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第45回:超秘教入門7|Another Day イエスの受難を辿るイニシエートたち


イニシエーションの課程

今回も、前回の記事 第44回:超秘教入門6|Red 大師へ至る霊的なイニシエーションの概要の続きである。
前回の記事では、次のように締め括っている。

ハイラーキーの大師方は、イニシエーションについてこのような主旨の言葉を口にされている。
「イニシエーションを深く知りたければ、 ナザレのイエスの生涯を追ってみるとよい」

新約聖書を紐解き、イエスの生涯を追ってみれば、大まかに四つの部分に分けることができる。
それは「誕生、洗礼、変容、大いなる放棄」である。

ウィリアム・アドルフ・ブグロー
天使の歌(1881)

イエスの父母は、ヨセフとマリアである。
しかし、この夫婦が秘教の世界の行者であった
ことまでは現在の聖書に記述されてはいない。

二千年前のユダヤ教は、パリサイ派、サドカイ派、
エッセネ派の三つの宗派に分かれていた。

この三つの宗派のうち、パリサイ派とサドカイ派は
厳格な戒律主義の宗派として知られている。

エッセネ派は、これらの二つの宗派と比べると
とても小さな集団であり、戒律には重きを置かず、
「正義、博愛、瞑想、無私の奉仕」を通して
霊的進化を目指す行者の集団だった。

イエスの魂は霊的使命を果たすため、エッセネ派の
行者である男女の下に生まれてくることを選び、
聖誕時、東方から三人の博士が彼の下を訪れた。

実はこの三博士は人間ではなく、解脱を果たした
ハイラーキーの大師方だったと言われている。

その時、ヨセフは大師方から一巻の巻物を
渡されたが、その巻物にはイエスが十三歳を
迎えるまでの教育の仕方が綴られていたという。

それには、「イエスが十三歳を迎えた時、
エジプトのギザの大ピラミッドで霊的な修行を
しなくてはならない」と記されていた。

そして、彼は父母と共に、アトランティス文明の
霊性を伝承するエジプトの地へ向かうことになる。

このようなイエスの少年時代の話は、
現在の聖書には記述されておらず、それが
伝えられているのは秘教の世界だけである。

秘教では、人間の霊格が上がりイニシエーションを受けることができる段階に達した時、第一段階から第四段階までイエスの辿った「誕生、洗礼、変容、大いなる放棄」の課程を経て、各段階のイニシエートに昇格するという。

これを具体的に言えば、第一段階は誕生であり「肉体の制御」を目的とする。

第二段階は洗礼であり「アストラル体の制御」を目的とし、第三段階は変容であり「メンタル体の制御」を目的とすることになる。

そして、第四段階は大いなる放棄であり「肉体、アストラル体、メンタル体の三体を統御し魂の目的意識に従わせる」ことを目的とする。

恐らく、秘教について予備知識の無い方は、肉体はともかくアストラル体、メンタル体などと言われても、何を意味しているのか理解できないであろう。

秘教でいわれる「人間が受ける四つのイニシエーション」の話を進める前に、秘教を学ぶ者が必要最低限知っておかなければならない用語を解説しておこう。

秘教の基本用語を紐解く

まずその前に、以下に示す図は秘教の世界で頻繁に使われる基本用語なので、順を追って解説していこう。 (図1)

図1:人間の輪廻に関わる三次元から五次元までの
多次元構造と諸体、機能、性質

肉体・エーテル体の解説

肉体とは言うまでもなく、人間が地上世界で「活動するための体」である。

図1-1

秘教では、人間の肉体を「肉眼で見える体」と「肉眼で見えない体」の二つに分けて捉える。
上記の図1-1では、肉体の下に「エーテル体」と表記しているが、これは肉眼で見えない体のことを指している。

