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それは香川から始まった 硫化水素自殺流行の時代(2008年)

 酸性洗剤と入浴剤を混ぜて有毒ガスを発生させて自殺するー。いわゆる硫化水素自殺が流行り、社会問題となったのは今から十七年ほど前にさかのぼる。インターネット掲示板などを通じて「手軽に・楽に死ねる」方法として取り上げられ、自殺した人を助けようとした家族を巻き添えにしたり、ほかの住民を危険にさらすなどした事例が報道され、社会問題になった。警察庁の調べでは、二〇〇八年の一年間に硫化水素で自殺した人数は千五十六人に上った。


■ 2007年3月 香川大生の自殺

 〇七年三月六日午後一時半ごろ、高松市太田下町のアパート(二階建て)の一室で、香川大学四年の男子生徒(二四)が死んでいるのを、家族の通報で駆けつけた消防隊員が見つけた。高松南署の調べによると、生徒は浴室で酸性洗剤と入浴剤を混合させていて、玄関ドアに「硫化水素発生中」と書いた紙を貼っていた。また、パソコンからは遺書のようなメモが見つかったことから、生徒が硫化水素を発生させて自殺したと断定した。

 この自殺の影響で、近くの市立太田中は部活動を中止して生徒を下校させたほか、市立太田南小は一、二年生の下校に担任が付き添い、周辺地域に一時規制線が張られるなどの大騒ぎになった。

 この自殺は、全国紙新聞やテレビなどで大きく取り扱われた。硫化水素自殺により周辺住民が大きな影響を受けることを示したケースになった。実際、テレビのニュースなどでも現場の様子や住民のコメントなどが繰り返し取り上げられた。


■ 硫化水素とは


 硫化水素は無色透明のガスで、硫黄を含む化合物と酸、アルカリなどが反応して発生するガス。工場などでは、脱黄装置の故障などによりガスが発生し、死亡する事故などが発生している。一般的には、二〇ppmを超える濃度のガスを吸うと嗅覚の麻痺、気管支炎や肺炎などを起こし、一〇〇ppmを超えて長時間吸い続けると死亡する可能性が高まる。一般的には「卵の腐ったようなにおい」と表現される。

硫化水素自殺で避難する男性のコメント

 身近な有毒ガスではないものの、温泉郷や工場などではガスによる中毒死が年間数件発生している。〇五年には秋田県湯沢市泥沼の温泉で、雪のくぼ地に発生していたガスを吸って一家四人が全員死亡する事故が起きている。二四年四月にも、長崎県佐世保市の米軍基地のタンクの底でガスが発生。それを吸った作業員二人が病院に運ばれたが全員死亡するなどの事例がある。

 当時、トイレ用酸性洗剤の「サンポール」と六一〇ハップを混合させて硫化水素ガスを発生させ、自殺する方法がインターネット掲示板などに貼られ、方法を解説するウェブサイトが作られるなどしていた。

■ 神奈川・秦野市 一家4人硫化水素中毒

 〇七年七月十三日、神奈川県秦野市鶴巻の会社員(五四)方で、「弟がガスで自殺を図り意識がない」と一一九番通報があった。同市消防本部の救急隊員が駆けつけると、浴室内でこの家族の弟の男子大学生(二一)と、兄(二三)、妹(一八)、母親(四九)ら計四人が倒れているのが発見された。発見当時浴室の換気口や扉は粘着テープで目張りがされていて、サンポールの空き容器四本、六一〇ハップ五本が浴槽内に置かれていた。

 弟は現場で死亡が確認され、残る三人は救急車で伊勢原市の東海大附属病院に運ばれたが、母親、兄の二人が死亡した。周辺地域は規制線が張られ、火気の使用を制限するよう広範囲に促された。また処置にあたった救急隊員や警察官、病院関係者ら計五十一人が巻き込まれ、うち二十八人がのどの痛みや頭痛、吐き気、めまいなどの症状を訴えた。

 この事件もまた、在京報道各社で大きく取り扱われた。

■ 自殺手法としての流行

 自殺はこれだけでは終わらなかった。同年十月二十四日には、埼玉県熊谷市明戸の荒川河川敷に駐車していた軽乗用車から卵の腐ったような臭いがするのを通行人が気づいて一一〇番通報した。熊谷署員が駆けつけると、車内で比企郡の会社員の女性(二一)、無職の女性(同)が死んでいた。車内からは同じく、酸性洗剤と硫黄を含む入浴剤の空き容器が転がっていた。車の後部には「毒ガス発生中 火気厳禁」と張り紙がされていて、仕事や人生に悲観する内容の遺書が見つかった。

 警察庁のまとめでは、同年中に硫化水素で自殺した人数は二十七人を数えた。

 翌年一月二十四日には、奈良県奈良市四条大路のホテルの四階客室で、宿泊客の四十代男性が頭からビニール袋を被って自殺しているのを発見された。この時には七十代の女性従業員が巻き添えになり、病院に運ばれる騒ぎになった。

巻き添えが発生した事例

 そして巻き添え型の事例は増えていった。〇八年三月十六日には横浜市南区のマンションで住民の男性が自殺を図った。男性は死亡。この時ガスが外に漏れてしまい、隣室と階下の住民が気分の悪さを訴えて病院に運ばれた。

