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偶像文化と中空構造




:意味 ひとがた・にんぎょう(人形)・でく(木や紙、土などで人間の形をまねて作ったもの)

Idol/アイドル :語源 ギリシャ語「形,幻影」の意; 動詞 idolize アイドライズ


1…生業


 お蕎麦屋さんを美味しいお蕎麦を食べる喜びを生業/商売にした人だと考えると、歌手は素敵な歌を聴く喜び、俳優は良い演技を見る喜び、モデルは魅力的な容姿を見る喜び、作家は良い文章を読む喜びを生業にした人だろうと思います。その見方で考えると日本のアイドルは何を生業にした人と言えるのでしょうか。

 たぶんそれは“人を好きになる喜び”だろうと思います。日本のアイドルは歌い、踊り、演技をし、他にも様々な活動をしますが、その個々の活動がその道の専門家と比べて同等あるいはそれ以上の質であることは多くはありません。ですがそのことがそのアイドルのアイドルとしての評価を直接的に低くすることはなく、それは日本のアイドルが歌や踊りといった個々の活動や能力そのもの自体が人に与える喜びを生業にしたものではないからだろうと思います。

 容姿や能力といった客観的に優劣が比較可能な“スペック”は人に興味を持つきっかけにはなっても惚れる理由にはならないように思います。人は相手の短所長所、知っているあるいは知らないこと、性格、言動、容姿、能力などに加え、共有の経験などその相手と自分の間で成立する様々な要素の総体としての関係性、という意味での人間像に惚れるのだろうと思います。他人の人間像は自分との関係で成立する為に、人間像=関係性です。それは相手に惚れる場合でも憎む場合でも同様ですが、個々のスペックの単純な良し悪しがその総体にどのような影響を与えるかは分かりません。意識して自覚できることには限界があり、短所が魅力的に見え、長所が鼻につくこともあります。ただその複雑な要素の総体としての人間像に惚れるか憎むかどうでもいいか、わかるのはその結果だけです。


 日本のアイドルという生業にとってその様々な活動は、個別のアイドルとしての人間像を成立させる手段ではあっても最終的な意味での目的ではなく、その目的はその総体としての人間像、別の言い方をすればそのアイドル固有の“キャラ”がその生業の本分だろうと思います。

 とはいえ個別の活動をおろそかにすれば多くの場合その総体としてのキャラの魅力を減じることになり、かといって個別の活動や能力に優れることが直接的にその総体としての評価につながることを必ずしも優位に期待できるわけではないため、それは万事を尽くして最後は観手に委ねるという、近道や定石のない生業だろうと思います。それ故にその描いた人間像も文化全体も、その画龍に最後の点睛を入れるのは観手であり、観手側の能動性が非常に高い文化と言えるだろうと思います。


2…一対多


 人が人を好きになるというのはいつでもどこでも、誰にでも起こるごく自然なことですが、それを”一対多”の関係で成立するような生業とするのは簡単なことでも、自然なことでもありません。

 ”人を好きになる喜び”を生業とすることに関しては類似性のあるキャバクラやホストの職とアイドルが違うのは、キャバ嬢やホストはあくまで客と一対一の関係を作るのに対し、アイドルは”一対多”の関係を原則とすることにあります。そのため一人のキャバ嬢やホストが100人の客を持つ場合、そこには100種類の一対一の関係性が存在し、その100人の客に合わせて彼らは100の異なるキャラ/人間像を持ち、そしてまさにそこがその職の本分だろうと思います。しかしアイドルはそのファンの数が何人かに関わらずそのキャラは一つだけであり、その関係性もただ一つの”一対多”の関係性のみです。それはたとえファンの数が一人だけだったとしても、その関係性は”一対多”であり、その関係性へのアイドルとファン相互のコミットと尊重がこの文化の要だろうと思います。

