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テレビ番組のリサーチャーが深掘り!”有名人の恩師”エピソードをまとめてみた

こんにちは!テレビ番組のリサーチ会社フォーミュレーションnote編集部の三宅です。

突然ですが、3月に、Rー1グランプリがありましたね!

今回のピン芸日本一決定戦『R-1グランプリ2022』では、お見送り芸人しんいちが20代目のチャンピオンとなりました!

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私が印象的だったのが、大会の後の優勝会見で、優勝したお見送り芸人しんいちさんがサンドウィッチマンさんに感謝の言葉を述べていたことです。

「サンドウィッチマンさんがいなかったら、今の自分はいない名付け親が伊達さん、ギターと歌を勧めてくれたのが富澤さんだった」

芸人さんの下積み時代は、なかなか経済的に厳しいと聞きます。
先輩たちの支えがあって、後輩たちが踏ん張って踏ん張って結果を出す。
その後輩が、先輩たちへ恩返しをする代わりに、次の世代を育てていくというのが芸人さんたちの世界なのかなと感じました。

ということで!今回は、”有名人の恩師”をリサーチしていきたいと思います!

フォーミュレーションのサーバーには、実は過去にテレビ局や制作会社などに提出した過去数十年の過去資料が大量に眠っております

その過去資料も活用しつつ、有名人の知られざる恩師とのエピソードを簡単にまとめてみたいと思います!

■出川哲郎さんが感謝している人!
⇒映画の道に進む決心をした出川さんを涙で後押しした尼さん

出川さんと言えば、今でこそお笑いタレントのイメージが強いですが、その昔、俳優を目指していた過去があり、実際に映画に出演したこともあるといいます。そんな出川さんの恩師は、高校卒業後の半年間、「月心寺(げっしんじ)」でお世話になった尼さんだそうです。


■高校卒業後の半年間、「月心寺」で、
尼さんと2人きりで修業生活を送ることになった出川さん

高校卒業後、父親が借金を抱えてしまったため進学を断念。京都の叔父に有名な料亭「吉兆」を紹介してもらった。「吉兆」は「半年間滋賀の月心寺(尼寺)で修行して耐えられたら受け入れる」と条件を出され、尼さんと2人きりの地獄の生活をした。尼寺では、朝から晩まで飯炊きから掃除まで全部やらされた。
■一度きりの人生だから自分が好きなことをやりたいなと思うようになった
尼寺で半年間修行して、料亭に行くかという話になったが出川さんは悩やんだ。その料亭へ入ってしまったら、もう人生後戻りはできない。もともと料理が好きなわけではなかったし、一度きりの人生だから自分が好きなことをやりたいなと思っていた。
■映画に関わる仕事に就きたいと決心し、
庵主様に土下座して決意を伝えたところ、泣きながら送り出してくれた

月に1回くらい1万円くらいのお小遣いを貰って外出を許され、太秦の映画村に行ったり、映画を観たりしていた。そういったことをやっている中で、役者になりたい、映画に関わる仕事に就きたいと決心し、庵主様に土下座して決意を伝えた。熱意を理解してくれた庵主様も泣きながら別れの杯をくみ交わしてくれた。
【出典】「プレイボーイ」2000.10.24/「関東弁護士会連合会」出川哲朗インタビュー記事 2014.06.03

出川さんが芸能界に進むきっかけになったお寺の尼さんとのエピソードでした!その後、出川さんは、演劇をやるために日本映画学校に入学して、その学校でウッチャンナンチャンと出会ったと言います。

■俳優の赤井英和さんの恩師!
高校時代、ボクシング部顧問兼担任の戸田先生

続いては、俳優でタレントの赤井英和さんです!最近は奥様のツイッターが人気でバラエティ番組にも出演が多いですね。
赤井さんと言えば、”浪速のロッキー”元プロボクサーで、若いころはやんちゃをしていたイメージがありますが、そんな赤井さんの恩師とはどんな方なのでしょうか。

