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映画 『月』を観る その1

 先日、『月』という映画を観た。数年前に神奈川県で起きた知的障がい者施設・津久井やまゆり園での事件(職員が数名の知的障がい者に暴行を振るった)を題材にしたものだ(原作は作家・辺見庸が書いた小説)。じつはわたしも普段は知的障がい者の寮で働いており、入浴から食事、排せつ、着替え、レクリエーション等々の介助(業界では「支援」と呼ばれている)を行っている。

 この映画がすこし前に毎朝読んでいる中日新聞で紹介されたとき、あの事件を思い出すとともに、これは他人ごとではなかった、としばらく行っていない映画館へ行かなければ、という気になった。わたしも施設で働いて5年が経つが、知的障がい者とのやり取りはなかなか一筋縄ではいかず、正直、嫌になったり、ひどい時にはぶん殴ってやろうかなんて思うこともあるからだ。そういえば、あの事件の犯人はどうしてあんな行動に出てしまったのか、それを知ってみたくなった(宮沢りえが出演を希望したという記事の内容にも魅かれたし)。

 原作者の辺見庸は、津久井やまゆり園の事件が画期的であり、にもかかわらずあまり報道もされずに人びとの意識から消えていくのは問題だと思い、作品にしたのだという。確かに、映画を観た後にあらためて事件のことをすこし調べてみたのだが、冒頭で「暴行を振るった」と書いたわたしの記憶はとんでもない間違いで、施設に3年以上勤務した職員が入所者19名を殺害、26名に重軽傷を負わせた恐るべき殺傷(虐殺といってもいいような)事件であった。

 話は前後するが、久しぶりに足を運んだ映画館は平日の昼間にしては観客が多く(といっても数十名だが)、映画の内容的にやはり年配者が多かったが、席に座ってスクリーンを見上げると、暗い館内に浮き上がった大画面の映像がこちらの胸に強く迫ってきた。ちなみにこの映画館ではいよいよ12月より値上げに踏み切り、大人は通常料金が1900円になるという。その情報をネットで知ったときには、「これでまた映画から足が遠のくな」と思ったけれど、こうして大画面を見上げると「2000円でも悪くないな」という気がしてきた。

 さて、本編である。かつて小説家だった洋子(宮沢りえ)が、あることがきっかけで小説が書けなくなり、知的障がい者の施設に勤めはじめるところから物語はスタートする。施設は昼間でも薄暗い森のなかに建っている。洋子がおもに担当するのは言葉が話せず、目もよく見えない寝たきり(といってもベッドに拘束されている)の男性。部屋も施錠されており、どういった理由からだったかは忘れたが窓も覆われてしまっている。暗闇のなかで身動きもできずに生きているわけだ。

 施設の入所者はみな重度の知的障がい者のため、一定の時間以外は居室に入れられ、施錠されてしまう。映画ではそんな刑務所に近いイメージで描かれていたのだが、実際に働いている者から言わせてもらうと、こういった施設は全国的にももう、そう多くはないだろう。かつての施設は確かに町から離れた山のなかにポツンとあり、人目につかないように建てられていたようだが、最近は人目につくような場所にも建てられるようになっている気がする。そして、一定の時間以外は外に出てこれないように居室にカギをかけてしまうという対応だが、わたしの勤める施設でも夜間、施錠対応をすることはあるが、それは居室より出てくると他者に危害を及ぼす可能性がある人だけであり、映画のように刑務所をイメージさせるようなことはない(と思う)。まあ、こればかりはほかの施設をいろいろと見たわけではないのでなんとも言えないが、映画で描かれている施設ははやや誇張されたものかもしれない。

 その施設では洋子のほか2人の職員が、そこでの入所者の対応にやや不信感をもち、それでもなかば仕方がないとあきらめ気味になりながら働いている。陽子(二階堂ふみ)とさとくん(磯村勇人)である。この2人はまだ若く(20代?)、二階堂は真面目なクリスチャンの親に育てられ、でも父親は不倫などしてしまっており、磯村はろうあ者の彼女がいるという設定だ。さらに、宮沢は夫の昌平(オダギリジョー)との間に子供があったが、出産時の低酸素症が原因で寝たきりとなり、言葉も話せず、3歳の時に生き別れている。そして洋子も昌平も、そのことからまだ立ち直れていない。
                               つづく

※普段はまるで違うテーマでnoteを書いているので、わたしの記事を読んでくださっている方は今回、面食らわれたかもしれません。あしからず。

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