 しかし何百、何千、何万という規模の多様に異なる個々人が、一つの人間像に惚れるということは本来ありえず、単純に考えれば100人いれば100通りの理想や惚れうる人間像があるはずです。

 もし人が相手の客観的で比較可能なスペックを理由に惚れるのであれば、容姿端麗で絶世の“スペック”に優れた一個人に世の大多数の人間が惚れることもありえますが、もしそうであれば世にこれほど多くの恋愛感情は成立しえませんし、 雌雄のある社会的動物の性質として考えても、100の個体がいれば50とはいかないまでも3~40程度のペアが成立するような性質を持っていなければその種は滅んでしまいます。

 多様に異なる人々の多様な理想や好きを一人の個人が担うためには、その不自然な状態を可能にする仕組みが必要となり、それが偶像的で中空の人間像だろうと思います。


3…神聖な中空


 日本のアイドルはそのアイドルとしてのキャラ/人間像を、容姿、言動、能力など多種多様な要素を用いて確立しますが、その要素には個人の同一性の根幹に関わるような核心的要素を用いることは一般的に避けられます。
 その多くが年齢や本名を明かさないことや、どんな宗教を信じるか、どのような政治的主張を持つか、誰を個人的に愛するか等、それらは人の容易に取り替えも妥協もできない個人の同一性の核心部分と言えます。その意味で日本のアイドルの“キャラ”は人間像の輪郭線であり、それは核心部分に中空を内包した人間像を作ります。その核心部分が中空であるがために多様多数の異なる個人が、その中に自身の理想を投影させる余白が生まれるのだろうと思います。

 核心が中空だからこそ多様に異なる多くの個人が、様々に自らの理想を投影し見出す文化的依り代として、日本のアイドルは成立するのだろうと考えられ、一人の日本的アイドルが100人のファンを持つとき、その人間像の中空には100通りの異なる人間像が見いだされているといえます。それらは共通の“キャラ”という人間像の輪郭線、すなわち共通の条件付けを持った中空に見いだされているが故に共通項は多くありますが、厳密には100通りの異なる好きと、関係性と、人間像を内包しているのだろうと思います。

 この譲りも妥協もできない人間像の核心の“神聖な中空”という仕組みが、日本のアイドルが原則的に政治、宗教、恋愛などへの言及を避ける理由だろうと思います。


4…スペックと中空


 これは西洋のアイドルとは異なる日本のアイドル特有の性質だろうと思います。西洋的なアイドルは自身がどのような政治的立場をとり特定の政党を支持し、宗教を信じるかなどの表明はファンとの関係においては自由であり、その政治的発言に対して政治から批判や圧力を受けることがあっても、ファンが挙って批判するようなことはなく、またどのような恋愛をするかはゴシップネタにはなってもその活動に致命的な打撃を与えるようなことはほとんどありません。それは西洋的アイドルの価値の比重は、その具体的に対象にとれるファンの眼差しの中心としての“スペック”にこそあり、容姿、能力、言動、性的魅力、創造性など、それらの“スペックが与える喜び”がその価値の中心であり、そのスペックを持った人間が何を考え、愛し、信じるかは副次的要素だからと言えます。

 日本的アイドルの恋愛報道がファンの批判を生むことが多いのは、それが“人を好きになる喜び”を生業/商売とする職業において、それまでにそのアイドルが提示してきたキャラとしての人間像の輪郭線と、その中空の条件付けの劇的な変更であり、それによってそれまでその中空に見出されていた様々な理想の人間像が矛盾を生じて破綻するためだろうと思います。
 アイドルの“恋愛”は雑誌報道などで比較的頻繁に話題になることですが、おそらく突然の政治的主張や、宗教の表明でも同様のことが起こるだろうと思います。

 しかしもちろんアイドルとはいえ生身の人間である以上、そのアイドルとしての人間像も、そのキャラを中で担う一個人としての人間も常に変化し続けるのは必然であり、基本的にはそのような自然で緩やかな変化はファンとの相互的関係において成長という形で好意的に許容され成立しているのがアイドルという生業の健全な形なのだろうと思います。

