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【観ない】という選択もありうる。『ゴッドファーザーPart Ⅲ』を斬る



『ゴッドファーザーPart Ⅲ』を観ないという選択


※本稿では『ゴッドファーザー』、『ゴッドファーザーPart Ⅱ』が映画史上、比類なき傑作であるという前提で話を進める。

待ち望まれすぎた続編


『ゴッドファーザーPart Ⅲ』は前作から16年の時を経た1990年の公開。

アカデミー作品賞を立て続けに獲得し、興行的にも大成功を収めた映画史上に残る傑作である『ゴッドファーザー』シリーズの続編とあって、大いに期待される中での公開だったが、興行成績は年間17位と振るわず、アカデミー賞でも7部門でノミネートされるにとどまり、期待外れの結果に終わった。

現在では『ゴッドファーザーPart Ⅲ』については、一定の良作ではあるが、前二作には到底及ばない出来である、という評価が定着している。

それに私は同意する。
Part Ⅲは、『ゴッドファーザー』の続編としての期待を持って観ると、ガッカリしてしまうだろう。
この出来は、前二作を汚していると、私は思っている。
それほどまでに、『ゴッドファーザー』Part Ⅰ& Ⅱは偉大だというのが、私の見解だ。
コッポラは3度目の奇跡を起こすことはできなかった。

だから、私はPart Ⅲを観ないという選択もアリだと思う。
『ゴッドファーザー Ⅰ・Ⅱ』を観て、Ⅲを観ない。
それがゴッドファーザーの美しき世界を保つためには、ベストの選択なのかもしれない。

とはいえ、わたしはすでにPartⅢを観てしまった。
見てしまった以上は、引き返せない。
それならば、なぜこの作品が失敗に終わったのか、ということに焦点を当ててみよう。
そしてもしよければ、この記事を読んで、『Part Ⅲ』を見るかどうか、決めてほしい。そんな決断が、この三部作には残されている。

ストーリー

1979年。ファミリーを守ってきたマイケル・コルレオーネは老境にさしかかり、自分の犯した罪に苦悩していた。彼は資産を合法化すべくバチカン銀行と大司教に接近する。寄付の見返りに叙勲を受けたマイケルは家族と再会する。マイケルはソニーの息子で従弟のヴィンセントをジョーイ・ザザから呼び戻し、合法的なビジネスをさせようとする一方、かつてのボスたちにビジネス合法化を宣言する。しかし短気なヴィンセントはザザと争いマイケルの娘メアリーと恋におち、病に倒れたマイケルを再び血なまぐさい戦いに巻き込んでいく……。

パラマウント・ピクチャーズ公式サイトより

『ゴッドファーザーPart Ⅱ』で描かれたのは、1959年までの出来事だった。本作で展開されるのはそれから20年後のストーリーとなる。
マイケルが目指すのは、賭博・売春を取り仕切ることで巨額の資産を築き上げてきたファミリーの合法化。それは彼の長年の悲願だった。マイケルはバチカン銀行に接近し、ヨーロッパの巨大企業を手に入れることでそれを実現しようとするが、やはりそこには彼をマフィアの世界に引き戻そうとする組織の暗躍が待ち受けていた。

※本作は、2020年になってコッポラ自身の手によって『ゴッドファーザー 最終章』として再編集された。「マイケル・コルレオーネの最期」という副題もついたが、映画としての価値はそれほど変わっていない。
そのため本稿では『Part Ⅲ』 と『最終章』を同一のものとして扱う。

『Part Ⅲ』失敗の要因


『ゴッドファーザーPart Ⅲ』を”失敗”と言い切るには違和感があるが、少なくとも前二作の水準に及んでいないというのは、観客、批評家、そして制作に関わった俳優・スタッフにとっても共通の見解である。

それには、いくつかの明確な要因がある。

ロバート・デュヴァル(トム・ヘイゲン)の不在


真っ先に挙げられるのは、この作品にマイケルの義兄弟であり、ファミリーのコンシリエーリ(相談役)だったトム・ヘイゲンがいないこと。

監督のコッポラはトムを演じるロバート・デュヴァルの出演を熱望していたが、当人の承諾が得られなかったためそれまで準備されていた脚本は大幅に改訂され、トム・ヘイゲンはすでに死去しているという設定となった。
(提示された出演料がアル・パチーノ、ダイアン・キートンと同水準ではなかったことが理由と言われるが、デュヴァルが脚本を読んで断ったという説もある)

Part Ⅰ,Ⅱにおいてデュヴァルの果たした役割は絶大だった。
マイケルのドンとしての変遷は、そのままトム・ヘイゲンとのやり取りの変遷だったと言える。
相談役として、顧問弁護士としてファミリーを支えたトム・ヘイゲンは、マイケルが若く経験の少ない青年だった時から、偉大な父を継いでファミリーの長となり冷酷なドンに変貌するまでのすべてを見ていた。