具体的に言えば、「肉体」とは肉眼で見える体であり、これは人間が物質界で呼吸、飲食、排泄、性交、労働、就寝などの活動をするための体をいう。

そして、「エーテル体」とは肉眼では見えない体であり、肉体と重なっている「気」でできた体のことをいい、目には見えないアストラル体、メンタル体、コーザル体等の「他の霊的な諸体と肉体を繋ぐパイプライン」として働いている体である。

また、エーテル体は、外部のエネルギーを吸収する働きもあり、例えば、シューマン共振の7.83Hzや、ソルフェジオ周波数の528Hzや741Hzなど、外部からもたらされる周波数を自身に取り入れることができる。

逆に言えば、外部からのマイナスのエネルギーである邪気や厄、けがれなどからの悪影響を受ける媒体として働くのもエーテル体である。

要するに、エーテル体とは、良くも悪くも「外部からの影響を受ける、気でできた体」ということになる。

秘教で「肉体」といった場合は、肉眼で見える肉体だけを指しているのではなく、肉眼では見えないエーテル体も含めた二つの意味を含め、肉体として人体を表現している。

これをまとめると、人間の肉体は「濃密な物質でできた体を肉体」といい、その肉体よりも「精妙な物質でできた体をエーテル体」ということができる。

即ち、肉体は物質体であり、エーテル体は半物質体である。

よって、厳密に言えば、気は精妙な半物質体なので、肉眼で見ようと思えば「光の明度」と「視点の角度」の二点を押さえれば見ることができ、また、肌で感じようと思えば、その体感を得ることもできる。
(興味のある方は、第13回:実践的霊学1 エーテル・気を見る第14回:実践的霊学2 エーテル・気を感じるを参照されたし)

アストラル体の解説

アストラル体とは、人間の肉眼では見えない「感じるための体」である。

図1-2

具体的に言えば、アストラル体は、人間がお茶などのコーヒーや紅茶などを飲んだり、ジュースのコーラやサイダーを飲んだときの「温かい、冷たい」または「甘い、苦い」などの舌で感じられる感覚を肉体に伝えるための、目には見えない霊的な体のことを指している。

この「アストラル体」は、人間の感覚を司る体であり、舌で感じられる感覚だけではなく、全身、即ち人間の五感(眼、耳、鼻、舌、身)で感じられる、痛い、痒い、くすぐったいなどの「全ての感覚を感受するための体」である。

仏教では、この五感(眼、耳、鼻、舌、身)で感じられる感覚の他に、もう一つの「意」という感覚を挙げている。

この「意」とは、人間の心、即ち、精神で感じられる感覚を指しているのである。
例えば、腰が痛いなどという痛みを表わす場合は体の痛みを表わすが、また失恋などの体験から「心が痛む」という言葉の表現も存在する。

なので、人間がアストラル体を通して感じるということは、肉体の五感だけではなく、「心の中で感じる快・不快も含めて感受する」ことを意味するのである。

これを仏教では、「眼、耳、鼻、舌、身、意」を六根ろっこんといい、人間が感じられるこの「六根の感覚をもたらすもの」を秘教ではアストラル体と呼んでいる。

メンタル体の解説

メンタル体とは、人間の肉眼では見えない「思考するための体」である。

図1-3

具体的に言えば、メンタル体には二つあり、「低級メンタル体」と、もう一つは「高級メンタル体」といい、この二つを合わせて秘教では「メンタル体」という。

厳密には、秘教では「低級メンタル体をメンタル体」といい、「高級メンタル体をコーザル体」といっている。
なので、秘教の世界では「低級なメンタル体と高級なコーザル体」を総称して「メンタル体」というのが一般的である。

低級メンタル体(メンタル体)は人間が「具体的なことを思考する場合に働く、目に見えない霊的な体」のことをいい、高級メンタル体(コーザル体)は、人間が「抽象的なことを思考する場合に働く、目に見えない霊的な体」のことをいうのである。

ここでいう低級メンタルの具体的とは「政治、経済、商売のような具体的な思考力」を意味しているのであり、高級メンタルの抽象的とは「形而上学的な思想、哲学、宗教のような抽象的な思考力」を意味している。

