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16.これだから病院なんて来たくなかったんだ。

 22歳の秋、ついに整形外科に行く覚悟を決めた。

 腰だ。腰が痛いのだ。思えば腰痛はいつも私の人生とともにあった。中学生のころから症状が現れ、高校、大学と慢性的な腰痛に悩まされ続けた。ときには腰が痛くて授業中椅子に座っていられないほどだった。

 ところが大人というものは、腰痛と聞くと大概「ああ……まあ……」みたいな顔をする。「まあ……あるよね……」みたいな顔だ。大人の中で腰痛とは肩こりと同じカテゴリーなのである。適度に筋肉をつけて適度な運動さえしていれば避けられるタイプの痛みなのである。つまり相手にされない。病院になど連れて行ってもらえない。

 そして大学生になれば、気づけば病院そのものに「連れて行ってもらえない」年齢になっていた。風邪を引いても歯が痛くても目が痛くても病院に連れて行ってはもらえない。「病院行ったら?」の一言である。

 ところがこちらは20年近く病院とは「連れて行ってもらうもの」の認識で生きてきた。突然「病院行ったら?」と言われたってできるわけがない。診察券と保険証のどっちを先に出したらいいかもわからないのだ。おかげでこのかた5年以上歯医者に行っていない。

 そうこうしているうちに腰痛もいくらかマシになり、病院に行く必要性を感じなくなってきていた。ところがここ数日また痛み出したのだ。

 私は思った。10年近く付き合ってきたこの腰痛と、決着をつけるときなのかもしれないと。

 勇み立って保険証と財布を手にする。財布の中に現金があるかもちゃんと確かめた。保険証の期限が切れていないかも。案の定切れていたので新しい保険証を探す羽目になった。たしか母から受け取って部屋のどこかに……投げ捨てたはず……。

「あったよ」

 床に積まれた本と本の間に挟まっていた封筒をみぃが見つけて、私のほうへ寄越した。中にはたしかに新しい保険証が入っていた。台紙からはがし、カバーに入れて財布の中へしまう。

 いざ。出立。

 ネットで探した整形外科はすこし壁の黄ばんだ建物だったけれど、清潔な印象だった。私はどきどきして小刻みに震えながら靴を脱ぎ、スリッパに履きかえる。みぃは私の隣で不安げにきょろきょろと視線をさまよわせていた。

 ぎゅっと丹田に力を込めて、私は保険証を受付に出した。緊張で心臓が口から出そうだった。

「あの、初診で」

 しどろもどろになりながら何度も頭の中で練習した言葉を口に出す。すると受付の事務員はにこ、と笑って、向かって右のほうを手のひらで指し示した。

「先に番号札をお取りください」

 右を見ると、さっそうと現れたグレイヘアの男性が発券機から番号札をもぎったところだった。し、知らんシステムだ……。これだから病院なんて来たくなかったんだ。私は震えながら保険証を引っ込め、素直に番号札を取った。事務員さんの計らいでグレイヘアの男性と番号札を交換させてもらえることになった。なんだかそれも申し訳なくて、私はさっそく泣きたくなった。みぃはほとんど泣いていた。

 問診表を書いて、あとはひたすら待つ。待つ。30分以上は、待った。これだから病院なんて来たくなかったんだ。いい感じに腰痛がクライマックスを迎えたところで、私はレントゲン室に通された。

 レントゲンを撮るのはずいぶん久しぶりだ。小学一年生のとき、友だちを守ろうとして男子のキックを手で受けたら指を捻挫した。ぐるぐる巻かれた包帯はダサかったけれど、ダサいの中ではまだ比較的かっこいい部類の負傷だったと思う。なんせ友だちを守ったのだから。

 レントゲンを撮ってからまたしばらく待ち、これだから病院なんて……の思考がループに入りかけたところでようやく診察室に呼ばれる。

「腰ですね」

 医師は中年の、きびきびした印象の男性だった。私は緊張してうなずく。緊張はしていたが腰痛がクライマックスなのでいくぶんか相殺されていたのは良かったかもしれない。

 先生は私の膝の下をこーんと叩いたり、足やら腰やらを触診してから「うん」と言った。

「わかりませんね。なんででしょうね」

 これだから病院なんて来たくなかったんだ。

 わかっていたとも。腰痛とは肩こりと同カテゴリの悩みなのだ。ヘルニアとかそういうわかりやすい原因などないのだ。適度に筋肉をつけて適度な運動さえしていれば避けられるタイプの痛みなのだ。病院に来たって原因がはっきりわかってきっぱりよくなったりしないんだ。

「わかりませんねえ。これレントゲンね。特に問題もないですし。腰椎のカーブ、すごくきれいですねえ。椎間もいいですよ」

 先生はモニターに私のレントゲンを映してしみじみと言った。

「いやあきれいなカーブですね……。人間の背骨はこう、S字にカーブしているんですが、そのカーブもきれいで……いやすごくきれいなカーブだな……」

 先生は新種のサルを見つけた生物学者のように半分陶酔した様子で呟き続けた。人生でこんなに何かを褒められたのは初めてだった。高一のとき小論文のコンクールで優秀賞をもらったときも、センター試験で世界史満点を取ったときもこんなに褒められはしなかった。腰痛の原因はわからないが、私の腰の骨はプロから見て信じられないくらいきれいだということだけがわかった。

 そんなに褒められると、まあ、悪い気はしない。とりあえず何も異常がない、ということはわかったわけだし、それだけでも病院に来た価値はあったかもしれない。私の隣でモニターを見つめるみぃもこころなしか誇らしげな顔をしている。

 先生はうーん、と唸ってから最後に言った。

「まあ、強いて言うなら原因は筋肉不足ですね。適度な運動でもしてください」

 そんなことは10年前からわかっている。これだから病院なんて来たくなかったんだ。

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