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航海日誌♯2「井伏鱒二『普門院さん』試論、あるいは縁の下の神様」前編

 岩波新書から出ている大江健三郎の『あいまいな日本の私』を読んでおりましたところが、それに収録された井伏鱒二についての講演が出色でございまして。触発されて久しぶりに井伏鱒二の短編を二、三読むうちに、これが止まらなくなった。なるほど、大した作家だと改めて痛感させられた次第なんです。
 新潮文庫の『かきつばた・無心状』をまずは書棚から引っ張り出してきて読んだんですけど、我ながら驚いたことに、これが初読でなかった。いえ、読みながら、ずっと初読みのつもりでいて、いっかな既視感も既読感もありゃしないんですが、ページの至るところに線が引いてある。余白に私の蚯蚓文字でメモまで記してある。で、ははん、こういうところにかつてのオレは心打たれたか。まぁ、わからんでもないが、この作品の要諦はそこじゃないよ、なんて、若かりし自分と対話するなんてのもまた乙なもんでございます。それはともかく、どの短編も甲乙つけ難く佳いんだが、わけてもさきがけの『普門院さん』というのが、えらく私には気に入りましてね。歴史小説にはあまり食指の動かない私でも、こんなのはとてもいいなぁとなりまして、それにしてもネタ元はなんだろうとどうにも気になった。それで近所の図書館に走って、筑摩書房の『井伏鱒二全集第十三巻』を借り出してきたというわけ。
 筑摩の全集のほうの『普門院さん』の冒頭を見て、おや、となった。なんだか全然違うぞ。これ、オレが読んだ短編といっしょか、と。井伏鱒二がちょいちょい自作に手を入れる作家であるのは、私も知らぬではありません。殊に『山椒魚』の改稿なんてのは、文学史の一ゴシップとしてよく知られているものでしょう。だから、改稿自体は驚くに当たらないはずです。しかしそれにしても全然違う。調べてみると、新潮文庫のほうは、新潮社の『自選全集』を底本とし、筑摩の全集のほうは、文藝春秋新社の『試験監督』に収録されたものを底本とした、とある。前者が昭和六十年発行で、後者が昭和二十四年発行とあるから、先に私が文庫で読んだほうが改稿後の短編だったということになる。
 それでさっそく筑摩版を読んでみたわけなんですな。そうするとですねぇ、なんでしょう、文庫版で読んだときの、しみじみとした感動がどうにも湧いてこない。文庫版のバイアスはあるにせよ、やはり、筑摩版を先に読んでいたら自分はこうも感動しなかったと確信されるんです。ではどういうことなのかと、私なりにない頭を絞って考えてみた。
 ネタ元への興味もさることながら、文庫版(以下「六十年版」)を読んだ私がまず心動かされ、ぜひこの点を小説書きの一人としてまねびたいと思ったのは、その「語り」なんでございます。六十年版は次のように始まります。

大宮市の普門院の墓地には、江戸幕府の外国奉行小栗上野介の墓があります。上野介が上州の知行地権田村に隠退するため奥州街道を烏川方面に向け隊伍をつくって行進する途次、小栗家の菩提寺普門院に詣で、住持の僧に永代供養を頼んで置いたのでした。供養料は三百両包んだとも云い、三百五十両であったとも云われています。

六十年版・引用A


「語り」の魅力をそれこそ語るについては、まず誰が語り手なのかを明らかにする必要があるでしょう。冒頭だけを見れば、それは小説家(書き手)その人であることに疑いないようです。そしてそれは、いわゆる「全知視点」とか「神の視点」とか呼ばれるもので、この視点を採用すれば、第三者にはわかろうはずもない登場人物の内面を、作者=神はつまびらかにすることが許されるとする暗黙の了解が、小説という媒体にはある。ところがどうも読んでいて、全知視点という書きぶりといっては疑わしい箇所が随所に顔を覗かせるんですね。たとえば次のような箇所。

女中がまた玄関に出て行って、式台に手をつき応対の言葉を述べたような様子でした。坊さんは玄関にあがって、廊下づたいに女中に案内されて離屋の方に行きました。風呂敷包みは抱えるようにして持っていました。