例えば、夜空を見て「星が美しい」といった場合は、惑星自体を指しているので具体的な思考になり、夜空を見て「宇宙は神だ」といった場合は、一つ一つの星々を指して言っているのではなく、宇宙全体を神秘的な生命として捉えた抽象的な思考と言える。

これを前者は低級メンタルとして捉え、後者は高級メンタルとして捉えた場合の見方である。

なお、上記の図1-3のように、メンタル体を「マナス」ということもあり、「低級マナスはメンタル体」のことであり、「高級マナスはコーザル体」のことを意味する。

神智学の本を開くと、「メンタル」と「マナス」という言葉が入り混じって出てくるので、あらかじめ秘教で使われる基本用語をしっかりと押さえておかなければ、混乱して分からなくなることが多い。

そのため、少々くどいようだが、ここではメンタル(マナス)について初学者が秘教を学ぶ上で混乱を来さないよう、敢えて説明を重ねることにした。

なお、肉体は言うまでもなく、地上世界で活動するための体であるが、他の見えない霊的な諸体も同じように、その諸体が活動する領域がある。

アストラル体はアストラル界、低級メンタル体はメンタル界、高級メンタル体のコーザル体はコーザル界で活動する。(図1-4)

図1-4

このように、各人間の諸体は存在する領域を異にしているが、この三つの物質界、アストラル界、メンタル界は、宇宙という同一空間内に重なるようにして存在しているのである。

イエスの生涯と秘教の関係

では、秘教の世界で使われる必要最低限の基本用語を覚えたので、前回の記事 第44回:超秘教入門6|Red 大師へ至る霊的なイニシエーションの概要について、より詳細にイニシエーションを考察していこう。

現在、霊的な意味において人類が受けることができるイニシエーションは、ソターパンナ、サカダーガミ、アナーガミ、アルハットの四つの段階のイニシエーションである。

図2

前回の記事でも述べたように、人間が霊的に目覚めるにはどうしても激しい痛みが伴うので、秘教の探求者がイニシエーションを深く理解するには、「イエスの生涯」に辿り着くことが必然となる。

そのため秘教を学ぶ者がキリスト教徒でなくとも、イエスという人がどのような人生を送ったのかを、少なくとも知っておかなければならない。
 (神智学協会の三大目的の一つに、「古代及び現代の宗教、哲学、科学の研究、及び同研究の重要性を実証する」とある。
このことからも、秘教を学ぶ者は各国の宗教宗派の枠を超え、「宗教の中に存在する本来の神聖」を深く学ぶ必要がある。)

但し、今日の新約聖書で伝えられている「イエス像」は後世のキリスト教会によって創作されたイエス像なので、実際のイエス自身の姿とはかけ離れていることは否めないであろう。

現に、私達人類がイエスという偉大な功績を残した聖者を調べるとなると、今述べたようにどうしても後世のキリスト教会によって記された福音書を主な資料として彼の生涯を辿らなければならない。

この福音書も一つではなく複数あり、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネといった四つの福音書は世界的に知られているものである。
けれど、福音書といってもこのように複数あるので、イエスについての記述が必ずしも同じであるとは限らない。

ここではその詳細は省いて、イエスのイニシエーションについての「誕生、洗礼、変容、大いなる放棄」の四つの課程に絞って簡略に話を進めていく。

その前に、何故、生前イエスは二千年前のユダヤ民族から「救世主」として求められたのであろうか。
それは当時のユダヤ民族が、強大なローマ帝国とユダヤ富裕階級からの二重の圧政を受け、彼らの生活が脅かされるほど困窮を極めていたからである。

そのため、彼らはユダヤの聖典、旧約聖書にある「救世主の出現の預言」に希望を託すしかなかった。
イザヤ書53章第3節には、このように記されている。

彼は侮られ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で苦しみを知っていた。
また、顔を背けるほど忌み嫌われ、事実、私たちも彼を尊ぼうとはしなかった。