ロバート・デュヴァルの抑えた演技は、『ゴッドファーザー』シリーズの要だった

Part Ⅰで長兄ソニーが、Part Ⅱで次兄フレドが命を落とした。
そしてPart Ⅲではトムが死ぬ、という構成を当初コッポラは思い描いていたという。
それぞれの作品で描かれる、三人の兄弟の死。
もしそうなれば、全く違ったストーリーが展開されていただろう。

「もしロバート・デュヴァルが、『ゴッドファーザーPart Ⅲ』に出演していたら…」
それは、映画を観終わったファンには尽きない願望だろう。

アンディ・ガルシアの弱さ


年老いたマイケルに代わり、新たなドンとなるヴィンセント・マンシーニを演じるのはアンディ・ガルシア。
ヴィンセントはマイケルの長兄ソニー・コルレオーネの愛人の子である。

権力継承シーンでのヴィンセント

ソニーに似て感情の抑えが効かないという欠点があるが、その分抗争において体を張ることのできる力強さを持ち、やがてファミリーの後継者として頭角を現していく。

ただ、本作のヴィンセントはなんだか軽い。

従兄弟に当たるメアリーとの関係をマイケルに問い質されたとき、ヴィンセントがはぐらかして見せる表情には、プレイボーイの軽薄さがにじみ出ている。
こんなトーンは、ファミリーの汚れ仕事も「ビジネス」と割り切り、常に冷静であることを信条とするコルレオーネ・ファミリーの一員としては相応しくない。

この軽薄さがアンディ・ガルシアのパーソナリティによるものなのか、それとも脚本・演出によるものかは断言できないが、経験が浅く冷静さに欠けるヴィンセントが、世界を股にかける大きなビジネスを展開しようとしているファミリーのドンの重責を担えるとはとても思えない。

マイケルの後を継いでドンとなることに説得力を持たせるには、ヴィンセントの“成長”を描くことが不可欠だった。
アル・パチーノが好演したPart Ⅰでのマイケルの変貌は誰もが知っているだけに、アンディ・ガルシアがこの課題をクリア出来なかったのは致命的である。

コッポラの衰え アル・パチーノの迷い


前作から16年が経ち、監督フランシス・フォード・コッポラの持っていた神通力はすでに失われている。
『ゴッドファーザー』二部作(1972・1974)、『カンバセーション…盗聴…』(1973)、『地獄の黙示録』(1979)と歴史に残る傑作を次々に生み出したコッポラだったが、80年代に入ると興行的な失敗がつづき莫大な負債を抱えてしまい経済的苦境に立たされることになる。

どこまでも映画に完璧さを追求しようとするのがコッポラの特徴だったが、すでに力を失っていたコッポラは以前のようにスタッフたちを導くことは出来なかった。
それが、多くの不満点が残るキャスティングにも反映されている。

また、年老いたマイケルのキャラクター設定についても、納得のいかない点が多い。
まず、クルーカット。これがカッコよくないのである。
当初は、こんな髪型になる予定ではなかった。
脚本には「60代になり、恰幅のいいビジネスマンのような」とあり、白髪のオールバックで準備されていたが、コッポラは突如それを覆しクルーカットにすることを押し通したという(『ザ・ゴッドファーザー』361頁)。

さらに、60歳の老境を前にしたマイケルを演じるにあたり、当時50歳のパチーノには特殊メイクが施されているが、これはどう見ても過剰に老けさせすぎ、マイケルの魅力を削いでしまっている。
Part Ⅰでのマーロン・ブランドのメイク、演技の素晴らしさと比較すると、その差は歴然である。

カッコよくないというのは、そのまま弱さであった。

パチーノ自身も、彼の映画キャリアにおいて不遇だった80年代をまだ引きずっている。

本作のあと、パチーノは盲目の退役将校を演じた『セント・オブ・ウーマン』(1992年)で念願のアカデミー主演男優賞を獲り、ロバート・デ・ニーロとの初競演作『ヒート』(1995年)で生き生きとした姿を見せるが、『Part Ⅲ』では演技に迷いがあるように見受けられ、どうしても年老いた弱々しさだけが目立つ。

前二作でのマイケル・コルレオーネは、残念ながら『Part Ⅲ』で見ることはできない。それは人間としての深みよりも、力のない魅力の欠けた姿を強調するばかりである。

メアリーとアンソニー 二人の子供


本作への批判としてよく言われるのが、メアリー・コルレオーネ役にコッポラの娘であるソフィア・コッポラが起用されたことだが、私の見る限り、ソフィアがそんなに悪いとは思えない。
体調不良によって降板したウィノナ・ライダーに替わって、演技経験の殆どなかったソフィアが代役に選ばれたことで彼女に批判が集中してしまったが、アル・パチーノとのやり取りは、幼少時から互いを見知っているだけあって、むしろ本当の親子のように映る(ソフィアは前二作にいずれも出演している)。

