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航海日誌♯2「井伏鱒二『普門院さん』試論、あるいは縁の下の神様」後編

 改稿後に世に出たのが昭和六十年で、作家御年八十七歳ですから、もはや多少の混同や矛盾は許される境地ではあったでしょう。私もそう思いつつ、こんな飄々とした語りをいつか手に入れてみたい、しかしまたいっぽうで、仮にこんなふうに私が書いたところで、編集者に無惨に校正されるのがオチだろうなどと砂を噛むような妄想をしたものでありますが、この度、ちょっとした偶然から昭和二十四年の初出稿を目にする機会を得て、私にとっては腰の抜けるほどの驚愕の発見があったのでした。

 昭和二十四年版(以下「二十四年版」)の冒頭は、以下の通り。

去年の五月、青柳瑞穂君の奥さんが亡くなった。そのお墓を、青柳君はどこか東京近郊の禅寺の墓地に建てたいといふ意向であつた。子供たちといつしよに墓参に行く場合にも、あまり遠隔な地では差支へがあるし、さうかといつてすぐそこでは何か散歩のついでといふやうな具合ひで、お粗末だといふのである。(…)ちやうどそこへ、私たちの共通の友人の阿部君といふ若い作家が来合せて、禅宗の寺なら阿部君自身の叔父さんの寺を紹介してもいいと云つた。場所は、東京近郊、道順は埼玉県の大宮駅下車で、最近に大宮市内に編入された大成村といふところださうである。

二十四年版・引用F

 昭和二十四年、五十一歳の井伏鱒二は、冒頭で、この小説が書かれるそもそもの動機を明らかにする。語りは一人称。まずは井伏本人と見て差し支えないでしょう。青柳瑞穂は実在の人物で、小説というよりは随筆に近いテイを成している。
 青柳君も阿部君も帰って「私」がしばらく「その店」にぐずぐずしていると、隣席にいた見ず知らずの四十男が一座の話を聞いていたもので、「実に奇遇です。普門院の住職が、叔父さんに当たるんですか、全く奇遇です。お近づきに、握手しませう」といって、「私」の手を握ろうとしてくる。いやいや、私の叔父ではありませんよとなって、そうですか、それは失礼しました、実は普門院さんとはかつて鎌倉で……と四十男の問わず語りが始まるという按配(ちなみにこの辺りの消息については、『普門院さん』を書いた動機づけとして、シンガポール徴用時に、わたしの小父さんのことを書いてくれと戦友にいわれ、坊さんの伝記を預かった、と自選全集巻末の「覚え書」に井伏自身が記している)。
 語り部=小説家の「私」(以下「私A」)がひょんなことで見ず知らずの四十男から話を聞く羽目になり、今度はその四十男が語る「私」(以下「私B」)の物語を私Aが小説としてありのまま(のテイで)書き記すというわけですから、語りの重層性とでも呼びたくなるような創作上の試み、脂の乗った壮年の作家の野心が、仄見えるようでもある。で、物乞いに来た雲水を物盗りと勘違いした入れ子の私Bは、これを捕らえようと鎌倉の方々を捜索し、ついにそれらしき姿を見つけ、あとを尾ける。雲水はさるお屋敷の門をくぐる。それは「鎌倉では有名な、しかも人望のある勅選議員のお宅」である。盗んだ浮世絵でも雲水は議員に売りつけるつもりと邪推した私Bは、「(…)植え込みのなかに身をかくしました。それから四つ這ひになつて、庭木の下草を楯にして離屋の方に近づいて行き、そこの茂つた灌木の茂みのかげに身をひそめました」。
 ここへ来て、私(FouFouのことですよ)が思わず「あっ」と声を上げたのも、お察しいただけるのではないでしょうか。というのも、六十年版を先に読んで、高齢の作家の到達した語りの極地と私が一人勝手に得心した奥義の秘密が、ここで呆気なく氷解したのですから。
 つまり初出版においては、住職と隠居のやり取りとは、縁の下の窃視者によって目撃され、後日に証言された一部始終だったのです。語りの視点は、神なんかを持ち出すまでもなく、入れ子になった出来事の、もう一人の語り部(私B)の視点だったわけです。だから先の引用Eの混迷ぶりも、元々は意図された混迷ではないことがわかるのです。