イザヤ書 第53章 3節より引用
聖書(現代訳聖書刊行会)

しかし、当時のユダヤ民族は預言者イザヤのこの預言通り、救世主が現れてもその人物を民族を救う救世主の出現とは見なさなかった。

そのため、後世のユダヤ人は、神が民族を救うために地上に派遣した救世主を、自ら十字架にかけ葬ってしまったのだ。

秘教では、その「屠られた子羊」が辿った生涯の四つの主な出来事を「イニシエーション」といい、イニシエートは、以下の図3に示す過程を経て霊的進化に至っていく。

なお、イニシエーションを日本語に訳した場合、「秘伝」または「秘儀」と訳されていることも付記しておく。

図3:人間が辿るイニシエーションの段階

第一段階|誕生のイニシエーション

イエスの誕生に先立つ新約聖書の受胎告知の場面では、天使ガブリエルが若きマリアの前に現れ、このように告げる。

「精霊があなたの上に臨み、聖い(きよい)神様が、あなたのうちに命を想像されるのです。ですから、生れてくる子供は、聖い者で、神の子と呼ばれます。」

ルカによる福音書 第1章35節より引用
聖書(現代訳聖書刊行会)

そして、イエスは神の子として、旅先の馬小屋で産声を上げた。
なお、ナザレのイエスの「ナザレ」とはパレスチナの地名であり、ベツレヘムというのも同じく地名である。

この時代のユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあり、時の皇帝アウグストゥスは確実に支配民から税を徴収するため、人口調査を命じていた。
そのため、支配民であるイエスの父母ヨセフとマリアは、役所に住民登録をしにベツレヘムへ向かうことになったのである。

当時の人々は大変貧しく、住民登録のためにベツレヘムへ向かうにしても、何処にも泊まれる場所はなく野宿せざるを得なかった。
イエスはそのような人権を無視された時代にこの世に生を受けたのだった。

これがイエスの誕生であり、人が受ける第一段階のイニシエーションに当たる。
この第一段階のイニシエーションで求められる霊的な課題は、自己の肉体の制御である。

「肉体の制御」とは、人間が生きていくためのこの体に本来備わっている本能としての欲望を制御することを意味する。
俗的な言い方をすれば、暴飲暴食などの生活上の悪習慣の制御である。

これは自己の強い意志が肉体の欲望よりも勝り、それを習慣化し肉体を完全に支配できれば、自己の高級我(魂)は次の段階のイニシエーションを目指すことができるようになる。

秘教では、人間がこの第一段階のイニシエーションに辿り着くまでには、悠久の時を有するという。

第二段階|洗礼のイニシエーション

新約聖書には、イエスが聖ヨハネの下へ赴き、洗礼を請う場面がある。
しかし、ヨハネはイエスの求めに応じようとはしない。

「むしろ私が、神の御子であるあなたから悔い改めのバプテスマを受けたいくらいですのに、あなたが私の所へおいでになるとは、どういうわけですか。」
すると、イエスは答えて言われた。
「今は、このことについて議論することは、止めましょう。わたしは自分の罪のためにバプテスマを受けるのではなりません。人々の罪を負う者として受けるのです。ですから、わたしは今このような正しいことを何でも行おうと思っています。それこそ、わたしにふさわしいことです。」

マタイによる福音書 第3章14・15節より引用
聖書(現代訳聖書刊行会)

ヨハネはこの神の子の言葉に従い、イエスに洗礼を授ける。
イエスはヨルダン川の水から上がると天空が開け、神の霊が鳩のように彼の上に降った。
そして神のこのような声があたりに響き渡り、イエスに神の意志を正しく示す時を告げたのである。

「これは、私の愛する子である。わたしの心にかなった者である。」

マタイによる福音書 第3章17節より引用
聖書(現代訳聖書刊行会)

