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【“42”ジャッキー・ロビンソン・デー】野球、サッカーの背番号にまつわる話


背番号42 希望の背番号をきかれた話


ごく私事から話をはじめる。

昨年、毎週のように通っていた近所のフットサルコートが無くなり困っていたところ、あるフットサルチームから勧誘を受けた。


数度練習に参加したところ話がトントン拍子に進み、加入することになった。

いちおう、競技系のフットサルチームである。
地域リーグに参加するようなそれなりにちゃんとしたチームであれば、ユニフォームが必要となる。
ユニフォームにはもちろん背番号が必要だから、希望の番号はないかとチームの主宰者から問われた。

当方GK(ゴレイロ)なので、背番号1も空いていると言われたが、入団したばかりのチームで流石にそれは恐れおおい(実はホントは「1」が欲しい。なぜなら私は新庄剛志のファンだから)。

第三希望までと言われたので、

「42 」→「55」→「31」が希望

と回答した。

「随分大きな番号ばかりだね」
と言われたが、これには私なりの理由がある。

結果第一希望が通り、私の背番号は「42」に決まる。

42番は、よい背番号である。

一般的に、42は「忌み番」と呼ばれる。
「え、死に番でいいの?」
とまでは言われなかったが、ジンクスを気にするスポーツ選手が多い中で、確かに42番は嫌われる背番号である。

ただ、それはもちろん日本語圏に限った話である。

アメリカ・メジャーリーグでは42番は特別な価値を持った数字なのだ。それは、アフリカ系の伝説的な名選手ジャッキー・ロビンソンにちなんでいる。
ジャッキー・ロビンソンは有色人種排除の方針が確立されていたMLBで、アフリカ系アメリカ人選手としてデビューし活躍。様々なタイトルや賞を獲得し、輝かしい功績を残したことで、今日にいたるまでの有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた。

1919年ジョージア州カイロに生まれたジャッキー・ロビンソンは野球、アメリカンフットボール、バスケットボール、陸上とさまざまなスポーツを経験しカリフォルニアのUCLAに入学。第二次世界大戦の勃発により徴兵され陸軍で過ごした後、1945年ニグロリーグに参加した。
ニグロリーグとは、当時開催されていたアフリカ系アメリカ人を中心とした野球のリーグを指す。メジャーリーグから有色人選手が排斥されていたことで、アフリカ系アメリカ人はここでプレーし、そのレベルはメジャーリーグに匹敵するほどのものだった。

ニグロリーグで好成績を残したロビンソンを、ブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーが入団を持ちかけ、1947年ジャッキー・ロビンソンはメジャーリーグデビューを果たした。リッキーは、マイナー組織の改革に取り組むなど革新的なメジャーリーグ球団幹部であったことでよく知られていた。

黒人選手がメジャーリーグでプレーすることに反対する者が数多くいるなかで、ロビンソンはこの年一塁手として打率.297・12本塁打・48打点・29盗塁という成績を残してチームの優勝にも貢献し、新人王に選ばれる活躍を見せた。
周囲から人種差別的プレッシャーにもロビンソンは紳士的態度で応対し、グラウンドの内外で評価を高めていった。

1949年には打率.342 で首位打者を獲得、この年から6年連続でオールスターゲームに選出されるなど、10年間をドジャースで過ごしたロビンソンは1956年に引退。その後は公民権運動にも積極的に参加し、1962年には野球殿堂入りを果たし、1972年、53歳の若さで没した。ジャッキー・ロビンソンの生涯は、チャドウィック・ボーズマン主演で『42 〜世界を変えた男〜』として映画化もされている。


そしてロビンソンのメジャーデビュー50年目にあたる1997年4月15日、ロビンソンの背番号42が全球団共通の永久欠番となった。

さらに、2004年4月15日にMLBはこの日を「ジャッキー・ロビンソン・デー」と制定し、2009年以降はジャッキー・ロビンソン・デーでは全ての選手、コーチ、監督、審判が42番のユニフォームを着て試合に出場するようになった。

トップに掲げた写真は、この「ジャッキー・ロビンソン・デー」の際に撮影されたものである。

このとき、42番を付けている選手は、継続して使用することが許されたが、2013年にヤンキースの守護神マリアーノ・リベラが引退したことでMLBに背番号42をつける選手はいなくなった。