「おそらく、先生の一生は幸福であったでしょう。しかし、小栗は今や、万人から瞻仰されるようになった」
 坊さんはそんなことも云いました。それに対して、御隠居が頷いているのが(私Bには)見えました。
 この坊さんは二十九のとき普門院の住職になったそうですが、小僧さん時代に小栗家一家の荒廃した墓を見て、何か儚さを感じたので、上野介の史実を研究しはじめた(ということをのちに私Bは知りました)。坊さん自身、そう云っていました。上野介を研究することは自分の宿命だと云いました。
 おそらくは上野介は、江戸幕臣として最も聡明な人の一人であったろうと(私Aは)思います。また悲惨な最期をとげた点では、幕臣のうち最も有数な人の一人であったでしょう。

二十四年版・引用E’

 作家は、五十一歳で書いた小品を、八十七歳になって手直しをするにあたって、青柳君と阿部君のこと、そして問わず語りの四十男のこともバッサリ切ってしまって、住職と隠居の対峙する場面のみを残した。さながら、さる建築物のぐるりに巡らされた足場のすべてを、きれいに取っ払った格好です。そうすることで、私Aと私Bの癒着は不可避となり、そもそもは物語の聞き役だったはずの作家たる語り手が、時間においても空間においても目撃者兼語り手として偏在することになり、縁の下から人を見上げて語り継ぐという、倒錯した神の視点が小説に付与されるに至る。こうした事態を井伏自身があらかじめ意図したかどうかは不明だし、そもそも晩年にきて小説の足場のすべてを取り払った意図そのものがなんだったかさえ、手持ちの資料では推し量りようもない。しかし老作家が大胆に大鉈を振るったことで、初稿の際には醸されなかった、なにか奇跡的なものが、この作品において立ち上がる結果となった。私はそう見るのです。こういう形で、構成過程の検証不能な建築物=小説が、結晶のように純化する可能性だってあるわけだ。そう思うと、なにやらまた胸うちに熱く込み上げてくるものがあるのです。

 人は時として罪深いことをする。はからずも、そうすることがある。八十も後半になんなんとする隠居は、七十年前の出来事を、いまだに忘れ得ずにいる。いきなりどこの馬の骨ともわからない住職に訪ねられ、七十年前のことを蒸し返されて糾弾される。そのときに描かれる、まずは隠居の態度ですね。無礼者! といつ往なして追い返すかとビクビクしながら読み進めていると、ついにその緊張が悪いほうへ転がる機は訪れない。訊かれたことに、正確に答え、感想を問われても率直に答える隠居。その立派な生き様に、まずは感銘を受ける。明治の人間の大きさを、私なんかもそこに見るわけです。そして住職もまた、語気を荒げて隠居を問い詰めながら、その人物に絆されていくのでもある。そして最後に二人は対座して食事をとる。

「和尚さん。わしは今日、つくづく無常ということを感じたよ。参禅すれば、わしのようなものでも悟れるなら、禅に参じたい。だが、これはわしの野望というものじゃろう。和尚さん、一つお願いだが、小栗氏追善のために、お経をあげてくださらんか」(…)
「先生、私が読経しますとき、先生は私のすぐ側に坐って下さい。先生は耳が遠いので、私のお経の声がきこえないでしょう。お経の声がきこえないのだと思うと、張合がありません」
「そう、馬の耳に念仏ということもある。わしは和尚さんに、くっついて坐らせてもらうよ。かねがねこの供養は、わしも気にかけておった。だが、思いというものは、いつかは届くものだね」

六十年版・引用G

 さて、改稿された作品には、最後の最後に、もっと大きいといえば大きい改変が一つ加えられている。住職と隠居の対決についての語りが一段落した後で、あるエピソードが付け加えられるのである。それは、小栗上野介が捕縛された直後に出来した傍系の逸話で、これを加えることは、いかにも井伏らしい人を食った演出といえるだろう。あえていえば、これは井伏の創作である可能性が高い。そうではあるが、これがあることで、ついに読了後は、堪えず感涙するという仕儀に至る。
 とまれ、初稿にはないこの結びがなんであるか、ひいては八十七歳の老作家の境地がいかばかりであったか、ここでつまびらかにするのは控えましょう。それは読んでのお楽しみということで。

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