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男性にも見て欲しい、バービーのすすめ 

遅ればせで見たバービーが大変興味深かったので、感想をまとめました。

1.まだ見ていない人へ

バービーについては、オッペンハイマーとの同時上映に絡んだ炎上が注目されてしまい、内容自体の議論がかすんでしまった感があります。予告だと人形が人間性を体感する、魔法にかけられて的な作品かと思ってしまって、興味が湧かないという人も多いのではないでしょうか。。。敢えてなのかもですが、非常にミスリーディングな予告編だと思いました。

でも、全然そんな話じゃないです!!
むしろ、映画好きな人なら気が付く随所にちりばめられたオマージュと、完成度の高いエンタメ要素で盛り上がりつつ、色々なことを考えさせられる良作です。ラ・ラ・ランド楽しめたような方は特に楽しめると思います。

フェミ映画かという点は後述しますが、女性の生き辛さについての表現は数多の物語で語られていることに近く、そこまで特筆要素はないと思います。むしろ、この物語の特筆すべき点は、圧倒的に「記号化された男性しか登場しない」ことです。この違和感は、不快に感じる方もいるかもしれませんが、新しい視点を獲得するために体験していただければと思います。

2.予習・復習するなら

バービーの誕生秘話及びマテル社の歩みについてのドキュメンタリー、僕らを作ったオモチャたちのバービー編は見てから行くと、あるいは見た後にみると解像度が上がると思います。特に冒頭シーンの演出意図が良くわかります。おっぱいがあるだけで、過度に性的で玩具にふさわしくないとされたこと、女子用の玩具に「母親になる」模倣から、男の子の玩具と同じく職業人になる将来を夢見させる意味を持たせた革命をもたらした創業者のルース・ハンドラーの功績は、たとえバービー人形自体が「フェミニズムを50年遅らせた大罪」を背負っていたとしても、やはり素晴らしいものだと思いますし、マテル社では、映画の中と違ってちゃんと女性CEOや女性部長が活躍していたことが分かります。

ちなみに、議論になる人形の過度に理想化された体型ですが、これは人形に人間の服飾生地で作った洋服を着せると首が埋まってしまうので、服を着たときに丁度になるように調整をした結果とのこと。

3.本編感想(ネタばれあり)

ここからネタバレありですが、ネタが割れてもさほど物語自体の面白さは減らないかなと思っています。

(1)とにかく反転する世界

冒頭の完璧なバービーランドのきらめきと、そこにいるケンの所在のなさ(バービーの視線の中しか存在意義がない無意味な存在)から、現実世界の男性支配を実感するシーンが圧巻です。
普段見ているありのままの世界が、こんなに男性的で、建物や車のデザインも、映画や音楽やその他の娯楽も、スポーツも、あらゆる社会的地位、肩書も男性用のものがメインで揃っているこの天国感!初対面の異性にも敬語を使われるのが当たり前なだけでも気分がいい!!

このノリを彼はバービーランドに持って帰るんですが、そのお粗末さが、また現実社会における過度なフェミニスト運動の気持ち悪さを想起させるところも反転感があります。ケン自体は意趣返しであることを自覚しているところがまた良いです。

(2)有害的男性性と弱者男性問題

ケンは男性社会の喜びと同時に、「男性なだけでは、男性社会でも生きていけない、MBAや博士号やら能力がないと、居場所がない!」という現実を突きつけられます。女性の進出も進み、強者ではない男性には世の中は生き辛くなっています。

そこで、バービーランド改めケンダムランドでは、「馬」と男性という、男性であるだけで居場所があった古きよき時代を目指すわけです。

映画の中では、男性が発揮するおらつき、幼稚さ、マンスプレイニングに代表される有害的男性性(toxic masculinity)が、これでもかと描写されます(うざい男性にはゴッド―ファーザーの話を振ればよいという)。ここまでダサダサに幼稚な表現はいまだかつてないレベルですが、それがウエストサイドストーリーのオマージュにはまってしまったりするわけですから、現実にもこのダサさは存在してきたわけです。

この有害的マッチョさが、自分のコンプレックスと表裏一体であること、男として魅力的であるためには運動神経や体格の良さ、社会的成功が伴っていないといけないという強迫観念の辛さが、女性の生き辛さと表裏一体をなすものとして描かれていることが本作のすばらしさかと思います。女性としての辛さを叫ぶだけではなく、男性を理解し、男性の生きやすさをどうつくっていくか、男性の気持ちを理解することはとても大事だと思います。下記の本も面白かったのでご参考に。

劇中で「君を押し倒したい」と歌われるというPushという曲がまた象徴的なのですが、この歌詞は女性による心理的虐待に苦しむ男性の歌詞でもあるとのこと。ケンはバービーにある意味虐待されてきているので、このあたりの描写もうまいです。ちなみに人間社会のグロリアの夫も家庭内では「空気」扱いなところが、どうにももやっとするところもポイントで、女性の生き辛さを語るなら、自分の身近な異性に自分がしていることも顧みる必要がありそうです。

(3)女性活躍や洗脳表現について

バービーランドでは、大統領も最高裁判事も、ノーベル賞受賞者も女性で、みな生き生きとしていますが、主人公バービー自体は単なるステレオタイプ(定番商品)であり、容色が衰えれば存在意義がないと嘆いています。

