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【前編】答えはひとりひとりの中に——Merry Shone.のオリジナリティにせまる。

艶やかな歌声と物語的な歌詞世界、リズムの心地よさを併せ持つMerry Shone.さんの歌。
私が初めて耳にしたのは、昨年初旬に公開された『足跡』という楽曲のミュージックビデオの制作依頼をいただいたときだった。

今回お話を伺い、そのオリジナリティの根底にあるものを垣間見ることができただけでなく、シンガーソングライターとしてのこだわりや矜持のようなものも感じさせていただけたように思う。

混ざり合った絵の具の鮮やかさのように、ひと目で訴えかけることができないのが文章という伝え方のもどかしさだが、
その分じっくりと、取材を追体験するように、その語りを楽しんでいただけたら幸いに思う。

取材・撮影・編集:永井慎之介
取材・撮影協力:ふくしまFM

*本記事は、ふくしまFM「FUKU-SPACE」2月8日放送の「つながる音楽」のコーナーと連動しています。あわせてぜひお聞きください。
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大きくなったら漫画家になりたい

——こだまさんとかの記事を読んでいただけてるということで、なんとなくこんな感じ(の取材)っていうのはお察しいただいてるかなと思うんですけど、お生まれから今に至るまで、あとこれからっていうのを(伺っていく流れです)。

 ふふふ……(笑)。生まれも育ちも福島県福島市。幼少期は……多分2歳の頃から日本舞踊やってたんですよ。踊り方とか、それこそお着物の作法、着付けとかをやりつつ……あとはうちの親戚、両親の親とかもそうなんですけど、クリスチャンっていうことで、ずっと教会学校に通ってたので、日曜日になるとだいたい教会に行って、賛美歌歌ったりしてました。
 小さい頃から、父が洋楽系が好きで、家でレコードをかけていたりっていうのがあったので、気づけば……あんまり邦楽っていうのはそこまでなかったんですけど、音楽が身近にありました。元々うちの母親もエレクトーン奏者だったので、家にでっかいエレクトーンがあったり、母の実家にピアノが2台ぐらいあったんで、そこでちょっと弾き方を習ったりっていうのをしながら、遊びでやっていた幼少期でした。

——本当にじゃあ、いろんな文化というか、幅広く。

 そうですね。ちっちゃい頃は漫画本とか読むのが好きで、でもさっきラジオでちょっとお話ししたように、小学校に入って合唱に出会うんです。でもずっと漫画本とかを読みながら……大好きだったんで。その頃はやっぱり将来は、大きくなったら漫画家になりたいなっていう思いでいましたね。

——あ、描くほうもお好きだった。

 描くほうも好きでした。ただ、描くんですけど、ちゃんと漫画を描かれる方ってこう、起承転結、ストーリーの膨らみっていうのを考えて描くと思うんですけど、私の場合、描きたいものがすごく断片的だったので、もうそのシーンが描ければ満足。ストーリー的にはあまり……すぐに一個作って「はいオッケー、おしまい」みたいな、飽きがきてしまう感じだったんです。
 中学校に入ってから今度部活動が始まって、部活では卓球部だったんですけど……思いのほかこう、「やるならしっかりやろう」っていうので、練習をがっちりやってたら結構強くなって、県選抜とか選ばれて、強化試合とか合宿とか行かせていただいてましたね。その傍らで日本舞踊も続いていて、漫画もたまに読んだり描いたりしてて……中学校の時には全然、音楽っていうのとは関わりがないままいたんです。

——それは、邦楽的な部分、ポップスとかでも。

 ポップスもあんまり多分、当時聞いてなかったですね。父親がテレビでやってる音楽番組とかをあんまり好まない人だったんです。なので家であんまり、当時テレビでやってた音楽番組を見ることがなかったのもあって、友達との喋る内容の差っていうのもあったりはしたんですけど。
 でも今思い返せば、中学校も結構合唱に力を入れてる学校だったので、全校生徒で一緒に歌唱する機会があったりとか……前後して申し訳ないんですけど、私が通っていた小学校が福島大学の附属小学校だったんですけど、福大のオーケストラなのかな、年に一度演奏を聞かせてもらえる機会っていうのがあったんですね。その中で当時の私がすごく心打たれた曲があって、昼休みに先生に「この間の大学生のお兄さんお姉さんがやってたあの曲を聴きたいんですけど、ありますか?」って言って、音楽室の真ん中に椅子を置いて……操作する機械は隣の部屋にあったので、先生にその曲をピッてかけてもらって、それを一人で延々と聴いている昼休みだったんですけど。それが確かT-SQUAREの『宝島』だったんですよ。 