■高校を辞めようとした赤井さんの家まで戸田先生が説得に来て、
「ボクシング続けたらええ。俺が面倒みるから」と言ってくれた!
高1の終わりには留年が決まった。年下と机を並べるのはイヤやから「高校やめる」と言いました。
すると、体育の担当でボクシング部の顧問だった戸田久主先生が家に説得に来てくれた。「甘えるな」と両親の前でぶん殴られましたが、「ボクシング続けたらええ。俺が面倒みるから」と言ってくださった。約束どおり、3年連続で担任をしてくれた。
のちに、映画「どついたるねん」ではレフェリー役をお願いして出演してもらいました。           【出典】サンケイスポーツ2018/09/1 

戸田先生に、映画でレフェリー役で出演してもらっていたとは、驚きです。フォーミュレーションの過去資料を見てみると、
戸田先生と赤井さんのエピソードがほかにも出てきました!


■戸田先生のおかけでインターハイで優勝できた
戸田先生には、他の人より気にかけてもらっていたせいか、学生時代、特に回数多く覚えてないくらいどつかれた。
しかし、逆恨みもなにもしていない。
戸田先生率いる浪速高校ボクシング部には、徳島で行われる伝統の夏合宿がある。それはかなり厳しいものだが、それゆえに絶対に強くなれるし、将来も「あの厳しい合宿に耐えられたんだから」という自信になる。
そして戸田先生のおかげで赤井は、インターハイのライトウェルター級で優勝という業績を残すことができたのだ。
                  【出典】自伝『英和辞典』1998/4

戸田先生はボクサーとしての赤井さんによっても、恩師でもあるというエピソードでした。

■女優の天海祐希さんに芸能の道へいざなった
中学の時の担任の先生と、
中学の時に勉強を教えてくれたお姉ちゃん

続いては、宝塚出身の女優の天海祐希さんです!
いつも凛とした立ち振る舞いで、人生に迷いなんてなさそうな天海祐希さんの恩師とはどんな方なのでしょうか。

探ってみると、こんなエピソードが過去資料から見つかりました!

■大の宝塚ファンだった中学の担任の先生に、宝塚を勧められた
中学の時、大の宝塚ファンだった担任の先生に、「あなた身長も高いし、宝塚に入ってみたら」と勧められた。もともと芝居に興味があり、「ウエストサイド・ストーリー」をテレビで観て、トニーが歌う「マリア」が歌いたかったが、「トニーは男だから無理か…あっ、宝塚があるじゃない」と思って、だんだん宝塚を意識しだした。     【出典】ソワレ 1993.01
■中学の時、勉強を教えてくれたおねえちゃんとオーディションの広告を見つけた。予選を通過するごとにご褒美をくれると約束してくれた
中学校の時、ちょこっと勉強を教えてもらったおねえちゃんがいて、そのおねえちゃんと何か新聞を読んでいて、オーディションの広告が載っていた。1次予選通ったら何を買ってやる、2次予選通ったら何、最後まで残ったら何なんて言われて、「よし、じゃあ賭けだよ」と言って出した。そうしたら最後までいってしまい、映画会社の本社に行って何かをやった。行ったらみんなきれいな子ばかりでびっくりして、「ああ、私の来るところじゃなかった」と思った。                【出典】uno! 1997.11

周囲の人のさりげない後押しが、天海祐希さんが宝塚や芸能界の道を目指すきっかけになったのですね。


■ソフトボールのエース、金メダリスト上野由岐子選手を支えたのは、須永博士さんの詩集

ソフトボール界のレジェンドで金メダリストの上野由紀子選手です。
実は私、中学高校とソフトボール部だったので、上野選手のファンです!
試合を見に行ったこともあります!

北京五輪ソフトボールで413球を投げ切り、鋼のメンタルを持っているように見える上野選手を支えた恩師を探していると、一冊の詩集について語っている記事が見つかりました!

