もの創りを享受する行為について考える

最近よく夢の中で何かを創ってる。
パソコンに向かって、何かしらツールの使い方を理解して、キャッキャ言いながら、何かを創ってる。
起きた瞬間の充実感がヤバい。
それでいて、徐々に襲ってくる虚無感もヤバい。

改めて、自分はもの創りが好きなんだなと思う。
夢の中では自分以外の誰もおらず、一人で勝手に盛り上がってる。
誰かに見せてるわけでもなく、出来上がったものを自慢するフェーズもなく。
創る過程と、完成したブツで、あれだけテンション高いんだから。
一人遊びが得意すぎる。扱いに困る。いやホント。


自分は一体何を楽しんでいるのか。
むやみやたらに何かを創ることじゃない。
自分が『思ったもの』を創る行為、だと思う。
思い通りに何かを実現させることができる。
「これならできるだろ」と思ったことが、本当にできる。
それが楽しい。

もちろん、創りたくても創れないものだってある。
自分が考えたキャラを現実の中で生かすことができないのは、いい例だ。
自分があれこれ考えているときに、隣から意見を言ってくれる彼や彼女を、創ることはできない。
ふと脳内に現れて、言いたいこと言うだけ言って、去っていくのが限度だ。
それだけでも十分ありがたいことではあるけど、限度があるには違いない。


そんな自分が長らく無職でいて、世の中のもの創りを見ていて、感じることがある。
目的・目標の差。
仕事と趣味の差だろ、と言うには、ちょっと違う。
どちらかと言えば、価値観の差に近い。

この世の中で目に付くもの創りは、対人を前提にしているものが大半だろう。
誰かの役に立つため。
誰かに何かを知ってもらうため。
誰かが求めたものを提供するため。
誰かを惹きつけるため。
そこに金銭やコミュニティが発生したりしていなかったりの差はあれど、大体はそうだ。

自分だって、ソレに興味がないわけじゃない。
誰かを巻き込むことによって、発生する事象、得られる情報は、もちろん予想に反してくる。
発見はある。刺激もある。ただ、自分はソレを目標にしていない。
自分が思ったものを創れればいいのであって、自分にとってソレはオマケに過ぎない。
だから、配慮するに至らない。至れない。


この差は言動の差にも繋がってくる。
「クリエイターは反応を貰えると喜ぶ」という主張だったり。
「誰かに褒められないとやる気が出ない」という嘆きだったり。
そういうのを見ては、首を傾げる。
分からなくはないけど、そんなに言うほどか?と、思えてくる。
価値観や感覚が違うのだ、と毎回自分を説得するところまでがセットだったりする。
多分、承認欲求ってヤツだろう。誰かに認められなければ耐えられない、的な。

一方、自分はどっちかってと世界で一番自分のことが嫌い、ってタイプだ。
この世で真っ先に死ぬべき人間がいるとするならそれは自分だろう、とすら言い出す。
『好き』で誰かが生かされるなら、『嫌い』で自分が死んだっていいだろ、とか言い出す。
その性格自体が自己中で、自信過剰で、どうしようもない。イライラしてくる。
でも、誰かが生きろとやかましいし、迷惑をかけたくてそういう性格になってるわけでもない。
結果的に「自分の生きたいように生きろ」とありがたい言葉を向けられて、死ぬために生きて、言いたいように意見を言えば「負け犬」と言われ、今に至る。

そんな自分が誰かに承認されるとどうなるのか。
「なんでそう思うのか」と詰め寄り、自分の意見を言っては、ドン引かれる。
詰め寄ることがダメなら、うわべだけの感謝の言葉を並べる。
人の気持ちを汲めていないことは分かってる。悲しませたいわけでもない。
でも、他人のために何かをすることはできない。
死ねないのならせめて他人の道具であろうとして、結果「自分を優先しろ」と言われたからこその今なのだし。

脱線しかけたけど、要は価値観が違う、と言いたかっただけ。


創る側としての価値観が違うだけなら、まあ活動方針の違いがあるなってだけなんだけども。
本当の問題はここから。
供給側…創る側…もの創りそのものを享受する側に対しての、
需要側…創られたものを享受する側…閲覧者、ファン、顧客といった受け手の人たちの、価値観。
ここの差はデカい。
けど、あまり話題にされてない、気もする。

受け手の人たちが創られた何かを欲しいと思うきっかけはいろいろある。
好きな人が創ったものだから。
趣味嗜好が一致するものだから。
生活する上で必要なものだから。
この人たちに向けて何かを創る、という行為はそれこそ自分が思う目的・目標の差の1つでもある。
マーケティングが…ターゲット層が…市場調査をして…いやいや、手法はいいとして。
こういった受け手の人たちがいる『から』成り立っているもの創りとなると、その人たちがどういう価値観で創られたもの見ているのか、知る必要が出てくる。