 その時に初めてフュージョンっていうものを知ったんです。それは歌メロがないんですけど、ちゃんと主旋律を楽器が演奏してて、それでちゃんと情景が見えるっていうのがあったんで、多分ちっちゃい頃からそういうのが好きだったんだろうな……っていうのをふと思い出したんですけど。

 中学校に(話が)戻って、3年生になって「そろそろみんな受験だ」っていう時期になるんですけど、そうするとだいたいみんな部活には来なくなるじゃないですか。でも私はまだ続けたくて、3年生の中でも一人部活に行って、すごく練習してましたね。
 高校に入ったら絵をやろうと思ってたんです。元々漫画家になりたいと思ってて、絵を描きたいなって。デッサンとかもそうですし、ちゃんと勉強したいなって思ったので、そういう美術系(の学科)のある学校か、それとも総合学科っていう、いろんなものを総合的に、専門学校みたいに自分でカリキュラムを取って組み立てる高校か、っていうので迷って、私は総合学科のほうに行ったんですけど。

いろんなジャンルに触れてきて、自分の中で溶け込んで

 最初入学して「何を専攻しますか」と。「福祉系を専攻します」とか、あと「進学希望です」とか「美術希望です」とかあったんですけど、私はその時最初、絵をやりたいんで美術を第一希望にしようと思ったんです。けど、「もしかしたらみんな美術好きかもしれないから、先生に『美術はもう人がいっぱいだから第二希望の音楽に行ってくれ』って言われるかもしれない」って思って、「じゃあそう言われるぐらいだったら、第二希望の音楽を第一希望に書いて、第一希望の美術を第二希望に書こう」と。そしたら多分先生に「第二希望に行ってくれ」って言われて美術に行けるかもしれない、って思ったんですよ。

——裏をかいたんですね。

 そしたら……音楽になっちゃった(笑)。

——かけなかったんですね(笑)。

(笑)。でも普通に考えればそりゃそうだよな、第一希望ですもんね。「音楽になっちゃった……」って思って。そこから音楽のセオリーとか、いろんなルーツとかっていうのを勉強していきました。
 その時、小説を書く友達がいて、「詩を書くから曲をつけてほしい」って言われたんですね。で、当時私が使っていたキーボードが、コードをひとつ押さえて、あとリズムを選択すると、それで勝手に打ち込みみたいなものを作ってくれるやつだったんですよ。すごく面白いなと思って、それで遊ぶのにすごくハマって。友達から詩も来たし、じゃあ曲作ってみよう、みたいな感じで遊んでました。
 高校2年生になった時に、一人の歌手に出会うんです。私がすごく「この声好きだな」って思った歌手の女性の方がいて、そこから「歌えるようになりたい」って思って……母がエレクトーン奏者だったっていうところから色々ルーツを辿って、歌を教えてくれる人に繋がったんです。福島でその方に直接、個人指導を受けて。でもその先生が「今度福島を離れなくてはならない」ってなって、「じゃあ他に習えるところを探そう」っていうので、仙台でそういう学校帰りにやってるスクール的なところに通うようになったのが、後に通う専門学校の、夜の部みたいなところだったんです。そこに1年くらい福島から通って、高校卒業したらその専門学校に入る、みたいな。

——福島から通うの大変ですよね……?

 めちゃめちゃ大変でした。大変っていうか、バスに乗っちゃえば楽だったんですけど、やっぱり高校生だったんで「遊びたいな」っていう時に、仙台に今から行かなきゃならないとなると、妹に電話してもらって「母です」「今日ちょっとお休みさせます」みたいな(笑)やって休んで遊んだりとかもしてはいたんですけど。逆に友達に一緒に仙台行ってもらって、遊びつつ「レッスン待っててね」ってしたりとか。

——「歌いたい」ってなった時までは本当に、鍵盤触ったりとか曲作ったりは……。

 なかったですね。ただ「この曲好きだな」って思ったのを自分で弾いたり……耳コピとかはあったんですけど、初っ端から自分でちゃんと「曲を作りたい」っていうのは、それまではなかったです。

——いざ音楽をやろうと思った時に、それまで触れてた日本舞踊とか演歌みたいなところとは、やっぱり全然違う感じでしたか?