この福音書が示すイエスの洗礼のくだりを見ても分かるように、ユダヤ教にも日本の神道と同じように「みそぎ」という思想がある。

これと類似して、洗礼者ヨハネは救世主の出現に先立ちユダヤ民族に「罪を告白し、悔い改めよ」と言い、彼らはヨルダン川でヨハネからバプテスマ(洗礼)を受け、禊ぎをした。

洗礼、即ち禊ぎを受ける者は精神の浄化を果たし、救世主の出現に際してより霊的な感化を受け易くするために行われた儀式であることが推察される。

我が国の古神道でも、小石を用いた鎮魂法の効果を上げるために、音霊法おとたまほうという「音」に意識を向けることによって精神を浄化し、よりエネルギーを通りやすくする方法が用いられる。

これがイエスの洗礼であり、人が受ける第二段階のイニシエーションに当たる。
この第二段階のイニシエーションで求められる霊的な課題は、アストラル体の制御である。

アストラル体の制御とは、感情の生き物である人間の喜怒哀楽の激しい念を制御することが求められる。
特に、対人関係の中から生じる怒り、恨み、嫉妬、執着などの良からぬ思いは自他共にマイナスにしか働かないので、真に霊格の向上を目指す上では、これらの念の浄化は必須である。

即ち、アストラル体の制御とは、自身の感情の制御を意味する。

なお、秘教では、最も難しいと言われているのが、この第二段階のイニシエーションである。
それは第二段階のイニシエートが物質的なことと霊的なことの間に挟まれ、「一般社会での生活のバランスを取ることが難しい」と言われているからだ。

しかし、この第二段階のイニシエーションを受けることにより、イニシエートの霊的進化は急速に高まるという。

第三段階|変容のイニシエーション

イエスはガリラヤ地方の伝道を機に、様々な奇跡を行い人々を救ってきたが、ある時、彼は弟子達にこれから自身に降りかかる受難について告げる。

それは「イエスがエルサレムに入城すると、ユダヤの長老、祭司、学者達から酷い迫害を受け、最後は殺されてしまう」と言うものであった。
しかし、驚くことに、師は「その三日後に蘇る」という。

その話を聞いてから六日後、弟子達はイエスに連れられてタポル山に昇ることになるが、彼らはそこで「師が神の姿に変容する奇跡」を目の当たりにする。

イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネの三人を連れ、高い山に登って行かれた。
そして、彼らの目の前で御姿が変り御顔は太陽のように輝き、その服は光のように白くなった。

マタイによる福音書 第17章1・2節より引用
聖書(現代訳聖書刊行会)

この時、旧約聖書の預言者モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。

この二人の預言者の出現は、旧約の「律法と預言」を表わし、神の子イエスは新約を表わす。
即ち、神との契約は新たな時代を迎え、旧約から新約へと切り替わったことを意味するのである。

これがイエスの変容であり、人が受ける第三段階のイニシエーションに当たる。
この第三段階のイニシエーションで求められる霊的な課題は、メンタル体の制御である。

メンタル体の制御とは、自身の思考力を磨きより高めることを意味し、それを行っていくには自身の思考の整理をしていかなくてはならない。

思考の整理とは、自身の考えていることが自身にとって本当に有益に働いているのかを見分け、分別を付けることを意味する。

例えば、社会の中でありがちな「人はこうしなくてはならない」とか、「皆がそれをするから自分もする」などといったものは、本来の自身の思考から生まれたものではなく、他からいつの間にか刷り込まれた「実体のない社会概念」でしかない。

このような他から刷り込まれた意味の無い思考を整理し、自身にとって本当に必要な見方、考え方にまで思考を昇華させていくのがメンタル体の制御ということになる。

言い換えれば、真の意味での自己のアイデンティティの確立を果たす、それがメンタル体の制御である。

第四段階|大いなる放棄のイニシエーション

イエスの磔刑たっけい
新約聖書の中で最も衝撃的な一場面である。

神の子が何一つ罪を犯した訳でもないのに、人々から嘲りあざけ陵辱りょうじょくを受け、重い十字架を背負いゴルゴタの丘に向かっていく・・・。
その刑場に至るまでの道をキリスト教では「悲しみの道」、ラテン語でVia Dolorosa(ヴィア・ドロローサ)という。