そもそも、脚本上メアリーにはそれほど演技の幅が与えられておらず、初心に見えるソフィアはその役柄に沿っている。ウィノナ・ライダー、ジュリア・ロバーツなど、当初の配役に挙げられていた女優たちを頭のなかで当てはめてみても、むしろあまりうまく行かないように思える。

カッコよくないと言えば、マイケルの長男アンソニーが、全然カッコよくない
いったいPart Ⅱのときの美少年はどこへ行ったのか。オペラ歌手という設定から、キャスティングにおいて歌唱力が重視されたのかもしれないが、観客としてはこんなアンソニーに思い入れなど1ミリもできない。
メアリーより、よほどアンソニーのほうがミスキャストだと思うのは私だけだろうか。

「古いシチリアの歌」と称して、愛のテーマを歌うアンソニー
『Part Ⅱ』のアンソニー


それでも数ある名シーン


ずいぶんタラタラとPart Ⅲへの文句を垂れてしまった。
三部作の最終章として位置づけられる本作は、前二作に到底及ばない。

そのため観ないという選択もアリだ、というのが本記事の意見なのだが、それでもコッポラがメガホンをとり、名優たちが一同に会した本作のことだ。もちろん名シーンはある。

ランベルト枢機卿への告解


本作で出色のシーンは、バチカンとの関係に苦慮したマイケルがランベルト枢機卿を訪ね、今までの罪を告解をする場面。
バチカンとの交渉で不調が続き、大司教の不正を枢機卿に訴え出ていた最中、マイケルは糖尿病の発作の症状に襲われる。

身体の不調は心の不調から来ているのではないか、懺悔をしてみては、と勧める枢機卿に、
「懺悔など…私の罪は神の救いを超えています」
とこぼすマイケルの途方に暮れたような表情は、この映画のハイライトの一つである。

しかし枢機卿のもつ人間性の深みを感じ取っていたマイケルは、勧めに従って告解をはじめる。

妻を裏切り、妻の知らないところで犯罪行為に身を染めてしまった。
殺人を犯し、さらに人に命じて多くの対立者を暗殺した。

枢機卿は一瞬驚きの表情を見せるが、「続けなさい」と促す。

そして、マイケルにとって最も重い罪である、兄フレドの殺害を告白する。

「人に命じ背いた兄を殺させました…私の母の息子を…私の父の息子を…」

「恐ろしい罪だ。だから苦しむのだ。神は救ってくださるが君はそれを信じないし改めないだろう。父と子と聖霊の御名によってあなたの罪を許す」

枢機卿の「君は神の救いを信じないし改めないだろう」という台詞にはこの上ない深みがあり、それでも罪人を赦すという行為には聖職者としての高潔さが宿っている。

ランベルト枢機卿は、『Part Ⅲ』のとるべきところの少ない新キャラクターの中で、輝きを放つ貴重な存在だ。演じたのはイタリア人俳優ラフ・ヴァローネ。1949年ジュゼッペ・デ・サンティス監督によるイタリア映画『にがい米』に出演しその後国際的に活躍した。

マイケルとケイの行く末

トム・ヘイゲンの不在により、シナリオはマイケルのケイに対する贖罪に焦点が当たることになった。
マイケルは家族のことを想うがあまりに、冷酷なドンへと変貌し、ついに最も大事なはずだった家族を失うことになった。
Part Ⅱの結末で描かれた、あまりにも悲惨な夫婦関係の終りに、続きがないと絶えられない、という方は見るべきかな、と思う。

映画の後半、舞台はシチリアに移り、そこでマイケルとケイが二人きりでコルレオーネ村をはじめマイケルにゆかりのある地を巡るシーンがある。

プライベートでも交際期間のあったアル・パチーノとダイアン・キートンは、二十年を経たマイケルとケイの関係に、しっかりと像を与えている。

おわりに


じつはアル・パチーノ自身が、1996年のインタビューの中でPart Ⅲが失敗に終わった真の問題は何だったのかについて語っている。

それは「マイケルが報いを受けて、罪の問題に苦しめられるのを誰も見たくなかった」ということ
(『アル・パチーノ』389頁)。
マイケルの贖罪という映画の根幹を揺るがすような指摘だが、結局答えはそこにあるのかもしれない。

思い入れのある作品は、汚されたくないものだ。

『ゴッドファーザー』ほどの傑作となると、それは尚更のことになる。
もしも主要スタッフやキャストの交替があるならばそれも仕方ないか、と受け入れられることもあるが、Part Ⅲ は『ゴッドファーザー』シリーズの正統の最終作である。
失敗は許されない映画だったが、その結果は芳しいものではなかった。

『ゴッドファーザー』Part Ⅰ, Ⅱ を観てその虜になった人は、この最終章を観る前に一度立ち止まるべきだ。
いったん観てしまうと、もう引き返せない。

観るべきか、観ざるべきか。

その選択に、少しでもこの記事を役立ててほしい。

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