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「生きたなぁ、私。」

そんな風にたそがれてみた、3月31日です。

今、自分の記事を読み返してみても思うけれど、このnoteを始めたばかりのころって本当に人生迷子だったな、って。
一生懸命考えてる風ではあるし、まぁ実際自分のキモチとしても嘘ではないんだけど、なんか書いてることが上滑りしてる。
「こうじゃなくちゃ」「こうであるべき」そんなのばかりが先行して、全然本心みたいなものが見えない。

そして、全然楽しそうに生きてない。むしろ苦しそう。SOS漏れ出てますけど大丈夫?って感じ。



実際、苦しかったな。

このnoteを始めたのはほぼ1年前くらいで、いちばん苦しい時期は超えていたけれど、でも復活もできてなかったんだと思う。

そこから仕事を辞めて、3ヶ月の海外放浪旅に出て、人生お休み期間に突入して。
帰ってきて、少しずつ仕事を戻して、ついでになんとなく婚活を始めたことで、また人と社会と関わるようになって。


今、「生きたなぁ、私。」ってしみじみ思っています。

いつからか、ずっと辛かった。
両親の仲が悪化の一途だったこと、学校で落ちこぼれたこと、大学受験の失敗に両親の離婚、治らない摂食障害、共依存の恋愛、身内の死。

人生お休み期間、設けてよかったです。
一度ゆっくり休んだから、今はただ、自分がここまで生き抜いたことにちょっぴり肯定感が持てているんだと思う。
まだ自信というほどのものはないけど、別に自信というほどのものもいらないのかもしれない。

いろいろあったけど、それでも生きた、という実感。それだけで十分。


辛かったうちは……いやここ最近までずっと、私は誰かに救って欲しかったんだと思います。
辛いよね、って優しく甘やかして欲しかった。
居場所が欲しかった。
私の存在を肯定して欲しかった。
この辛さから連れ出して欲しかった。

今まで漠然と、自分も「誰かの人生を救いたい」って思っていたけれど、それは多分、上記が欲しい裏返しだったんだと思う。
要は見返りを求めていたってことなんじゃないかな。


「生きたなぁ」と、ぼんやり振り返れるような、肩の力が抜けてきた状態になって思うのは、「人間、誰かを救うなんてできっこない」ってこと。

そんな大層なことはできるわけがなくて、だけどそんなのなくたってきっとみんな、ちゃんと自分で生きる力を持っている。本当は。


ということを感じ始めて、改めて「誰かのために生きたいな」と思うようになりました。
え?矛盾?

ううん、誰かをそばで応援することと「その人の人生を救える」と思ってしまうことは、全く別のことだと思う。
前者はあくまでも、乗り越えるのはその人。後者は保護者みたいな他人。
全然違うよね。

みんな本来はちゃんと自分らしく生きられる力を持っている。辛くても、ちゃんと自分で立ち上がれる。
その手助けとか、応援とか、できたらいいなぁ。


頑張ってる人、周りにいっぱいいるの。
楽しそうに頑張ってる人もいれば、辛そうな人も。

どっちの応援もできたらいいな。
特に辛そうな人には、「そんなに頑張らないで」、って。
私も間違った頑張り方してきたから。
もう、Take it easy, って人に言えそうだよ。



誰のことも救えない。
そんな傲慢なことはできない。
でも、誰だってみんなその人なりに生きていて、いろいろあっても絶対ちゃんと、乗り越えられる。成長できる。変わりたければ、変われる。

みんな生きてるだけで尊い。

だからこそ、誰かのために生きたい、です。

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