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「楽しい=幸せ」ではないというお話。

フォレスト出版編集部の寺崎です。

今日は連載的に続いている「幸福否定論」の最終回です。

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今日も「しあわせ」「幸福」ということについて考えていきたいと思いますが、今日は「しあわせ」と「楽しい」の違いについて考えていきたい。

どうでしょうか。

「楽しいこと=しあわせ」ですか?

「楽しいこと」の定義が必要かもしれません。

そのあたりから始めてみましょう。以下、『幸せを拒む病』(笠原敏雄・著)から引用します。

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幸福をじゃまする「楽しさ」という名の悪魔


「幸せになりたい」という時の「幸福」とは、いったいどのような状態なのでしょうか。これを考える時、喜び(幸福感)と楽しさ(快楽)の区別は非常に重要です。
 このこと自体に注目する専門家はほとんどいませんが、実は、誰でも意識下ではこの区別をいつも明確に行なっています。手短に説明すれば、自分の成長につながることに伴う感情が喜びであり、その場だけの刹那的な快楽に伴う感情が楽しさです(ちなみに、英語では、喜びはhappiness に、楽しみはpleasure に当たります)。
 わかりやすい例をあげれば、自分が本当にしたいと思っていることをする時に出る感情が喜びであり、それから逃げて時間つぶしをする時の感情が楽しさです。喜びにつながる行動には抵抗がありますが、楽しいことには、原則として抵抗はありません。つまり、ほとんどは、喜びを避けて楽しみに逃げてしまうということです。それは、無意識的にではありますが、この区別が明確にできていなければ不可能なことです。
 このふたつの感情の違いについて、フランスの哲学者、アンリ・ベルクソンは、今から100年以上も昔の1911年に行なった講演の中で、次のように明快に説明しています。少々長いですが、重要な発言なので、注意して読んでください。

「自然の摂理は、私たちの目標が達成されたことを、はっきりとした目印を通じて私たちに教えてくれます。その目印は喜びです。私が言っているのは喜びであって、快感ではありません。快感は、生物がその生命を維持する目的で、自然の摂理によって編み出された工夫にすぎません。生命が向かうべき方向を知らせてくれる目印ではないのです。しかし、喜びは、生命が目指す目標を達成したこと、進歩を遂げたこと、障害を乗り越えたことを、いつも告げてくれます。大きな喜びは全て、成功したという実感を伴っています。
 そこで、このような目印に着目し、新たな眼で事実を見ていくと、喜びがあるところには、どこであれ、創造のあることがわかります。その創造が豊かであればあるほど、喜びも深いものになります。
〔中略〕
 しかしながら、時代を超えて残る業績をあげたと確信している人は、それも絶対的な確信を抱いている人は、他者からの賞賛に関心をもつこともなく、栄光以上のものを味わっているのです。それは、その人が創造者だからであり、そのことを承知しているからであり、その人が感ずる喜びは、神の喜びであるからです。
 ですから、あらゆる領域で、生命の目標が創造によって達成されるとするならば、芸術家や哲学者の目標とは違って、全ての人間が追究できる人生の目標は、創造にこそある──自己によって自己を、小さなものから大きなものを、何もないところから大切なものを引き出し、世界が内包する豊かさを、何であれ絶えず拡大しようとする努力を通じて、人格を成長させることにこそある──と考えざるをえないのではないでしょうか」(Bergson, 1920, pp. 29-31)

 ベルクソンは、喜び(幸福感)と楽しさ(快感)は、根本から異なる感情だと言っています。自分の目標を達成した時や何らかの創造をした時、人格の成長が実感された時などの、生命が向かうべき方向を知らせてくれる感情が喜びであるのに対して、一時の快感が楽しさだということです。
 ただし、ここでいうところの快感は、生命の維持に必要な行為に伴うもので、ゲームなどの際に味わう楽しさについて言っているわけではありません。ですから、単なる遊びは、さらに順位が低いことになります。
 したがって、自分の幸福を避けたり否定したりするということは、自分の能力の発揮や人格の成長を嫌うということであり、生命が向かう方向に逆行しているということになるでしょう。本当の幸福へ向かう道を、心の中の悪魔が明確に判断し、快楽や楽しみという形で阻止するのです。
 今から2000年も前に、イエス・キリストが、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(「マタイによる福音書、第7章13─14節)と明言しています。逃げ込みやすい快楽の門ではなく、抵抗の強い幸福の門に入ること。これは、キリスト教の信仰を超えた、人間全員に通じる真理でしょう。
―――――――――――――――ここまで引用

うーん、なんだか、かなり深い話になってきました。ただ、おぼろげながら「幸福」というものが視えてきたのではないでしょうか。そして、いよいよ「幸福否定」という心の原理の核心に迫ります。