このような事情でアメリカでは42番は栄光の背番号であるため、NPBでプレーする外国人選手には大人気となっている。
アレックス・カブレラ(西武など)、フリオ・ズレータ(ソフトバンク→ロッテ)、トニ・ブランコ(中日→横浜)、マーク・クルーン(横浜→巨人)、クリス・ジョンソン(広島)など、例を挙げていくとキリがないほどだ。

一方で、日本人で42番をつけて活躍した選手には、下柳剛(阪神)、坂口智隆(ヤクルト)らがいる。

背番号13 忌み番の代表格


日本での忌み番の代表格が42だとしたら、西洋の代表格は13である。

キリスト教圏の欧米では、聖書にまつわるジンクスから13番が忌み番とされる。かつて2008年のツール・ド・フランスに出場したファビアン・カンチェラーラは13番のゼッケンを上下逆さまに貼り付けて走った。

シクロワイアードより
https://www.cyclowired.jp/media/37171

なんとも不思議な対処法だが、上下逆さまならばOK、というのは欧米文化の中で数多くあるパターンのようで、タロットカードにも見られる。

メジャーリーグではアレックス・ロドリゲスのヤンキース時代の背番号が13だった。忌み番号であるはずだがA・ロッドは気にしていない様子で、見事に名門ヤンキースの四番を務め上げた。
彼の活躍もあって「13=A・ロッドの背番号」というイメージがつき、千葉ロッテの平沢大河や日本代表時の中田翔は、主に投手に与えられるこの背番号を好んでつけたという。

13は、サッカーではおもにゴールキーパーに与えられることの多い番号だが、欧州のサッカー選手のなかで背番号13の名選手にはドイツの「爆撃機」と言われた伝説のストライカー、ゲルト・ミュラー。同じくドイツの司令塔を務めた「小皇帝」ミヒャエル・バラックがいる。

ここからは、その他の背番号のもつ特別な意味について、記述していこう。1~18までの背番号は、高校野球などのアマチュアではレギュラーの背番号となるので、除外する。

背番号0  長島清幸


背番号ゼロは、はじめはマンガのなかのキャラクターだった。そのマンガとは『背番号0』、トキワ荘のリーダーだった寺田ヒロオの代表作である。
まさにトキワ荘のある東京・椎名町が舞台。少年野球チーム・Zチームのエース、ゼロくんと仲間たちのほのぼのとした日常を描いた『背番号0』は、野球漫画の草創期を代表する一作と言える。
上京前には新潟・電電公社に勤め社会人野球のエースとして活躍した寺田ヒロオは、その経験を存分に生かし、漫画は子どもを正しい方向に導くもの、という自らの信念を羽ばたかせている。


さて、現実に話を戻すと日本のプロ野球で初めて背番号0をつけたのは元広島の長島清幸である。

非常に有名な「広島のヤクザが東京に攻めてきた」コピペで最初に登場するカープの選手が、長島である。

ずんぐりとした体型で170cmの小兵ながら、勝負強くパンチ力があり、左打席での豪快なスイングは見る者を惹きつける迫力があった。
長島は移籍した中日、阪神でも背番号0をつけていたので、90年代にプロ野球を見ていた方には印象が残っているかもしれない。

他では、川相昌弘(巨人)も背番号0を背負った名選手のひとり。
現役では木浪聖也(阪神)、上本崇司(広島)などがいる。

背番号00 亀山努


さらにプロ野球には、「00」という背番号も存在する。
初めてこの番号を背負ったのは1988年来日した阪神のルパート・ジョーンズだが、わずか52試合の出場で8本塁打に終わったこの選手をもはや誰も憶えてはいまい。

00という背番号が広く世間に知れ渡ったのは、同じく阪神の亀山努の活躍による。

1992年、「亀新コンビ」として新庄剛志とともにブレイクし、果敢なヘッドスライディングをはじめフレッシュなプレーを見せた亀山努の背番号「00」は、野球ファンの目に焼き付いた。

この年、阪神はヤクルトに敗れ惜しくも優勝はならず2位となり、亀山はその後伸び悩んで野球選手として大成できなかったが、タレントに転身し関西では高い知名度を誇っていた。

その他00番を背負った選手としては、田中秀太(阪神)、後藤孝志(巨人)あたりが印象に残っているだろうか。

背番号28 江夏豊


この番号に関しては、ただ一人の選手だけを挙げる。
江夏豊である。

江夏豊は、小川洋子の小説『博士の愛した数式』に登場する元数学者の「博士」が異様なこだわりをもって愛した選手だった。彼は交通事故による脳の損傷で記憶が80分しか持続しないが、江夏のことはもちろん憶えている。
博士の思い入れは、江夏の阪神時代の背番号「28」が、二番目に小さい完全数であることによる。

