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ひとつの人生の中で何周生まれ変わっているのかを考えてみた

今朝、夢は何をみたのかを思い出そうとしながら、ふとこんなことを思った。人は生まれながらにして生まれ変われる、と私は思っているのだけれど、一回だけだろうか?と。

それで自分の人生をふと振り返ってみて、自分なりのルールでカウントしてみると6周目に入ったな、と感じた。

一体なんの根拠か、なんてきかないでほしい。笑
でも、たとえば3周目の自分は、正直今の自分からは信じられないと思うし、5周目の自分はよく頑張った、と思えるし、やっぱり違う人生のように感じる。それは生きる場所が変わったとか、ステージが変わったとかもあるのだけれど、一番は自分自身が違う。じゃあどう違うのだろうかと考えてみた。


自分の中の生まれ変わりカウント
・生まれてから中学生まで : 1周目
・高校生から20歳まで : 2周目
・20歳から25歳まで : 3周目
・25歳から31歳まで:4周目
・31歳から最近まで 5周目
・今年から : 6周目突入


なぜか?
自分でも整理してみたいので書いてみる。

1周目:

とても多感な子供だったと思う。スポーツ大好き、勉強も適当にできて、自分の好きなことを追求していた時期。友達とか周りのことは気にならず、ただただ自分の能力を磨くことに意識が向いていた。

人間との付き合いはあまり得意じゃなかったように思う。でも周りに恵まれて、大きな問題になることはほとんどなかった。むしろ迷惑かけていたのではないかとさえ思う。すぐに大人になりたかったし、背伸びばかりしていた。

手先で何かを作ることが大好きで、お菓子作り、ヘアアレンジ、絵を描くこととか、毎日やっていたように思う。「ぼくの地球をまもって」日渡早紀さんの漫画にもハマっていて、その絵を毎日描写していた。スポーツテスト1級とる、とか、部活でトップになりたいとか、夏はバレーボール部と陸上部と合唱部を掛け持ちしたり、エネルギーが有り余っていて、いつもその先にある超えた記録とか結果を求めて生きていたように思う。

家族や友達との関わりの記憶が少ないように思う。仲良くもしていたはずだけれど、そこでの楽しみ、というよりも自分がやりたいことに合う友達、をその都度探していたような気がする。だから正直言えば、今の自分から見ると寂しいような気もするし、孤独は正直いつも感じていたし、でも消化仕切れないから何か創造することにエネルギーを使っていたのかなとか思う。

自分のことが好きではなかったと思う。鏡を見ては、もっと可愛くなりたいと思っていたし、鼻は毎日摘んで高くしようとしていたし。笑 男の子には嫌われていたように感じるし(今思えば、男子を叩いたり、感じ悪い話し方していたりしていたのかも、と思うと当然なのかもだけど)体型はスリムだったけれど、体重ばかり気にしていて、ブルマのサイズはMよりもSを選びたかった。(身長が高いからMにしておけばいいことなんだけれど。というかブルマはなんだか懐かしいw)

この1周目の人生は、孤独ではあったし、周りに好かれる人間というのには疑問はあるけれど、でも自分の好きなものをありのまま、表現できていたことについてはとても素晴らしいと感じている。今の自分から見ると一番思い出したいエネルギーのようにも感じる。本能のまま、と言ってもいいかもしれない。


2周目:

高校生になって、バレーボール一筋の時間が始まった。中学時代ものめり込んではいたけれど、やはり全国目指すぞ、という仲間達の中でのプレーは、レベルが違う。1周目の反省もあってか?人間関係を気をつけるようになる。でも慣れていないため、下手。逆に大変な目に遭うことになっていく。

バレーボールを愛する心と技術はここで磨かれた。1年生の中でも特に厳しく指導され、死にそうだったけれど確かに技術が身についていたのを覚えてる。先輩方の中に混じっての試合は、一瞬一瞬が鮮明に記憶に残っていて、人がひとつになって生まれる奇跡のような感覚をここで初めて覚えた。サーブをするときに、幸せすぎて泣きそうになったこともある。楽しくて楽しくて仕方なかった。