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〝幸福否定〟という驚くべき心のしくみ


 ここまで、多くの人の場合、自分が本当にしたいことをするのが難しいことや、その結果として、幸福を遠ざける行動を起こしやすいことを教えてくれる実例をいくつか見てきました。ここで、これらの日常的な出来事から、どのようなことが言えるかを整理しておくと、次のようになります。

① 自分が幸福に向かう時に、あるいはすでに幸福が訪れている時に
② その喜びを意識にのぼらせまいとする強い力が働く
③ その時に、心身症と言われる疾患に見られる症状が一時的に出現する

 私は、心理療法ばかりを既に40年以上も続けて来たわけですが、今から30年以上前に、自分なりの経験を通じて得られた客観的な証拠に基づいて、従来のものとは正反対の原因を考えるようになりました。つまり「幸福の否定」こそが人間の心身に不調をもたらす原因だということです。ここに至るまでの経緯については、最後の第5章で詳述しますが、ここでは、必要最小限の説明をすることにします。
 人間は、育てられかたとは無関係に、なぜか生まれながらにして、私が幸福否定と呼ぶ、このうえなく強い意志を無意識的にもっています。この強さは、悪魔サタンが心の底に潜んでいるのではないかと思えるほど頑強きわまりないものです。詳しくは次章で説明しますが、その幸福否定の心の層の下に、私が「本心」と呼ぶ層があります。そこには、このうえなくすぐれた能力や、強い自信や、高潔な人格が隠されているように思います。「内心」と呼ぶ心の層は、その本心が意識に表出するのを阻止する役割をもっています。
 これは、精神分析を含め、従来の無意識理論とは根本から異なる考えかたです。もちろん、人間の心が本当にそのような構造になっているかどうかについては、客観的に検証できるわけではないので、実際のところはわかりません。ただ、そのように考えると、さまざまな観察事実が理解しやすくなるのは確かです。
 人間は、何らかの出来事や状況に直面した時、それが幸福感を呼び覚ますものかどうかを、つまりは、それが自分の進歩につながることかどうかを、心の奥底で一瞬のうちに正確に判断します。そして、それが幸福感を呼び覚ますものであれば、その瞬間にその幸福を避けようとする態勢に入ります。
 その時、「内心」は次のふたつの戦略を同時並行的に使います。
 ひとつは、いわば幸福に水を差す形で、心身の症状を瞬時に作りあげたり、行動の異常を起こしたりすることです。もうひとつは、幸福感を呼び覚ます出来事や状況の記憶を、意識から一瞬のうちに消し去るという操作をすることです。そうすると、意識の側から見れば、何が起こったのかわからないまま、自分が急にうつ状態になったり、頭痛や胃痛などの自覚的な身体症状が出たり、喘息発作やじんましんなどの他覚的な身体症状が出たり、場合によっては、リストカットなどの自傷行為を起こしたりするわけです。
 その結果、意識では、自分が幸福に向かっていた、あるいは幸福の状態にあるという事実が全くわからなくなります。そればかりか、実際には、不幸のどん底に陥ったような感じにすらなるのです。その時、もし多少の心理的余裕があれば、過去にさかのぼって、その〝原因〟となる「悪い出来事」を探し始めるでしょう。
 このような説明を聞くと、納得する人はほとんどいません。人間が、その程度のことでそこまでのことをするはずがないし、そんなことができるわけもない、という反論が返ってくるのがせいぜいのところでしょう。
 さらにこの考えかたをとると、問題になることがもうひとつあります。それは、ストレスを原因と考えた場合には、症状が出るしくみを考えずにすむのに対して、幸福否定という考えかたでは、自分の無意識が、一瞬のうちに心身を自在に操作して症状を作りあげることになるので、そのしくみについても考えなければならなくなることです。そのため、ストレス理論よりもはるかに考えにくく、したがって、非常に受け入れられにくい理論であるのはまちがいありません。
 比喩的に言えば、ストレスという説明には、竹に雪が降り積もるように、徐々にたわんだ竹がどこかの時点で突然のように折れるのと同じで、どの時点で症状が出るのかがはっきりしていないという問題があります。ところが、そこに、折れやすさに相当する個人差を示す〝ストレス脆弱性〟という、いかにももっともらしい概念をもち出せば、それだけで誰もが納得してしまうのです。
 それに対して、無意識の意志が症状を一瞬のうちに作り出すということになると、その説明は簡単にはできません。しかも、症状を、必要に応じて一瞬のうちに引っ込めるしくみも考えなければならないわけです。ここでは、ひとまず「心の力が心身を自在に操作する」とだけ言っておきます。
 内心が、このようなことまでして記憶や心身の操作をするとすれば、それはなぜなのでしょうか。それは、幸福感を呼び覚ます出来事や状況に直面した時、その記憶を消すとともに、症状を出したり引っ込めたりすることで、意識をコントロールしているということなのでしょう。少なくとも、そう考えると理解しやすいのは確かです。
 したがって、意識は完全に蚊帳(かや)の外に置かれていますから、本人がそのしくみに気づくことは、絶対と言ってよいほどありません。
―――――――――――――――ここまで引用