 う〜〜〜ん。う〜〜〜〜ん……多分違うんだと思います。
 私の曲って、私の中ではすごくもうドPOPなんですよ。ドメジャーな曲を作ってるつもりなんですけど、聴く人に、というか大体の人に言われるのが「なんかちょっとこう……違うよね」っていう。コードの使い方とか組み方とかも「読めないよね」って言われることが結構ありますね。それが多分、今までいろんなジャンルに触れてきて、自分の中で溶け込んで出てきたものが、もしかしたらその一色ではない、何色も混ざったものなのかもしれない。
 私6人家族で、父が基本的に演歌以外のジャンルを全部聴いていたんです。それこそ洋楽の中でも、本当に90年代、80年代ロックとか、ジャズとかもそうだし、いろんなジャンルを聴いてて、私も結構それが好きだったんですけど。母はどっちかっていうと、歌謡曲ではないけど、当時のポップスかなそれこそ「チューリップが好き」とかそういう、みんな聴いているような曲が好き。姉はどっちかっていうとテレビでみんなが観てる曲が好き。兄はどっちかっていうとエレクトロニックな曲がすごく好きで、ハウスとかテクノとか。私もそっち系が好きだったんで、そういうのが今も自分の中で……私の曲、結構四つ踏みとか跳ね系のリズムが多いんですけど、多分それが兄の16ビートが好きなところからきてるのかなっていうのが(笑)あって。妹はどっちかっていうとパンク・レゲエ系が好きで、私はそっちは全くノータッチだったんですけど。
 っていうのがあって、私はどっちかっていうと合唱とかクラシック系、「旋律ってきれいだな」っていうのがあったんですけど、家族それぞれに曲がごちゃ混ぜだったのがある意味ミックスされて、私の中ではすごくメジャーな曲を作ってるつもりが、出てきた時にはそうじゃない、違う曲になってるのかな。

——自然と自分の中の選択肢がいっぱいあったんですね。あっちから持ってきたり、こっちから持ってきたり。

 あるんでしょうね(笑)。私はバナナを食べただけだけど、体の中には他の果物もあって、私を絞ったらミックスジュースができるみたいな感じなのかな。

わかりにくい絵に自分の面白さを見つける楽しさ

(永井的にも)やっぱ何か違うなって感じありますか? 聞いてみて、率直な感想、「ベースつけてください」って言ったらつけられますか?

——「つけてみたいな」って、「つけるのが楽しそうだな」って思ってました。

 おお〜〜。私、今までバンドでも組んだことが何回かあるんですけど、だいたいベーシストに嫌われるんですよ(笑)ふふふふ。ベースでやりたいところを私がやってしまってるから、っていうのがあるらしくて。3人替わりましたね(笑)。

——(笑)なるほどなるほど。一人で弾くときとバンドで弾くときは、ご自身の弾き方は変わらない?

 全く同じです。

——あ、じゃあ周りが合わせていく。

 そうです。それで最終的に行き着いた形態が、私とドラムだけっていう(笑)話なんですけど。やっぱり3ピースの、ドラム・ベース・ピアノボーカルっていうのが憧れではあったので、例えばベーシストの人とかに「もっとベース弾きやすいように、ちょっとピアノ抑えて?」とかって言われるんですけど、「抑える」がわからなくて。だってルート音が無かったらコードとして成り立たないじゃないですか。「だよなあ?」「ルート弾くなってことなのかな?」とか……そこは未だに迷宮入りな部分です。

——ベースつけるとしたら……本当に補うだけか、例えばピアノがこういってるんだとしたら、ベースはこう(その逆を)いくみたいな。

 うんうんうん。

——そういうやり方になるのかなって思いますけどね。

 いいですね。コードもそうなんですけど、「絡む」のがすごく好きです。例えば私オンコード結構多く使っちゃうことがあるんですけど、そのオンコードもやっぱり単音の和音だけじゃ出せないところにオンコードが入って、そこにボーカルが絡んできたらどういう響きになるんだろう、そこにリズムが入ってきたらどういう絡みになるんだろう……そういう絡み合いがすごく好きですね。

