見出し画像

なぜnoteを始めるのか?発信という行為についての想い出

以前から気にはなっていたものの、長年ソーシャル嫌いから遠ざけていたnoteのアカウントを作ってみました。

なぜ今になってnoteを始める気になったか、というところから書いてみたいと思います。

この行為から何が生まれるのか、それはポジティブなことなのか、ネガティブな事なのか、新しい発見に繋がるのか、辛い批判に傷つくのか、そもそもなんのリアクションも無いまま木霊もなく虚空に消えていくのか。
まあ、それならそれでもいいか、という心境になったから、です。

大学生の頃、はじめてパソコン通信に触れて、衝撃を受けました。自宅に居ながら、世界中の見ず知らずの人とコミニュケーションができる!電話回線を通して、誰とでも繋がれる!言葉にするとそんな衝撃でした。
実はその時に使っていたハンドルネームをウン十年ぶりに使ってみる事にしたのが「えふらいん」です。

年齢も、立場も違う人たちと、毎晩毎晩楽しいやり取りに興奮しました。当時は書き溜めたコメントを夜間に1回アップするだけなので、応答も翌日にならないと返ってこないのだけれど、話の流れに置いて行かれないように毎日欠かさず接続していました。

その時の熱さ、伝わるでしょうか?

やがてリアルで会いましょう、という事になって何人かの人と会ったものの、なぜかその後はあんまり接続しなくなり、いつの間にか忘れていってしまいました。
大学を卒業して、仕事が忙しくてそれどころではなくなった事もあったけど、ネット上でのコミニュケーションと、リアルに会った時のコミニュケーションのギャップに少し興ざめしてしまったのかもしれません。

その後、日本にもインターネットがやってきて、Eメールが始まったけれど、DTPオペレーターという仕事に就いたため、仕事で誰かと連絡を取ることも無かったし、プライベートでも特に連絡する相手もいなかったので、結局使う事はありませんでした。友人とは相変わらず電話がメインでした。

それから時は流れ、転職して広告系の仕事をするようになり、当然ながら最新のコミニュケーションサービスをアレコレ提案する立場になったので、初期のmixiやらTwitterやらFacebookやら、一通り初期の頃にアカウントを作って多少は使っていました。が、なんでしょうね、早々にソーシャル疲れしてしまったのでしょう、めっきり更新しなくなりました。やがて他人の書き込みも見るのが面倒になって、ほぼほぼ未読スルー。
LINEなんか最初から面倒に感じたのでアカウントも作らず、いまだに使わずに不便なく生活しています。家族との連絡はもっぱらSMSです。

そんな自分なのですが、本当に珍しくnoteのコンセプトには惹かれるものがありました。会社の知り合いが深津さんを師匠と崇めていたことも影響しているのかもしれませんが、何やら従来のコミニュケーションツールとは違うものを感じました。(そもそもコミニュケーションツールという捉え方がちょっと違ってるのかもしれませんが)

それでも数年はアカウントは作ったものの記事は投稿せず、一旦脇に置いておいた感じでした。そこに元日経記者の後藤さんがnoteで凄い活躍している話とか、ChatGPTの記事でやたら深津さんの顔を見るようになったりとか、色々重なったところでようやく初めての記事を投稿したのでした。

noteって何なんでしょうね?

ネットで発信するって何なんでしょうね?

コミニュケーションって何なんでしょうね?

そんな取り留めもない、結論も無い記事でした。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
また気が向いたら見に来てください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?