本章ぜんぶをここで紹介すると、かなりの長文になるので、途中少しだけ端折って、最後の結論にいきます。

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「いちばんの幸福」は常に隠される

 幸福否定と呼ぶ心の動きが、おそらく人間全員に、しかも生まれながらにあるらしいことを説明してきました。繰り返しになりますが、これは、自らの向上に結びつくはずの喜びを否定しようとする、このうえなく強い意志のことです。
 言うまでもないでしょうが、幸福否定といっても、すべての幸福感を否定するわけではありません。ふつうは自分にとって大きな幸福だけが内心によって否定されるのです。
 いわば2番目以下のうれしさは否定されないため、それぞれのうれしさがひとつずつ繰り上がり、本来は2番目に位置づけられるはずのうれしさが、意識の上では、本人にとって最大のうれしさのように感じられるわけです。
 ですから、ほとんどの人は、喜怒哀楽を比較的ふつうに示しますし、楽しみを否定することも、まずありません。そのため、おいしいものを食べたり、旅行に出かけたりする時には素直に喜びますし、生活に潤いを与えてくれる趣味も、いくつかはもっているはずです。しかし、否定された大きな幸福は、心の奥底に隠されたままで、意識の上に表出することはありません。よほどの努力をしない限り、真の幸福は、意識の表舞台に立てないまま生涯を終えることになるわけです。
 ただし、「幸福否定」という考えかたについてどれほど説明を尽くしたとしても、この考えかたが非常に受け入れられにくいものであることは、長年の経験からはっきりしています。これは、現在の心理学や精神病理学の常識に根本から反しており、そこに含まれる概念は、一般の心理療法やカウンセリングの理論には全く見られないものばかりです。その点からしても、非常に理解しにくいでしょうし、したがって理論としても簡単には受け入れられないはずです。
 しかしながら、受け入れられない理由は、それだけではありません。次章で詳しく説明しますが、これまでほとんど知られていなかった「抵抗」という心の動きが万人にあるために、この考えかたを理解するのが非常に難しくなるのです。あるいは、観念的には理解できても、感情的には受け入れにくいはずです。「そんなばかなことがあるはずはない」として真剣に受け止めず、後ほど説明する方法を実際に試してみようとしないまま全否定してしまうのです。
 このような事情から、多くの方にとって、本書を読み進むのには大変な苦痛を伴うでしょうし、最後まで読み終わったとしても、ほとんどの内容を忘れてしまい、読まなかったも同然の状態になってしまうかもしれません。
 常識に照らして考えれば、幸福否定という考えかたは、このうえなく奇妙な人間観であり、壮大な妄想体系のようにも感じられるでしょう。宗教的な物語として語られるのなら、まだ受け入れられるかもしれません。しかし、科学的な理論として語られるとなると、全く事情が違ってきます。この考えかたは、ほとんどの人に強い違和感や嫌悪感を引き起こすことになる可能性が高いわけです。
 とはいえ、何度も繰り返しますが、この幸福否定理論は、長年にわたる心理療法の中で日常的に観察されてきた、反応という客観的指標に基づいて構築されたものなので、人間である限り、おそらく民族や時代を超えて誰にでも当てはまるはずのものなのです。
 もし、幸福否定というしくみがすべての人間に内在しているとしたら、従来の人間観が根底からくつがえることを含めて、どれほど大変なことになるかを考えてみてください。そうすれば、簡単に無視できないものであることがわかるでしょう。そして、それを公平な立場から厳密に検証しようとするのが、科学的態度というものなのです。否定するのであれば、従来の理論によってではなく、事実によってでなければなりません。
 本書では、心の専門家が、これまでとりあげることのなかったこれらの問題を、限られた紙幅の中ではありますが、できる限り詳しく説明して行きたいと思います。
 次の第2章では、幸福否定のしくみを、第3章では、幸福否定という考えかたを使うと、さまざまな異常行動や心因性症状がどのように説明できるのかを見ていきます。
 第4章では、このうえなく頑強な幸福否定の意志を弱めるための、〝感情の演技〞という方法を説明します。これは、きわめて単純なものではありますが、非常に強力な方法で、私の心理療法の中心を占める治療法です。最後の第5章では、私がこの理論をどのような根拠に基づいて、どのような経緯で組み上げてきたかを手短に紹介したうえで、このような心のしくみが人間全体に潜在していることについて説明します。
―――――――――――――――ここまで引用

いかがでしたでしょうか。「幸福否定」という心の暗部。

恐ろしいですね。気になった方はぜひ本書『幸せを拒む病』をお読みいただければと思います。

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(フォレスト出版編集部・寺崎翼)

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