総督の兵隊たちは、イエスを官邸に連れて行き、全部隊をイエスの周りに配置した。
そしてイエスの服を脱がせて、王の着用するような赤い外套を着せ、また、いばらで冠を編み、イエスの頭にかぶせ、右の手には王笏をまねた葦を持たせ、その前にひざまずいて見せ、からかって言った。「ユダヤ人の王様。万歳。」
それから、イエスにつばを掛け、葦を取り上げて、イエスの頭をたたいた。

マタイによる福音書 第27章27~30節より引用
聖書(現代訳聖書刊行会)

西洋の宗教画の中では、十字架上のイエスは掌に釘を打ち付けられた姿で描かれているが、当時のローマ帝国の磔刑は掌ではなく、手首の間に釘を打ち付けていたことが確認されている。
それは磔刑にあった者が体の重さから掌が裂け、受刑者が下に落ちてしまわないように考慮し、手首の間に釘を打ち付けたという。

イエスの磔刑は「午前九時頃に刑が執行され、彼は午後三時頃に声を上げ、天を仰ぎ息を引き取った」と記録にはある。

これがイエスの大いなる放棄であり、人が受ける第四段階のイニシエーションに当たる。
この第四段階のイニシエーションで求められる霊的な課題は、自己のコーザル体の制御である。

コーザル体の制御とは、メンタル体の具体的な思考とは違い、抽象的なことに対する理解と実践が求められる。

「具体的な思考」とは、日常生活の中で合理的に物事を捉え、それを実生活の中で活かしていく思考力を意味する。

それに対して「抽象的な思考」とは、日常生活の中で役に立つとは思えない「非合理的」な捉え方を実生活の中に取り入れ、それを活かしていくことを意味している。

例えば、前者は欧米的な合理性に基づく思考であるが、後者は東洋的な霊性に基づく、一見合理性に反するかのような思考を意味する。

そして、後者は自己が今生の人生において構築した「私は」というアイデンティティーを自ら放棄していくことである。

また霊的に深い意味においては、今生に至るまでに悠久の輪廻を重ね構築された自己のアイデンティティーの放棄、即ち「霊的な進化への脱皮」を意味している。

欧米的な合理性を求める思考では、「私がこれをすれば得をするが、それをすれば損をする。だから私はしない。」という即物的な捉え方をし、個人の「個」を重んじるため、自身にとって有益な人生を謳歌することを目的とする。

それとは対照的に、東洋的な思考では、「私はこれをすれば損をするが、けれど他の人々にとっては得になる。だから私はそれをしよう。」という「個」ではなく全体的な集団の「集」として奉仕を重んじ、それを実行することによって有益な社会創りをし、皆でそれを謳歌していこうとする。

ここで例えとして比較した「個」と「集」を重んじる思考の違いは、一見どちらも「抽象的な思考」ではなく「具体的な思考」の違いについて述べているように感じられることであろう。

しかし、欧米的である合理的な思考では、個人の幸せを重視することが自身にとっての直接的な利益に繋がり、理に適っているので具体的な思考となる。
この欧米的である合理的な思考の観点に立てば、東洋的な思考は物質的な利益には繋がらず、自身にとっては損を招くことになり合理的な思考とは見なせない。

そのため、東洋的な直接「個の利益」には繋がらないが「集にとって合理的」な捉え方は、欧米的な捉え方では「具体的ではなく抽象的な思考」という解釈になる。

要するに、「物質的な利益に繋がるものが具体的な思考」であり、「霊的な利益に繋がるものが、抽象的ではあるが具体的な思考」である。

それは前者が「実体が伴う目に見える物質的な利益」であるのに対し、後者は「実体はなく目には見えないが霊的な利益」という違いとなる。

ここで誤解が無いように補足しておくが、「物質的な利益」とはなにも金銭や名声に繋がることだけではなく、「自身を守るために保身に走り、真実を黙殺する」ような場合も含まれる。