六十年版・引用B

離屋の主客対面の光景は、戸外からまともに見ることが出来ました。室内は簡素な作りで、南向きですから明りを受けて見通しは上等でした。坊さんは部屋にはいったとき、異常に興奮しているように見えました。眉と目がせまって、口を固く閉じ、きっと御隠居を見つめました。

同上・引用C

 おや、となるのは、語り手が雲間から下界を覗いている感じではないからです。神の視点から場面を書くのであれば、「女中が(…)式台に手をつき応対の言葉を述べました」とするはずですし、「坊さんは(…)異常に興奮していました」とすれば足りる。ところが、「どうもそうらしい」という留保を、語り手は文末に添えずにはいられないふうなのです。極め付けは、「離屋の主客対面の光景は、戸外からまともに見ることが出来ました」というところで、これには映画的な効果があって、屋敷の中で対面する坊さんと隠居を追う移動カメラが「カメラ1」であるなら、屋敷を外からガラス戸越しに撮る「カメラ2」の存在を匂わすような書き方をしている。知命を越えた作家の、前衛的な試みの在処を見つけた思いがして、こちらとしても感慨深いわけです。で、どうやらカメラ2を主として、その後のやり取りが描写されることになる。神は雲間にいなければ、登場人物の間近に寄り添っているのでもないという感じを受ける。

坊さんは、老人に禅問答を教えに来たのではないかと思われました。坊さんの声は大きく、老人も耳が遠く声が高いので、室内の話し声が手にとるように聞こえました。

同上・引用D

 語り手はどうやら外にいるらしいのです。語り手をわざわざ窓一枚隔てた外に配置するとは、どういう意図なのか。神の視線にとって、窓ガラスとは越えられない障壁なんでしょうか。まさか。しかも語り手の視線は俯瞰ではなく、あくまで水平と感じられる。しかしそれにしても、ここでそうする効果は侮れないものです。というのも、語り手がもはや神でない以上、目の前に展開する成り行きを、読者に並座しながら見守る何者かに甘んじることになるからです。俯瞰するとは、端的にいえばエラそうな所作ですよね。こういう「エラそう」が、まったく鳴りをひそめた語りの実現こそ、この短編の佳さの秘密ではないかと、私は思い至ったのです。
 以下は対決が一段落して、手打ちのようになる場面。

「おそらく、先生の一生は幸福であったでしょう。しかし、小栗は今や、万人から瞻仰されるようになった」
 坊さんはそんなことも云いました。それに対して、御隠居が頷いているのが見えました。
 この坊さんは二十九のとき普門院の住職になったそうですが、小僧さん時代に小栗家一家の荒廃した墓を見て、何か儚さを感じたので、上野介の史実を研究しはじめたということです。坊さん自身、そう云っていました。上野介を研究することは自分の宿命だと云いました。
 おそらくは上野介は、江戸幕臣として最も聡明な人の一人であったろうと思います。また悲惨な最期をとげた点では、幕臣のうち最も有数な人の一人であったでしょう。

同上・引用E

 語りが珍しくエラそうでないものだから、なんだか温かいものが読者の胸にじんわりと沁みてくる、というのはやはりあるのだと思います。しかし引用Eの語り手は、事ここに至ってちょっと混迷しているとも思われるのです。「御隠居が頷いているのが見えました」といっている以上、そう語るのは、読者を窓の外に置いて彼と並座する書き手であり、語り部でしょう。ところが直後で普門院さんの来歴に触れる文章で、ことごとく文末が伝聞になっている(「…そうですが」「ということです」)。こう書くことの理由はなんなのか。「この坊さんは二十九のとき普門院の住職になったのですが、小僧さん時代に小栗家一家の荒廃した墓を見て、何か儚さを感じたので、上野介の史実を研究しはじめたのです」と書いたところで、なんの差し障りもないはずである。ところが井伏はそのようには書かなかった。
 その理由はなんなのか。

つづく

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