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映画 『月』を観る その2

 冒頭から申し訳ないのですが、その1を書いていてハタと気づきました。この記事はまったくのいわゆる”ネタバレ”ものです(もう遅いか‥)。自分でもどうしてここまで気づかなかったのだろうと不思議でしたが、まあ、それだけ詳細に記事にしてみたかった、ということかなあと思っています。なので、これからこの映画を観ようと思っているかたは、どうぞくれぐれも慎重にこの先をお読みください。おそらく映画の全体像を書き切ってしまうと思いますので・・。

(ここから前回からの続き) 
 同じ施設で働く洋子と陽子、そしてさとくんは仲が良くなり、洋子の夫、昌平も含めた4人で夕食を共にする。そこで、洋子と同じく小説を書いている陽子は酒に酔った勢いで洋子のかつての作品を非難する。小説は震災をテーマにしたものなのだが、「きれいごとしか書かれていない」と。陽子はまた、クリスチャンである父が不倫をしているのを隠してることも、「本当のことを隠している」と面と向かって言い放つ。その一方、自分が小説を書いて賞に応募しても落選ばかりで、働きながら、「生きている意味なんてあるのか」と悩んでいる。

 さとくんは施設の入所者に紙芝居を見せたり、洋子が担当する部屋の窓を覆われてしまった人に「月を見せてあげたい」と、自分で描いた絵の月をその人の壁に貼ったりするのだが、”死”についての独特の考えを持っている。その最たるものが「言葉が通じないものは生きていても無駄である」というものなのだが、このさとくんの死に対する考え方が最終的に施設の入所者への殺傷(虐殺)へとつながっていく。さとくんのこの考えがどのようにしてできあがったのか、映画のなかでははっきりと描かれていなかったような気がするが(わたしが見逃した可能性もあるが)、実際の事件を取材された記者の記事を読むと、さとくん(実際の事件でも犯人は”さとくん”と呼ばれていたという)は両親や友人との関係は良好だったが、ある時からネットの世界で持ち上げられたりするようになり、考え方がエスカレートしていったのではないか、という(実際にネットの世界ではこうしたことが起こっているらしい)。いずれにしろ、洋子や昌平は3歳で死んでしまった子供のことで悩み、陽子はきれいごとがはびこる世の中を恨み、また、自分の夢が叶わないことで生きていることに悩み、さとくんは死に対する独特の考え方ゆえに、次第に施設の入所者に対して命を奪うことを考えていく。つまり、4人の登場人物全員が”命”や”死”に直面しているわけだ。ここで、この作品の原作者である辺見庸のことがすぐさま思い浮かんだ。辺見庸は死や命について掘り下げる作家であった(辺見庸の『もの食うひとびと』という作品はとてもおもしろかった)。

 さて、こうして登場人物それぞれの”死”や”命”に対する思いや考えが明らかになり、物語は次の段階に進むわけだが、洋子には”妊娠”という事態が訪れる。昌平との間に2人目の子供ができたわけだ。しかし、洋子は悩む。また一人目と同じような「障がい」をもった子供が生まれたらどうしようかと。そして医師に「出生前診断」を勧められる。「出生前診断」とは、妊娠、出産を経験されたかたはご存じだと思うが、出産前の段階でその胎児に障がいがあるかどうかを調べる、というものだ。そして、診断を受け、「障がい」があると診断された人の多くは出産をあきらめるのだという。

 陽子はそのことになんとなく気づく。そして、その作品を非難したが、それは羨望との裏返しでもあった洋子のその後の行動に強く注意を向けるようになる。

 さとくんは施設の入所者(知的障がい者)への行き過ぎた対応に違和感や不信感を抱きつつも、自分の”死”に対する考えを押し進めていく。つまり、”言っていることが伝わらない人は無駄な人であり、無駄なものは世の中からなくなるべきだ”という考えである(実際の犯人である”さとくん”はこのことを記者に「意思疎通のとれない障がい者は安楽死させるべきだ」と語ったという)。そしてそのことを陽子にも堂々と告げる。というのも、さとくんのなかでこの考えは”当たり前”であり、”常識”であるからだ。罪悪感のようなものは抱いておらず、実際に知的障がい者のような意思疎通のとれない人を殺すことは自分の使命だと言い放つのである。

 このあたりのことは映画および原作の小説と、実際の犯人の行動や考えとを混同してはいけないのだが、わたしはあくまで映画のなかのさとくんの考えに対し、それは違う、と言いたい。最終的にさとくんは「言っていることが伝わらない人」の基準を「言葉がしゃべれない人」とするのだが、これは明らかに違っている。わたしが知的障がい者の寮で働いていて、「言葉がしゃべれなく」ても、「言っていることが伝わる人」は多くいるからだ。
 この点については、3年以上、施設に勤めているさとくんにはそれこそ”当たり前”であり、”常識”であったはずなのだが、どうして上のような考えになってしまったのか。そして、意思疎通のできない人は死んだほうがいい、という考えがどうやってできてしまったのか。意思疎通のとれない人はこの世の中に知的障がい者でなくともそれこそ山のようにいるし、自分(さとくん)と意思疎通がとれないからといって、どうしてその人が自分の目の前からいなくなったほうがいいのか。極端な言い方をすれば、自分(さとくん)がその人の前からいなくなってもよく、相手に対してだけいなくなったほうがいい、というのは自分勝手なのではないか。そんな考えがわたしには浮かんできたのだった。
                               つづく

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