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「例外の通常化」(2021年9月)

●9月2日/2th Sep
また拙著「まなざしのデザイン」を現代文の問題に使いたいという依頼が来る。今回は試験問題ではなく問題集への掲載らしい。毎回問題を読むのを楽しみにしているのだが、今回は「論理の実践」という項目に入るみたいで、二つの文章を読んで骨子を要約しながら、両方の論旨展開を比較したり共通部分を考えたりする問題。読んでいるこちらが、「なるほどなー」と毎回勉強になる。

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●9月3日/3th Sep
ちょっと前は、アートがこのどうしようもなく回転し続ける消費社会を、後先考えずにぶっ壊すタイラー・ダーデンのような力をまだ持っていると思っていた。
だが、制度と消費に取り込まれたアートが、小さなレベルでの認識の揺さぶりに矮小化していき、本質的なものは何も壊そうとせずに、遂には破壊のポーズだけが人々の羨望の対象にまで成り果てたことに危機感を覚えたものだ。
強固な檻の中で牙を削がれた獣が吠える姿に、人々が安全な場所から群がり鑑賞するような現状に、いよいよアートが檻そのものを破壊することには期待できなくなった。
デザインはモリスが敗れた最初から消費と技術の中に取り込まれているので、今の現状を突破する力を持つどころか、現状の把握も出来ず、檻の強化に加担すらしている。
失望もしたし、無力感にも打ちひしがれたが、アートより先にパンデミックが世界をぶっ壊した。その後の世界では、それに乗じてさらに不条理なことが進んでいくことも予想される。
どこに可能性があるのかは考え続けてはいるが、それが見えても受け入れられることは前提には出来ない。一万年ぐらいを精算しないといけないスケールの話なのかもしれないのだから。
そんなことを考えていると、朝からフロイト先生の鼻がもげた...

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●9月5日/5th Sep
ルソーの言う自然状態は、ホッブスとは違って、そもそも所有や平等の概念もない。それはもっと素朴な世界で、動物としての生き方に近いものだ。
餌が取れる日もあれば取れない日もあるし、餌を落としてしまうことも奪われることも、全て同じように"アクシデント"として捉えている。故に、人を服従させたり支配したりという行為は起こり得ないというのがルソーの主張。
ホッブスのいう自然状態とは、そもそもある程度の人間が集まって、そこで駆け引きされることが前提になっている。それはちっとも自然ではなくルソーの言う社会状態だ。人間が持つ平等性を前提にして、いかに利益を得ようかという話になる。
ルソーは「自然に帰れ」とは本当は言っていないらしいし、その素朴な状態に戻ることも推奨していないし、そもそも不可能だとする。だが、社会がなぜ不平等で我々はなぜ疎外されているのかは指摘している。
社会契約でもなく、自然回帰でもなく、それをどのように乗り越えるのかを考えた時に、ブッダが引いた補助線の有効性が見えてくるように思える。自分に対する認識を乗り越えるしか結局はないのだろう。

●9月5日/5th Sep
進化と形態についての書物を読むには浜辺の方がインスピレーションを得られると思い、海まで足を伸ばす。地球の回転と月の影響を受ける波のリズムは、我々の呼吸と心拍と神経の上位リズムとして媒介する。
分子生物学的な人間観が支配しがちな今の世間であっても、より大きな生命観から自分へまなざしを向けるためのささやかな時間は、海や山や空を媒介に万人に開かれているはずだ。
そこに向き合うには、身心ともに独りになる時間が必要だろう。容易にシェアなど出来ず、その必要もなく、そして既に共有されている感覚は自ずと現れてくるのだと思う。

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●9月7日/7th Sep
今日は、アートビオトープの北山美優さんが主催される九段下ギャラリー册のイベント「一冊会」にオンラインで参加させて頂く。
美優さんには那須の山のシューレではお世話になっているが、こうしてオンラインで距離を超えてお会い出来ることが嬉しい。モデレーターの武蔵野美大の新見先生ともお久しぶりにオンラインでお会いできた。
今日の「一冊会」のプレゼンターは現代アーティストの藤本由紀夫さんで、「キルヒャーの世界図鑑」の話。藤本さんが自分の作品に多大にインスパイアされているキルヒャーは、イエズス会士であり、学者や芸術家など枠の中におさまりきらないような人物。本の解説というより、キルヒャーそのものの話が中心だった。
僕はキルヒャーについては澁澤龍彦が取り上げていたなーというぐらいで、詳細をあまり知らなかったが、話を聞いてその創造性に驚いた。聖書の研究からヒエログリフなどの言語学、自動演奏装置、光学的な仕掛けや偶発性を用いた作曲まで、かなりの幅で世界を捉えている。
話の終了後に新見先生から、藤本さんと同じ関西の作家同士という前振りでコメントを求められたので、キルヒャーがライプニッツから大きな影響を受けていたのではないか、ということについて少しだけコメントした。
というのは、キルヒャーの作品の随所に易学的な要素が見受けられたからだ。言葉や音符をアナグラムさせることで、何か新しい組み合わせを創造しようとする発想や、ある最小限の単位の組み合わせで無限の宇宙を表現する手法は、非常に八卦の考え方に近い。
ライプニッツのモナドやバイナリーの考え方は多分に中国の易から影響を受けているが、彼と文通していたキルヒャーもかなりの影響を受けているのではないかと感じた。藤本さんはそこはあまりコメントなされなかったが、キルヒャーの科学的側面と宗教的側面の二面性については触れられていて、二人で色々と彼の創造性の在処について確かめ合う。
その後もご参加されてきた様々な方々から面白い意見が飛び交う。特にマルセル・デュシャンとキルヒャーとの類似性については僕も思うところが色々あったので、興味深く聞いていた。
ゲーテも色彩論のなかでキルヒャーに触れているが、宗教が科学に取ってかわろうとしていた17世紀という時代は非常に面白く、魔術と科学が微妙に接点を持っている。先週は丁度そのあたりのことを考えていたので、とてもタイムリーな話題だった。お誘い頂いた美優さんに心より感謝。

