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「なぜその規範を尊重すべきなのか」という疑問は、この社会に存在可能なのか

現代社会において正しいとされている何らかの規範があるとして、それについて基礎的なところから学び、疑問点や不明点について議論し、(もし納得できるなら)納得する機会がもっとあればいいと思う。

そういった規範に対していわゆる「素朴な疑問」を投げかけること自体が非倫理的と捉えられ、非難の対象となりがちなので、多くの人々の適応戦略は「心の中で何を思っていようが黙っておく」「その規範に関係しそうな問題や場面や人物からできるだけ距離を置く」「非難する人々が首を縦に振りそうなことを表面的に言っておく」といったものになりがちである。

もちろん「素朴な疑問」の表明自体が、規範に依って守られるべき当事者にとって極めて大きな脅威になる可能性は多々あり、「心の中で何を思っていようが黙ってお」いてくれるならそれだけでもはるかにマシ、という面はあるだろう。昔からさんざん説明してきたことをいつまでたっても繰り返し説明させられ続ける、という絶望感や怒りもあるだろう。

一方で、過去の議論の蓄積はすでに山ほどあるのだから、自分で本を読んで勉強すれば良い、という意見もあるであろう。しかし、そういった規範に関する書物や情報は、殆どの場合それらの規範を自明のものとして扱っており、なぜその規範を尊重すべきなのかという問いには答えてくれない。

これは、書物が不親切なのではなく、ある種構造的な問題である。つまり、「なぜその規範を尊重すべきなのか」を議論し始めるやいなや、そのこと自体が規範を功利主義的に捉えるという立場の表明になり、非倫理的であると断じられてしまうからである。

そうなると残された道は、幼少期からそれらの規範が「自然なこと」として扱われる環境で育ち、息をするように規範を奉じるような人々を増やしていくしか無い、ということになるのではないだろうか。

ただ、もしかしたら成人してからでも、そのような規範が遵守されている環境に長く身を置くことで、身体的にそれを身につけるということはあるかもしれない。いずれの場合も、鍵は「事実性に基づく慣れ親しみ」であって、言葉によって啓蒙されたりした結果ではない。

だとすれば規範に関してそういった「事実性に基づく慣れ親しみ」の機会を不幸にして得られなかった人々は、啓蒙の対象なのではなく、淘汰の対象なのかもしれない。それでいいのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

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