【漢詩⑯】清明節はいつも雨《清明》

清明時節雨紛紛,
路上行人欲断魂。
借問酒家何処有,
牧童遥指杏花村。

杜牧(唐)《清明》

4月5日は清明節でした。お休みの前の日は大風だったのですが、窓辺から唸る木々を見ていると、同僚が「雨が降るね」というんです。なんでわかるの?と聞くと、にやりと笑って「”明時節雨紛紛”だからね。」と。きざかよ。

この季節のはいつも雨が降るんだそうです。それこそ、千年以上前の杜牧の頃からずっと。

杜牧は千年後も同じ雨が降っていると想像したことがあったでしょうかね。わたしは、今目の前で降っている雨が、千年後にも降っているかと考えると、正直確信はもてません。残念ながら。

「欲」いう漢字

ところで、辞書的な話になりますが、私は漢詩に出てくる「」の字が分かるようで分からなくって。いわゆる日本語読みだと「欲す」と読むやつです。漢詩にはよく出てきて、例えば思いつくのは

“乱花漸欲迷人眼“《銭塘湖春行》 
”路上行人欲断魂“《清明》

とかです。文面からは、「~しそうだ、~しているようだ」という意味に思われますが、これを機会にちゃんと調べてみました。

辞書的には、1.欲望、2.想要;希望、3.需要、4.将要とありました。うち1「欲する」が日本語の欲に一番近くて、2「望む」、3「必要とする」も1からの連想で分かります。花も人も自分から欲したり希望したりしているわけではないので、消去法的には4。4の将要は「~する」「これから~する」という未来を含む意味ですが、これをもとに中国人の方に質問をしたところ、転じて「好像(~のようだ)」「看来 (~のようにみえる)」と解釈してよいそうです。

もやもやがすっきりしたついでに、もうひとつ解釈を教えてもらったのですが、“乱花漸欲迷人眼“の「欲」はそのまま未来の意味を含めてとらえてよいのではということ。この歌は早春の歌なので、花はまだ全開ではなく、これからいよいよ人を惑わすところ、という初期段階にあると解釈できるということです。これは道理だと思いました。なぜなら、この句は次に続く"浅草才能没馬蹄"(生え始めた草はやっと馬のひづめを覆うほどになった)と対になっているからです。いずれも春の始まりを詠うもので、したがって、花もひらきはじめ、惑わしはじめととらえる方がしっくりくる。

訳や解釈については、HiNativeというサービス上で聞いたのですが、中国の方がいろいろ解釈を教えてくれて、とても楽しい時間でした。HiNativeは自由に外国語を投稿して、それをネイティブが直してくれるというようなサービスですが、漢詩について書き込みをすると返信がとみに多いと感じます。中国人の一般教養として漢詩はほんとうに根付いているんだなぁと実感する瞬間です。

それでは、本日はこんなところで。


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