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●9月9日/9th Sep
待っていたZieglerの本が届いた。ドイツ語なので、解読が必要だが、ちゃんと12面体のインヴァージョンが確認できるかどうか。

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●9月11日/11th Sep
911から20年経つが、世界の覇権を巡る戦争はプレイヤーの様相を変えつつも、終わる気配は一向にない。911とアフガンと大麻解禁の流れとの関連に着目する人は多くはないが、表に出ているほど単純な話ではないことは間違いない。
そんな日に、教え子に読んでもらっている原稿のフィードバックをもらう。半年前までゼミ生だった20代の会社員が今の社会をどう捉えており、また僕の戦争論をどう読んだのかを聞かせてもらう。
どうしても1人で書いていると、盲点が生まれる。この表現で伝わるのか、理解可能か、足りない視点はあるか、疑問に思うところはどこか、など色々と不安にもなる。そんな時には、たとえ若い自分の教え子であっても虚心坦懐に耳を傾ける必要がある。2週間で読んで、しっかりとコメントしてくれたことに心より感謝。

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●9月12日/12th Sep
品川駅構内で警官2人に職務質問されている人を見かけた。しばらくウロウロしていると、また別の人が職務質問されている。両人とも長身で黒の上下に髪を染めている男性という共通性が見られたので、おそらく何か事前に警察が情報を掴んでいる可能性があるなぁ...と観察する。しかしはたと気づけば、自分も髪は染めてないが、今日は黒の上下。別に悪いことはしていないが、そそくさと駅を立ち去る...。

●9月13日/13th Sep
東京でいくつかの打ち合わせを終えて関西へ。
今回は全ての打ち合わせが必然だったように思える。というより起こった出来事、出会う風景は基本的には全て必然なのだろう。
どのミーティングもどの出会いも、その順番で起こったからこそ、今ある認識へと導かれている。それをしっかりと理解すれば自ずと答えが見えるし、恐れがなくなることを改めて心に留める。

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●9月15日/15th Sep
信楽への道中で、右派左派の話題になった。あまり知らなかったようなので、ひとまずこれまで言われてきた政治的な右と左について解説する。その上で今、政治だけでなく芸術やその他さまざまなシーンにおいて見られる、世界的な左右の反転現象についても付け加えて解説した。
照準を国家に合わせた時と、グローバルに合わせた時とでは左右がまるで反対に見える。だが。これまでの定義が頭に固定化していると反転したまま眺めてしまうので、応援する相手を間違える。というより、わざと間違えるようにまなざしが誘導されていることに気づけなくなる。

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●9月17日/17th Sep
明日から執筆の追い込みで半月ほど某所にこもる。17万字書いたが、何かピースが足りない。なので、ここは虚心坦懐に降りてくるのを待つしかない。そういう時は空間の質が大事になる。そう思って、部屋に照明とソファを持ち込んだら、いい感じにリラックスできる場所になった。後は独りで試行錯誤しながらピースを組み合わせるのみ。

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●9月19日/19th Sep
「例外である」と言うことが出来るのは、"例外でない"状況があるからだ。「偶然である」と言うことが出来るのは"偶然ではない"状況があるからだ。しかし私たちは常に例外や偶然の中にいるとすれば、例外と規則、偶然と必然を区別する立場にある者こそ実は大きな権力を持つ。
「主権者とは例外状態において決断を下す者である」というカール・シュミットの定義が正しいとしても、"今が例外状態である"ということを決定できるのは一体誰なのだろうか。その決定が下せる者が規則の規則をつくる権力を持つ。
その例外と規則との関係を問題視した哲学者がアルチュセールであり、アガンベンだという理解が妥当なのだろう。ただその例外状態が規則となり始めるのが「革命」であると捉えたアルチュセールに対して、アガンベンはそれが可視化するのがアウシュビッツつまり「収容所」であると捉えているのは興味深い差異だ。

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●9月20日/20th Sep
美術家でも文筆家でも、ラッパーでも映画監督でも、世の中に言いたいことがあるから表現している。作りたいだけなら作って独りか仲間で楽しめばいいし、世に発表する必要もないのかもしれない。
そもそも言いたいことがなければアウトプットする必要もないし、本当の表現者はアウトプットすることを目的に何かを作っているわけでもない。だから「生産性を上げる」という考え方は表現には全く馴染まないのだろう。
その言いたいことがどれぐらいの深度と強度を持っているのかは、内部で発酵させた時間と相関性があるようにも思える。だから安易にアウトプットするぐらいなら口をつぐんでいた方がいいのだ。
今、自分の内側には言いたいことは山ほどある。だけどそれを安易に言葉にすることを留めている。多分、結局はシンプルな言葉にしかならない。ただ同じ言葉であっても、同じ表現であっても内部で醸成されて滴ったものは真に迫る力を持つのではないか。
だからひたすら待っている。この待つ時間に耐え抜くことが今の自分の唯一の仕事だ。本当に作品をつくる時間というのは、全ての条件が整ってから懐胎するまでの、この待つ時間にあるのかもしれない。

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