-MAN……いや、BRAVE MANだ。3人ユニットだったのよ。

——あ、そうだったんですか。

 あと飯坂だ♨べしたーず。三味線の人たち。
 ……衰退(羞恥心/現・thing of gypsy lion)。hpnさんのいた頃だね。
 松崎のバンドと、申。

 ……おばあちゃんが入ってくる。

——(笑)。

 で、ひとりぼっち秀吉BANDにトリを任させてもらって。この時が秀吉BANDの出会いかな。

——結構全年齢的というか、みんなが楽しい感じですね。やっぱパワーあるなあ、秀吉BAND(笑)。

 これも、「おと酔いウォーク」の先駆けだと思う。

——また先駆けてる~(笑)。

 この次から「おと酔い」始めるのかな、ターキンさん。

——ああ、「あんなんやりたいなぁ」みたいな。

 そうそう。次の次の年だったかな。

——すごい、めちゃくちゃパイオニアじゃないですか。

 これもいろいろ考えた上で「外で」ってなって。やっぱ「ライブハウスに抵抗あって行きたくない」っていう人もいるし。外でフリーのイベントをやれば人が集まってくれるし、飯坂温泉の立地、観光地としての立地も生かして。

——確かに。ベストな場所かもしれないですね。

 うん。ターキンさん、何で知ったんだったかなあ。Twitterかな。「なんかラップしてる果樹農家の人いる」って。

——ふふふ(笑)。

(笑)そうだね、あと街のイベントとタイアップ、とかもやったかな。そんな感じでDIVEは……2016年くらいまでやったのかな。まあ、各々結婚したりとかで、できなくなって。

——でも、かなり続いた方じゃないですか? 当時いろんなイベント、たぶんあったと思いますけど。

 うん。単発で終わるのが多かったから、ある程度は続けないと意味ないと思って。

——ブランドというか、その名前で知ってもらえるっていうのもあるでしょうしね。

 うん。……あ、何年だったか忘れたけど……憧れの、太陽族の花男さんにも出演してもらえることになって。

——おおー!

 あとDIVE関連で言うと、ACIDMANが毎年3月11日にいわきアリオスでライブやってるんだけど、「その時のホールで何かやらないか」って平山さんに言われて。真ん中にACIDMANのサインだけもらって、その周りにみんなから福島へのメッセージを書いてもらうっていうブースを作ったり。

ACIDMANホールライブでの寄せ書き

「ふくしまっぷ」っていうのを作って、「こういう名所があるよ」っていうのをみんなにいろいろ、書き込んでもらったり。2013年と、2014年にやったのかな。ブース作って、復興活動してる人たちの商品も置いたりしてたりした。

ふくしまっぷ

 あ、あとあれだ……AIR JAM出た。

——(笑)さらっと言いますけど。

(笑)出たじゃない、出店、出店。

AIR JAM2012 DIVE福島ブース

……で、花男さんは2014年だった。

——それはアツい伏線回収でしたね。

 そうそう。
 で、AIR JAMは2012年にブース出させてもらって。知り合いとかも来てくれて、これも寄せ書きをスライドショーにした動画があったと思う。そういう復興のイベントとかをしてるブースの会場だったんだ、確か。福島からはうちだけだったかな、たぶん。

——本当に注目度が高かったんですね。

 うん、発信はかなりしてたし、当時は結構活動的だったかな。

——寄せ書きとかもそうですけど、バンドマンとはまた違う企画力があって面白いですね。

 そうだね、一緒にやってた松崎とか、デザインしてたしゃっちょとかも、結構NPOの活動もしてたりとかして、頭いい人たちだった(笑)そのNPOも復興活動とかしてるところだったから、結構アドバイスもらったりもしたかな。だから企画力は確かにあった。ただのライブイベントじゃなく、ちゃんと考えてたね。

<次回>
写真で繋いだ人の思い、そして現在のミッションについて。
*後編は4月8日公開予定

記事に頂いたサポートは、全額をその記事の語り手の方へお渡しさせて頂きます。