 元々絵が好きだったってこともあって、美術館とかそういうのもすごく好きですね。未だにすごく覚えてるのが、小学校か中学校かの夏休みに、青森にある美術館……大きい犬のいる美術館(青森県立美術館)に、「シャガールの展示をやってるから行こう」って父が連れてってくれたんですけど。美術館で見てる絵って、正直分かってないんですよ。分かんないじゃないですか。漫画本とか4コマ漫画みたいにオチがちゃんとあって「あっ、こういうことか」っていうのではなくて、ただ単に絵を見せられるだけで、何を感じるんだろう……みたいなのがあったんですけど、そのシャガールを観に行った時に、青色の使い方が……青っていうよりも、なんとも深みのある色で、その色にすごく惚れてしまって。いろんな色が重なって今この色ができてる、すごくそれに心打たれたんです。
 絵って分かりやすい絵もあると思うんですよ、浜辺の綺麗な絵みたいなのとかに感動することもあるし、「なんじゃこりゃ」っていうのでも「なんとなくこれ好きだな」っていうのもあると思うし。っていうのがあって、わけわかんない絵とか、そういうもののどこに面白みがあるのかなっていうのを見るのが、すごく好きになって。フェルメールとか、女性をいかに美しく描くかみたいなのとかもあって、それも面白いんですけど。

 ミロがすごく好きで。ミロの絵は、私の中ですごく子供のような色使いと、曲線と直線の絡み方の面白さがあって。私はどっちかっていうと、わかりやすい絵よりもわかりにくい絵に自分の面白さを見つける楽しさがあって、自分の曲もそういうところがあるので、結構わけわかんないって人にしたらわけわかんないだろうし、聞き方変えてみたら、面白いっていう人には面白いのかもしれない。景色とか絵とかを歌にするっていうところに、その時の感覚が生きてるのかな、なんて思います。
 ただそれをみんなに理解しろっていうのはなかなか難しいんで……みんなそれぞれの楽しみ方、曲がいいなとか、歌詞がいいなっていう楽しみ方があって、それぞれに好きになってもらえるっていうのが一番いいのかな、なんては思っております。

——テーマとかやりたいことはあるけど、余白もあって、余白の楽しみ方をお任せしてるみたいな感じ。

 そうですね。なんかもう、「各々に授ける!」みたいな感じ(笑)。

——授ける!(笑)。

 だから今回ながいせんせの取材を受けるにあたって、「なんで自分はストレートな歌詞が書けないんだろう」と。
 例えば「大丈夫だぜ!」「お前ら一人じゃないぞ!」みたいなのも聴いてて心地いいし、私もそういうの好きなんですけど、自分がそれを言葉にしようとすると、「でも人間それだけじゃないよ」みたいな(笑)ひねくれた部分が出てきてしまう。自分がそれを歌詞にすると、一番自分自身が素直に受け入れられないんですよ。ひとからもらう分にはいいんですけど。自分が言った言葉が受け入れられなくて、だからそれを歌詞じゃなくて曲に変換して、曲のほうで心地よさを感じてもらえたんであれば、それが私なりのメッセージというか。

学ぶだけじゃない時間のほうが結構大事だったり

——専門学校に習いに行った話に戻っちゃうんですけど、その延長というか、それをきっかけで進学はそちらに。

 そうです。高校の時も、専門学校「ここに行く」って決めてたので。高校3年生の時はみんな受験の追い込みとかしてるじゃないですか、自由登校になったりとか。その時に、めちゃくちゃビリヤードにハマって(笑)。当時、今でいう漫喫みたいなところで、高校生1500円くらいで一日居れたんですよ、ドリンク飲み放題とか、漫喫もついてて、そこに、(同じく)進学しない友達と、朝から夕方までずっとビリヤードやってました。めちゃくちゃ面白いと思いましたね。卓球部だったので、狙ったところに向かって打ち込むっていうのが……エアホッケーとかもそうなんですよね(似た面白さがあって)。みんなが頑張ってる中遊んでて、高校卒業して、そのまま仙台の専門学校に福島から通って。

——それも通いで!