自分の時代になって、流れが変わる。技術も安定してきて、ゲームのリーダーにもなった。でも同学年のチームメイトと色々な要因があってなのだけれど合わず、孤立する。試合で勝つためだけにいる存在になっていて、とても苦しかった。怪我をした時は、完全に孤立した。親友と思っていたチームメイトは陰で私を孤立させていたことがわかって人間不信に。眠れなくなった。

それでも私には救いがあった。一つ下のボーイフレンドがいて、とても愛し合っていた。彼もバレー部で、頑張っていたし、私も頑張ろうと思った。その時はどうしたらいいのかわからなくて、いつも泣いていた。居場所がなくて、そこに依存していたところもあったかもしれない。思春期の恋、といえばそうなのかもしれないけれど。

眠り好きの私が、眠れなくなった。でも保健室の先生に救われていた。早坂先生、だったと思う。ポジティブに話をしてくれて、唯一の学校での居場所にもなっていた。先生に勧められて、近所の心理カウンセラーを紹介された。いわゆる心療内科だった。そこに行って、私は自分を初めて客観的に見れた。そしてとても強く興味を持った。私も心理カウンセラーになりたい、と思ったほどに。
わかったことは、誰かが「がん細胞」だった、ということと、私は死にたい気持ちを初めて持ったけれど、まだ明るい気持ちも残っていた、ということだった。悲しいけれど、そこでチームメイトの親友が裏で色々していた事がその時明確にわかったのだけれども。

心がギリギリだった。イジメ、というものは「無視」が一番きついのかもしれないと思った。何かされるのももちろんキツイけれど。自分がそこに存在している意味がないようにさえ思えた。毎日の時間を数字でカウントした。1日の4分の1、我慢すればいい。そんな考え方だったと思う。一時的に睡眠導入剤を処方されたけれど、飲むとますます無気力になっていくのが感じられて怖くなった。感じなくなる、ということの方が怖かった。辛くても感じていたい、と思えたのはまだ救いだったのかもしれない。

そして、心理カウンセラーのお話で、どうして自分の居場所を変えてはいけないと思うのか、という話があった。人は、特に子供は、自分で自分の場所を決めることができないことが多い。学校とか、地域、とか家もそう。でもそこから出ることがなぜいけないのか?逃げることがなぜダメなのか?そんなことを問いかけられた気がした。今いる場所で頑張れない人はダメなんだ、と思い込まされているのではないか?とも気づいた。もちろん、健全な状態の中で、一つの場所でちゃんと頑張ることはとても大きな財産にもなることは確かだ。でも心も体も蝕まれてしまうような状態の中で耐えることは、本当に正しいのか?それは人それぞれの答えがあると思う。でも私は、2次元しか見えない虫から3次元の世界を知る人間と似たようなものをそこで感じた。だから私は出ることにした。

負けた気がしたし、恥ずかしい気持ちももちろんあった。大切な宝物を失ったような気がした。でもその大切な宝物さえも嫌いになるかもしれない状態の方が怖かった。一人になってもいい。でも自分の感じる気持ちは守りたい、そんな風に決めた。両親や先生はとても力になってくれた。そして中学生時代の友達は駆け寄ってくれた。1周目の人生でたいして周りにナイスにしていなかった自分なのにきてくれた。泣きそうになった。ものすごく反省した。もっと友達を、家族を、大事にしよう、と心から思った。


高校時代の最後は、居場所がないと感じながらも、旧友が心から大切な親友としてそばにいてくれて、友達の存在のありがたさを痛切に感じた。毎日そばにいてくれた。彼と喧嘩して泣いていた時も来てくれた。私はその時、彼女を一生大切にする、と決めた。(今も親友として仲良くしています)

そして、大切な宝物をなくしてしまった代わりに、私は何かを得たいと思った。もっと正直に言えばもっと強くなりたい、と心から思った。
そして、愛する彼とお別れをすることも決めて、アメリカに渡米するために準備が始まった。


続く:次回は3周目から。




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