 同月二十五日には、神奈川県鎌倉市で男子大学院生(三五)が全身をポリ袋に入れて硫化水素自殺しているのを母親が見つけた。これを助けようとした母親(六一)がビニール袋を開けたところ、ガスの巻き添えになり二人とも死んだ。

 四月四日、大阪府枚方市招堤南の民家の浴室で、住民の長女(二二)がうつ伏せになって倒れているのを家族が発見して一一九番通報した。このとき、助けに入った母親(四七)がガスの巻き添えになり意識不明の重体となり、長女は死亡した。この影響で周辺約十メートルに規制線が張られ、近隣住民に注意を呼びかけるなど大きな騒ぎとなった。

香南市で発生した中三女児の自殺

 同月二十四日、香川県香南市香我美町徳王子の市営団地(五階建て)で、住民の中学三年の女子児童(一四)が浴室で硫化水素自殺。このとき、女児を助けようと浴室に入った男性が巻き添えになり一時意識不明の重体となったうえ、ガスにまかれた住民ら二十一人が救急車で搬送され、四十六人が自力で病院へ行く大騒ぎとなった。このときも、やはり浴室のドアに「ガス発生中」と張り紙がされていた。

 同月二十五日、横浜市栄区飯島町のマンションで、住民の男性(三八)が硫化水素自殺。小学生の次男(八つ)も巻き添えになり、母子計三人が病院に運ばれた。このときも浴室のドアに「入るな、キケン」と張り紙がされていた。この自殺では、同市消防局のポンプ車など十三台が出動したうえ、住民など百五十人が近くのコミュニティーセンターに避難する大騒ぎとなった。

ザ・ペニンシュラ東京、発生直後の映像

 東京都内では、同月二十五日に千代田区有楽町の高級ホテル「ザ・ペニンシュラ東京」で、岡山県内の会社員の男性(四七)が客室の浴槽で硫化水素を発生させて自殺した。東京消防庁の消防車十六台が横付けされ、ポンプ隊レスキュー隊など計十六隊約八十人が突入。昼下がりのオフィス街は騒然となった。

 数え上げればきりがないほどの巻き添え死は、社会問題として大きく扱われた。また、報道各社の報道姿勢も問題視された。この年だけでも、硫化水素自殺した者は千五十六人に上った。

■ ネット情報の「有害」指定騒ぎと報道姿勢への批判

硫化水素自殺に関して記載されたコピペ情報

 硫化水素自殺の方法が詳細に解説されたウェブサイトがインターネットに存在していることが問題視され始めたのも、巻き添え死が注目されはじめた四月ごろからだった。同サイトでは、硫化水素を発生させるために必要な洗剤と入浴剤の混合方法。安全かつ楽に死亡するための前準備、さらには貼っておくべき張り紙のPDFまで掲載されていた。

 この情報が「自殺者を増やす有害情報」であるとして、同年五月これらの情報や書き込みを有害指定。プロバイダなどに削除を要請した。これに対して一部の事業者は、表現の自由への弾圧であるとして削除を拒否するなどした。

 一方で報道各社の姿勢も問題視された。自殺が発生するたび、場所や周辺地域の様子。近隣住民のコメントのほか、どのような方法でガスを発生させたか。さらにはどこにその情報が載っているかまで詳細に解説し、これが「自殺報道がさらなる自殺を呼び起こす」と批判を受けた。実際、同年の内閣府自殺対策白書では、「四月・五月時点の自殺者数の増加と、新聞紙面・テレビ報道の露出度は比例しており、報道内容についても確認を行ったところ、自殺者本人だけでなく他者への巻き添えが起こり避難者が出た頃から急速に露出が高まったことがわかった」と指摘されている。

 在京報道各社は六月以降、自殺騒ぎを大きく取り上げないなどの対応を取ったものの、同年の自殺者は前述の通りとなった。

■ 入浴剤ごと規制するも、すぐに代替手法が・・・


六一〇ハップ(販売終了)

 一連の自殺に共通したのは、①自殺前の検索履歴に「硫化水素自殺の方法」を記載したサイトにアクセスした履歴があったこと。②市販洗剤と入浴剤、またはその他の硫黄合剤が混ぜられていたこと。③場所は浴室や車内などの密室で、立ち入りが危険であることを示した張り紙がされていたことだった。この中で報道の批判の矛先が向いたのは、硫黄合剤入浴剤「六一〇ハップ」を販売している武藤鉦製薬だった。硫化水素自殺に用いられるから規制するべきという論調が高まり、同年四月から七月にかけて販売が自粛され、自粛解除後の販売の見通しは悪くなった。その後同社社内の事情などにより工場は操業停止。販売は終わった。


代替にあがった石灰硫黄合剤

 しかし、六一〇ハップを規制しても自殺は止まらなかった。インターネットにはすぐに「六一〇ハップの代替に石灰硫黄合剤とサンポール、または自動車用バッテリー硫酸液が使える」という情報が掲載されるイタチごっこになった。

 同年以降も硫化水素を発生させる事例は続き、確実性のある方法として認知された。〇八年の自殺者の総計は確定値で三万二千二百四十九人に上った。

■ 2008年の主な出来事

二〇〇八年の主な出来事

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