■上野由岐子さんを支え続けてきた一冊の詩集と、心に残っている言葉
北京五輪ソフトボールで悲願の金メダルを獲得した大エース、上野由岐子。投げ抜いた「上野の413球」は日本中に感動を与えたが、そんな彼女の心をはぐくみ、支え続けてきた一冊の詩集がある。
小学3年のころ、入った店に須永博士(ひろし)の詩集『絶望より立つ』。
表紙の言葉が妙に印象的で、いつの間にか心から離れなくなっていた。

「人に負けてもいい しかしやるべきことをやらない自分の弱さには絶対負けたくない」
■思うような投球ができなかったとき、今でも、
「自分はやるべきことをやってきただろうか」と問いかけている

 中学生、高校生、社会人と成長する段階でいろいろな言葉に出会って感銘を受けた。だが、この言葉だけは格別で、いつも心の片隅に携えてきた。
今でも試合に負けたとき、思うような投球ができなかったとき、自分自身に問いかける。「自分はやるべきことをやってきただろうか」と。
■スポーツを頑張っている子どもたちに言いたいことは…
最後にスポーツを頑張っている子供たち皆に伝えたい。
「この詩でも言っているように、たとえ自分より強い相手と対戦することになっても決して逃げてはいけない。
試合までにやるべきことを一生懸命やったら、あとは結果を恐れずに思い切りぶつかればいいんだよ
          【出典】産経新聞社2008年12月8日/「絶望より立つ」

勝てない相手にも、挑まないといけないことってありますよね。
どうしようもない場面で打席が回ってきてしまったり…。笑
頑張りたいけど、足がすくんでしまうような場面でも、
「まずは、やるべきことをやること」と、背中を押してくれる言葉でした。

■体操界のレジェンド内村航平元選手を東京へ導いのは、同じ体操選手の塚原直也選手

2022年3月12日に引退した体操界のレジェンド、内村航平選手の恩師も調べてみました!恩師とは少し違いますが、体操を続けるきっかけになった人物が出てきました!


■中学生のころ、結果を出せていなかった内村選手が、それでも
東京へ行く決断をしたのは、同じ体操選手の塚原選手の存在があったから

内村は3歳のとき、体操をはじめた。内村にとって、父の運営する体操クラブは遊び場で、特にトランポリンがお気に入りだった。しかし、体の小さかった内村は小学1年のころ、跳び箱でもバク転でも同級生に後れをとっていた。中学に入っても九州で個人総合1位になることはなかった。それでも「東京に行く」と決断した裏には、同じ体操選手の塚原直也の存在があった。内村の両親は年に1~2回、研修のために朝日生命体操クラブ(現在の塚原体操センター)に通っていて、それに内村も同行していた。そこで塚原選手と出会ったのがきっかけだ。その練習している環境にあこがれ、上京を決意した。そのときの撮った二人のツーショット写真は、今でもクラブに飾ってある。               【出典】Weekly AERA 2008.9.1


■モデルで女優の菜々緒さんの人生を変えた人!
漫画家の東村アキコさん

最後にご紹介するのは、モデルで女優の菜々緒さんです!
菜々緒さんと言えば、きれいなストレートの黒髪がトレードマークですが、そのきっかけになった”人生を変えてくれた人”がいるそうです。


■役者としての第一歩を踏み出させてもらった作品の原作者で、
人生を大きく変えていただいた人物、東村アキコさん

私自身が始めてお芝居をさせていただく機会になったのが、東村アキコさんが原作のドラマ『主に泣いてます』。役者としての第一歩を踏み出させてもらったきっかけにもなりました。
また、それまで髪を染めていたけど黒髪になって、それがトレードマークになったりとか。東村アキコさんは、人生を本当に大きく変えていただいた人物と言っても過言ではない方です。
                【出典】ザ・テレビジョン 2021/12/15

東村アキコさんは、 『東京タラレバ娘』『海月姫』『ママはテンパリスト』など、数々の大ヒット漫画を執筆されている方です。
芸人さんのコントを作ったりもしているようです。

いかがでしたでしょうか!
著名人の恩師エピソードでした!
活躍される以前の話題を意識して探してみました。

楽しんでいただけましたら幸いです!
ではまた!

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