また、本来なら優秀であった賢い系バービーたちが、男性陣の洗脳で、かわいい服を着てビールをサーブするのが喜び~みたいになってしまったところ、人間界からきたグロリアが女性の生き辛さと可能性を語り、洗脳を解くというのが、いわゆる本作のフェミパートです。

グロリアの長セリフは、男性社会で働いてきた筆者にとっては、胸に迫るものがあり、思わず涙しましたが、本作は決して女性性の賛美を行っているわけではなく、女性が支配している大統領府が男性社会よりも優れた統治をしているようには見えませんでしたし、変わり者バービーは仲間はずれだわ、男のいない間に国民投票は済ませてしまうわ、女性優位社会のディストピア感もちゃんと誇張されていて、決してフェミ礼賛ではなく、むしろ風刺の側面が大きいと思いました。バービーランドにおけるケンたちの受難は当面続きそうです。

(4)人間賛美と創世記

人間世界へ到着した冒頭、バービーが様々の人種、老若男女、笑い、苦しみ、悩みが混在する不完全な現実世界の美しさに心動かされるシーンがあります。この象徴的なバス停のシーンだけでも、本作が女性礼賛ではなく、人間賛美の物語であることが伝わります。ここだけでもう本作に触れてよかったと思いました。個人的には、プラダを着た悪魔の冒頭でメリルストリープがイブサンローランの話をするシーン(小さなエピソードですが、これだけでミランダがただの成功者ではないこと、物語全体の骨格を象徴しています)に並ぶくらい好きです。

人形であるバービーは、性的な行為を嫌悪しており、ケンとは単なる”long term casual relationship”を構築しているだけ、妊娠しているミッジは廃盤商品です。これには、上記の「僕らを作ったオモチャたち」で明かされていますが、妊娠してしまうと女性は家庭や母親という檻に入れられて、自由な自己実現ができないので、女性活躍の象徴であるバービーは無限の可能性を秘めた独身女性である必要があるから、という背景があります。

このように永遠の美、自己実現の象徴であるバービーが、自身にとっては創造主であるルースと出会い、何者でもない、フツーの不完全な「人間であること」の素晴らしさを受け入れる終盤は非常に神学的かつ哲学的な雰囲気に満ちており、ルースとバービーの遭遇シーンは、システィナ礼拝堂の「アダムの創造」のオマージュだそうです。

冒頭の2001年宇宙の旅オマージュから、性的存在としての女性性の自覚と否定、創造主との出会い、そしてラストのエンディングまでの非常に構造的な流れが、コメディタッチの表層の下に的確に収められている様は、見事としか言いようがありません。

(5)平凡であることと、ラストシーンの意味

人は何かで自己実現し、社会貢献していないといけない、ビジネスはSDGsの価値を体現していなくてはいけない、何か価値のある情報を発信し、あるいはクリエイティブであり、人々の耳目を集めるに足りる者でなくてはならないという強迫観念は、単に高い所得が欲しいという2000年初頭の時代よりずっと強く多くの人を圧迫していると感じています。日本でもそうですし、競争社会の米国ではなおさらそうでしょう。

そのストレスの中で、くだらないマウンティングをしたり、地位の高い人の不祥事を徹底的に攻撃したり、美しい人の劣化を揶揄するとか、そんなことにばかり疲弊しているのは、かなしいことです。

裁判官でもCEOでもなく、ただのフツーの人(ordinary person)でもリスペクトされていてよい、人間であるだけで素晴らしいというのは、本作のキーメッセージであり、ラストシーンはバービーが「何者かになるためにアクションをするのかな」と期待させつつ、まったく異なる結末が用意されています。

上記の解説とは異なりますが、私はこのラストシーンは、創造主であるルースが、「創造主の許可などいらない」と語る神学的なシーン、エンディングに流れるビリー・アイリッシュの”What Was I Made For?”とあわせて、LGBTQの存在含めて(明示的には語られませんが、クィアであることを示唆されているアランの存在感は大きかったです)、人間がどのような生・性を選択し、どのように生きていくかは神の意志からも自由であってよいのだと謳っているように思えました。

追記:

得るものの大きいバービーでしたが、映画の中ではあるべき男女の共生の姿にはもやがかかっており、多様性の扱いについてもバービーランドから脱出した経験のある白人の定番バービー、へんてこバービー以外の有色人種の扱いは安易で、そもそもバービーランドにおける女性活躍は資本主義支配されているマテル社の男性経営陣の意向の反映にすぎません。また、メタ的にも本作自体も興行収入達成のためにプロットが組まれ、巧妙なキャスティング(東アジア人バービーの不在)がされているわけで、単純に感動したり、感心したりするのは安易だという指摘はもっともかと思います。

ただ、自分の置かれている状況を反転させ、客観的に相対化して考えること、自分の生き辛さのみならず、他者の生き辛さに目を向けた解決を考え、その人がその人であることを相互に祝福し、あらゆる矛盾やかなしみを内包した世界の美しさを受け止めて生きていくという本作のキーメッセージは、同じく分断の課題を抱える日本の男女にも届いてほしいなと思った次第です。


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