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正義の刃と、許容性のない世界

Yahooニュースとか、炎上を煽るエンタメ記事サイトのコメント欄に書き込む人ってさ、意外と表には出てこないけど、実はとても多いんじゃないかと思う。 「記事を読んで正義感に駆られる人」が特にね。

僕も数個は書いただろうし、(旧)Twitterで記事を引用してのコメントというのは、もっといっぱい書いたと記憶している。
記事を見た時のやるせなさや鬱々とした気持ち、少しでも誰かに響けば、とかを込めて。 書いたことで何かストレスが少しは解消されたかもしれない。

でもいつからかほとんどやらなくなった。
なぜか。

ネットの書き込みって、自分が正義側に立っているのが明確だ。
だから、極論すればなんとでも言えるんだよね。
正しいんだから諌めるために色々な言葉を使う。
全体の事情や関係者の事情を慮る必要がなく、いとも簡単に正論が言える。
これに歯止めが効かないことが理由の一つ。

そして、実際にやってた身からすると、正義感に駆られて何かを書くのって、ある意味快楽なんだと感じる。
だがその快感に溺れると、叩く対象を探し、怒ってばかりになると推測する。ヤフコメに居着いちゃう人なんかも居そうだと想像できる。
常にマイナスの感情に振り回されてる状態なんて健康的なはずがない。
これが理由の二つめ。

個人的に僕はこういう正義感からくる書き込みを、「正義の刃」と呼んでいる。

これが間違いなく致命傷になりうるのは何度も報道された通り。
正義感に駆られて書き込むような人が、直接その人を傷つけようとは思っておらず、最大でも諌めようぐらいであるはずだ。
なのに、誰かの命さえ奪う遠因になるのは、なんという皮肉だろうか。

そして、距離制限も罪悪感もないのが厄介なんだ。
誰かの致命傷になったとしても、実際に刃を振るった感覚がない。
そして、誰の言葉がどこまで飛んでいって、最終的に届いたがわからない。

原因は炎上を煽るエンタメニュース全般、報道にある気がする。
断罪系のまとめサイトやYoutubeもそうかな。
僕らは「感情を揺さぶらされ、怒らされている」んだ。
日常的に、意図的に。

そして誰もが簡単な正論を抱くと、時と場合による例外や、事情を加味した判断、そもそも全部を許して見守る、という考え方が無くなるのではないかという恐怖がある。

罪を許さず復帰を許さない。
あいつはなんで許されてるんだ。
あいつばっかりずるい。
これがいわゆる「大衆」というやつだね。
今のギスギスした社会は多少なりともこれが原因だろう。

対策は、SNSもニュースも閲覧数が命なので、見ないことしかない。
炎上に乗らないこと。意識して触れないこと。
スマートニュースすらエンタメ全開だもんよ。
ニュースの入手先ってNHKぐらいしかないかもね。

もっと有意義な時間の使い方があるに決まってる。
僕らはもっと楽しい方を向いて生きていける。

そもそも、生活の中で日々触れるものって、ともすれば未来への不安や痛ましいニュース、残虐な作品、怒りや悲しみ等々に埋められがち。
これらは意識してもなるべく減らすようにして....もっとポジティブなものばかりで満たしていってもいいんじゃないかな。
スマホゲームも最近はやってないな。

冗談のようだけど、そんなことより誰か推しとけ。
誰かを心の底から応援するってのは、ポジティブな考えにしかなりえない。
外にも出るし、至って健康的だよー。



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