 通いで行ってました。朝お弁当持って、バスで食べて、みたいな感じで。なのでバイトができなかったですね。お小遣いっていうのもちゃんとなかったので、多分週1、土日の中でどっかでやるぐらいな感じでした。当時学生だったので、学校の中のスタジオとかは無料で使えるからよかったんですけど、友達のライブを観に行くとか、「ライブをやります」ってなった時に、「ごめん、金欠で行けない」っていう、ちょっと心苦しさもありましたね。

——向こうに住むっていう選択肢は?

 多分「住んだほうが(通うよりも費用が)かかるよね」みたいな感じだったのかな。「1時間ちょっとだから、通えるじゃん?」みたいな。
 ちょっと話ずれるんですけど、仙台でボイストレーニングの講師やってたときに、生徒で福島市の高校の子がいたんですよ。福島から仙台に通ってきてくれる子で、同じ悩みを抱えてて、高校卒業したら仙台の専門学校に行きたい、でも親は通えと言う。(私がまさに)経験者じゃないですか。「絶対住んだほうがいいよ」って(笑)。親が心配するのもわかるけど、専門学校で学ぶだけじゃない時間のほうが結構大事だったりするんですよ。やっぱりそれは通ってたらできないことだから、親をなるべく説得して、住めるんだったら住んだほうがいいと思うよって話をして。

 専門学校時代に戻ると、専門学校ではボーカル科を受けてて、それがメインのカリキュラムだったんですけど、それと別に「これからの時代、これもやれたほうがいいよ」っていうので、レコーディングとか、ちょっとした機材の使い方っていうのも習わせてもらいましたね。なので今、自分で宅録りとかミキシングとかは簡単にはやれて、「確かにな」っていう感じなんですけど。
 それともう一個、専門の時にハマってたのがドラムで。校内のボーカルコンテストみたいなのがあって、グランプリ取ると、好きなカリキュラムを何時間か受講できる券をもらえると。それでありがたいことにグランプリいただいて、じゃあ何やりたいって言ったらもう「ドラムやりたいです」。そこからドラムも結構練習させてもらって。リズムの部分も今(作曲面で)多少なりと役立ってはいるのかな、なんては思いますね。

 専門学校に入って、バンドを組むってなった時に、初めて聞いた言葉が「バンマス」。「バンドマスターを決めろ!」「なんだそれ?」みたいな(笑)リーダーを決めるんだよと。学校内で活動してるバンドの練習時間があって、それは各科の……ベース科とかドラム科とかギター科の人が入って、普段関わりない人たちと組むっていう。そのバンドで例えば、他のライブハウスで、学校の外でライブをする。ライブをしていくと、学校と関係ない人たちとの新しい繋がりができて……この繋がりっていうのがすごく広がっていって、活動しつつ、輪を広げつつ、の専門学校時代でしたね。

——結構外バンと言ってもいいぐらいの感じ。

 そうですね、やってましたね。ただ、私が合唱部あがりなので、裏声でしか歌えなくて、専門学校のボーカル科に入った時は、「やっぱバンドマンなんだからちゃんと地声で歌いなよ」って言われて……習ってた先生もちょっとこう、ロックバンドのゴリゴリ系の男の先生だったので、あまりよくはないんですけど喉を一回潰しました。裏声を無理にやってたら地声で出せばいい、ただそれだけじゃないんだなっていうのをそこで学んでから、後に繋がるボーカル講師として、ボイストレーナーとしての自分にとっても良い反面教師というか。同じような悩みがある子には「出し方っていうのはね、ただ出せばいいんじゃないんだよ」って言える。未だにその経験がすごく繋がってるなっていうのはあります。

——トレーナーをやられるっていうお話は、卒業した後のことで。

 そうです。卒業して結構経って……どちらかっていうと今の時点から考えた方が近いくらい。6年前くらいかな、まだ仙台にいた頃に2~3年くらいやってました。
 その後、仙台離れるっていうので仙台のボイストレーナーの方は退職して。今は個人的に、自宅の一室をスタジオに改造して、そこで生徒呼んでレッスンしたり……っていう形でやってますね。

<次回>
「Merry Shone.」としての開花と、作曲・歌唱への思いなど。
*後編は2/22公開予定

記事に頂いたサポートは、全額をその記事の語り手の方へお渡しさせて頂きます。