 仮にもしその活動のはじめから自分の恋愛や宗教、政治的立場などを明確に表明し、そのキャラにしているのであれば、それが批判を受けることはおそらくないだろうと思います。
 しかしそのようなアイドルが何千何万規模の多数の熱烈なファンを獲得するような文化的素地はまだ現代日本にはないように思います。“まだ”というのはアイドルという生業や文化も常に変化し続けており、十年後、三十年後にどのようなアイドル像が成立し、人々に受け入れられているかはわからないからです。


5…社会とその乱反射


 文化というのはそれを生んだ社会を反映します。それは見方を変えれば社会を正当化する手段が文化だからです。歴史上の権力者たちが自身やその権力構造を讃える銅像、絵画や建築物を作らせたのはわかり易い例だろうと思います。ただしそれは政治を正当化する手段ではなく社会を正当化する手段であり、それは統治の仕組みが君主性か立憲君主制かなどに関わらずこれまでも文化はその社会を正当化し、その社会の世界観に正当性や安定などといった、”もっともらしさ”を与える手段としてその役割を果たしてきました。正当化を別の言い方で言えば、その社会が根源に持っている価値観を様々な形で具現化して人々が確認、参照可能にすること、とも言えるだろうと思います。

 現代日本でなぜ多種多様な異なる個人がその多様で異なる理想の人間像を見出す依り代としての、神聖な中空を内包した人間像という文化が成立したかは、明らかに現代日本社会の反映であり、それはロラン・バルトがその著書“表徴の帝国”で“空虚の中心”という言葉で端的に言ってのけた日本の社会と権力と都市の構造そのものです。

 順番的には、人々の羨望を集めるような一対多の関係性にある対象を、自らの理想を投影する依り代として受容するという、日本社会の構造に由来する文化的性質の方が先にあり、それが日本的アイドル文化を成立させる一因になったと考えるのが自然だろうと思います。そのためにアイドルに限らず歌手や役者、芸人などに対しても、その政治、宗教、恋愛などの表明に違和や反感を示す人々は多くいるように思います。

 日本社会の中空構造に関しては以前別のテキストで書いたのでこれ以上言及しませんが、日本的アイドル特有の構造や性質が生まれたのは決して偶然ではなく、現代日本の社会構造ゆえの必然だろうと思います。
 そしてこの日本社会の“空虚の中心”、“神聖な中空”そのものも現代社会で徐々に、しかし確実にその性質が変化していることを考えれば、その文化的反映としての日本のアイドルも変化し続けることは確実だろうと思います。


6…過去の断片、現場の領分


 このテキストに書いたようなことは、ただ過去の一時期の一部の日本のアイドル文化がそのような性質を持っていたかもしれないという程度であって2020年現在、そして今後の日本のアイドル文化がどのような性質を持ち、そして獲得していくかはわかりません。この手のテキストはそのもっともらしさや胡散臭さにかかわらず既に過ぎた過去しかその対象にできず、その現在と未来は現場の領分です。特にこの文化はまだ新しく、明確に権威化もされておらず、現在進行形で常に創発し続けているが故にそれは一層だろうと思います。

 この文化の起源の様々な断片は、第二次大戦の敗戦まで続いた日本文化史の中に、能の舞台性と巫女の存在性、そして武士(軍人)文化から生まれた“抑制の様式/美意識”が敗戦によって反転し、商人文化の“消費の様式/美意識”となった形でたどることができ、それらの断片のキメラ的な現象として現代日本のアイドル文化を見ることができるように思います。
 そして西洋的アイドルと日本的アイドルの違いも、それを生んだそれぞれの社会の構造が、中心(に本質)を持つか、中心に中空を持つかの違いの反映だろうと言えますが、それらのことは以前のテキストに既に書きました。







2020/7/13th

2020/8/17th




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