江夏はその後南海、広島と渡り歩き、先発完投型の投手からクローザーへの変貌を果たす。江夏は1979年近鉄バファローズとの日本シリーズ最終第7戦、9回裏無死満塁のピンチを招くも、奇跡のような投球術でこれを乗り切って胴上げ投手となり、広島を初の日本一に導く。
この快投はスポーツライターの山際淳司に取り上げられ、「江夏の21球」として日本プロ野球屈指の名場面となる。

28番と、21球と。

江夏豊は、なんとも番号との関りの深い選手だった。


背番号51 イチロー


51番は言うまでもなく、イチローの背番号として知られているが、野球に詳しい方ならば、その由来はバーニー・ウィリアムスだということもご存じだろう。

バーニー・ウィリアムスは16年もの長きにわたってニューヨーク・ヤンキース一筋のフランチャイズプレーヤーとして活躍した外野手で、通算2336安打、287本塁打の成績を残した。
イチローは2012年ヤンキースへの移籍時に51番を打診されたが、ウィリアムスへの尊敬からこれを固辞して31番をつけた。
その後2015年になってウィリアムスの51番はヤンキースの永久欠番となっている。

1990年代、イチローがパ・リーグを席巻していた頃、セ・リーグにも同姓のスラッガーがいた。横浜ベイスターズの鈴木尚典(たかのり)である。彼は横浜の「マシンガン打線」をけん引し、1997,1998年と二年連続で首位打者に輝いた。
鈴木尚典は1998年背番号をひと桁の「7」に変更したが、現役晩年には再び「51」に戻している。
横浜のスラッガーを象徴する背番号51は現在宮﨑敏郎が受け継ぎ、その重みに恥じない活躍を続けている。

鈴木姓と言えば、現在シカゴ・カブスに所属する鈴木誠也も、カープ時代にはイチローへの憧れから長く51番を背負っていた。東京オリンピック2020で金メダルを獲得したときも51番だったので、やはりこの番号には思い入れがあるようだ。


他球団の現役選手では、中野拓夢(阪神)、小園海斗(広島)といった俊足巧打の選手から、期待の若手山口航輝(ロッテ)も51番を背負っている。

背番号55 松井秀喜


こちらも、55番といえばすぐに松井秀喜の名が思い浮かぶ。

松井は星稜高校時代サードとして5番を背負っていたが、巨人の5番には当時主力選手だったサードの岡崎郁がいた。
空き番号の中から、王貞治のシーズン本塁打記録55本を超えてほしい、という思いから「55」番に決まったというのが、定説となっている。

その後の松井秀喜の活躍はご存じの通りである。
背番号55は松井のイメージとして定着し、ブレイク後も松井は若い番号に変更することなくこの番号の価値を高め続け、メジャーリーグ移籍後にヤンキースでも55番を背負い続けた。

松井秀喜のイメージが強かった55番が、強打者の背負う番号として一般的に浸透したのは、嶋重宣(広島)の活躍によるものか一。
投手出身で野手転向後も伸び悩んでいた嶋は、2004年心機一転背番号を55に変更した途端ブレイク。
.337で首位打者を獲得し「赤ゴジラ」として話題を呼んだ。

現役選手では、今やNPB一の強打者村上宗隆(ヤクルト)、2010年のホームラン王T‐岡田(オリックス)、200cmの大型野手秋広優人(巨人)、そして2024年からは現役ドラフトで加入しブレイクした細川成也(中日)がこの番号を背負う。

さて、サッカー選手で55番というと、やはり思い出されるのはインテル・ミラノ時代の長友佑都である。FC東京や日本代表では5番だった長友だが、インテルの5番にはデヤン・スタンコビッチがいたため、二つ重ねて55番とした。
2011年のインテル移籍時にはやはり「55番はマツイ」というイメージが定着しており、松井秀喜が長友佑都にエールを送ったという記事が残っている。


おわりに


さて、それぞれの数字には意味があり、それぞれの背番号にはそれを背負った選手たちの活躍の記憶が焼き付いている。
すべて挙げていくとキリがないので、このあたりで本稿は幕を閉じる。

『週刊ベースボール誌』に「プロ野球 背番号物語」と題された特集があるので、興味のある方はそちらをご覧いただければと思う(ただ、有料記事なので私はチェックできていません…)。


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