ここ最近、自分も興味本位で何個か『それらしいこと』をした。
評価が高かったものを、いくつかまとめて置いてみたり。
どうやって創っているのか、説明を書いてみたり、動画にしてみたり。
自分ではない誰かが使うための機能を創って提供してみたり。


で、思う。
受け手の人たちは、創る側の人ではない。
だから、創ることそのものに価値を見出してるわけじゃない。
手順や過程よりは、ものという結果が欲しいし、どうやって創られているのか、手順の詳細なんてあっても創るまでには至らなくて、ただ『そこに手順の情報がある』という状況に、価値を見出してる。
場合によっては、その情報すら価値がない。
当たり前と言えばそうなんだけど、よくよく考えたら本当に異文化だなと感じた。

自分が好きだと思えるもの創りは、どっちかってと自己表現っぽいものだ。
その表現が相手に伝わっているかどうかは、全くもってどうでもいいけど…
一方、受け手側の人たちは、別に自身を何かで表現したいわけじゃない。
放っておいても誰かが目的のものを与えてくれるのなら、それでいいわけだ。
場合によっては自身を意識すること、思考することすら、面倒とまで言う人もいる。
何も考えなくていいきっかけを欲していることさえある。
享受している箇所が全然違う。自己表現とは真逆、かもしれない。

長年、このあたりの差について、漠然と不安や心配があったのは確かだ。
「この人ら、ホントに自我をもって判断して、感想や趣味嗜好の宣言をしてるんだろうか」
「自身で考えて自身で行動できてるんだろうか」
「自分が提供したものは、その人が取れる手段を増やし、行動を広めることができてるだろうか」
違う。前提がそもそも違う。
没頭したり、不便さを解消して、現実を忘れさせてくれるような、そういうものを求められている。
だから、こちらの不安や心配なんて気持ちは、余計なお世話にもほどがある。
そういうことらしい。


今でこそ、そこらへんの価値観の差は、埋まっていってるようには思う。
というのも、創る側の基準が、受け手側に大半乗っかってるから。
需要のない供給なんて無意味だ、の状態が当然になっている感じ。

ゲームの分野だけでもひしひし感じる。
昔はハイクオリティなグラフィックに加え、裸眼立体視だの、モーションキャプチャーだの、敵を数百数千登場させても処理落ちしないだの、専用のグラフィックエンジンを開発するだの、開発者側が一生懸命開発して自慢げにリリースするも、その後は需要がなくて採用されなくなるパターン。
最近は予算的にも余裕がないのか、あまり見なくなった。
あっても続編かコラボかリメイクか。そのあたり。

今だからこそ、絵のみならず、技術がアートとして普及しつつある部分もある。
思ったものを創るために必要な情報を簡単に収集できる。
簡単に創れて、簡単に共有できる。
簡単に済んでしまう原理について細かく調べることもできる。
ただ、そこで受け手のことを考え始めると、また価値観の差の話になる。
で、自己完結だったアートがそのうち、受け手を意識したデザイン(設計)になる。
金銭が絡み始めると、なおのこと。


いろいろ考えて、改めて思う。
自分はいろんな手段を持って、活動をする。
今はテキストを書いてるし、絵も描く。アニメーションを描くこともある。
ゲーム実況や歌ってみたの動画の投稿もするし、配信もする。
気が向けば作曲もするし、プログラミングもする。

新しいWebサービスを開発したり、配信ツールやbotを開発したりもする。
Discordでサーバー運用したり、TRPGのGMをするために準備をしたりもする。
技術文書を書いたと思ったら、ブログで鬱すぎる文章を永遠と書き続けたりもする。
ファンアートを描いたと思ったら、オリジナルでグッズを創ったりもする。
Twitterで哲学方面の論争を年単位でやって、まとめられたりもする。
個人サイト運営して同人本創ったりもする。

どれも間違いなく自分の意志を持ってやってる。
自分にとって楽しい行為でも、そのすべてが無価値だと信じてる。
失ってもなんら痛手にならず、誰かが存在の有無に何かを思う必要すらない。
だから、自分が消えても問題がない。
そういう気持ちで、活動してる。

だからこそ、受け手に理解されやすいよう、受けが良いように、
ブランディングして、どれか一つの分野に特化して、負の感情は表に出さない、創る行為が自己表現ではなく、他人から評価を得るための、もの創りってのが…
もの創りに対して享受している箇所の全く異なるものだと、理解しておかないとなぁ。

などと、この馬鹿は思った。

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