即ち「義を見てせざるは勇無きなり」である。

霊的な利益とは、物質的な利益とは違って目には見えないが、徳を積むと言う意味から自身のカルマの清算にも繋がることを意味する。

要するに、具体的な思考は「個人の物質的な得」、東洋的な思考は「社会に有益性をもたらす霊的な徳」を重んじるという違いである。

これを秘教の基本用語に置き換えれば、「低級メンタル」と「高級メンタル(コーザル体)」といわれる思考力の差であり、性質の違いとなる。

マタイによる福音書 第17章1・2節によれば、イエスは高度な霊的能力から、自身に降りかかる受難を既に予知しており、弟子達に告げている。

もし、彼が「メンタル的な思考」に基づく行動をすれば、磔刑の憂き目には遭わずとも済んだはずである。
しかし、イエスは受難を避けずに受け入れ、残酷ともいえる磔刑に臨んだその姿勢は、「コーザル的な思考」に基づいた行動であると言えるだろう。

即ち、霊的な意味において、神の子は「愛の伝道者」として自らの命を犠牲にすることにより、「霊的な進化の道を歩む道標」を後世の人々に示したのである。

以上、簡略ではあるが、人間が受けるイニシエーションの過程と段階を解説してきた。
実際は各段階のイニシエーションに求められる霊的な課題の内容は、ここで述べてきたものよりも遙かに複雑で困難を極めるものである。

しかし、秘教の教えを日常生活の中で具体的な例を用いて解説を加えていくと、どうしても文章の表現自体が限定されたものになってしまうので、要は、各段階のイニシエーションを現実に即し考察していけば、このような解釈になる。

なお、超秘教入門を書いている筆者の解説が足りないのは、まだ私が未進化の霊的な学徒であり、秘教を志す初学者の学徒となんら変わることがないのだから。

ウィリアム・アドルフ・ブグロー
物語の本(1877)

十字架の悲劇から二千年の時が流れてもなお、
かのイエスの教えは今も生き続けている。

その証拠に、新約聖書は現在に至るまで
1200以上の言語に翻訳され、キリスト教徒の人口は
全世界で二十億人にも迫ろうとしている。

しかし現代のキリスト教徒達は、愛の教えを
受け継いだ者として、どこまで実生活の中で
師の教えを実践できているのであろうか。

キリスト教圏であるヨーロッパの歴史を
振り返ってみても、絶えることのない戦乱の嵐が
吹き荒れ、目を覆うような残忍冷酷を極めた
魔女狩りが数百年も続いた。

現代では、第二次大戦後、大国のアメリカと
ソビエトの間に冷戦が起こり、いつ世界は
核の炎に包まれてもおかしくはない状況だった。

どちらの国も共にキリスト教国であり、
アメリカはプロテスタント、
ソビエトはロシア正教の国である。
即ち、両国ともイエスの愛の教えを
受け継いだはずの国がこの有様なのだ。

それはキリスト教徒達が、教会の長い歴史の中で
教条主義に陥ってしまったことから、
イエスの教えは形骸化してしまったと言える。

教条主義とは、乱暴な言い方をすれば
宗教組織を運営していく上での理屈であって、
理屈で宗教を展開していけば、
自ずと形だけの教えを説いていくことになる。

それではただの戒律主義であって、師の教えを
真に理解し実践していくことには繋がらない。

それ故に、イエスは生前このような
主旨の言葉を後世に残している。

「幼子のように素直に神の国を受け入れる者で
なければ、神の国には入ることができない。」

推薦動画1:Dream Theater - Another Day [OFFICIAL VIDEO]

彼らの奏でるバラード「Another Day」は、
まさに名曲である。この曲はバンドの
ギタリスト、ジョン・ペトルーシの
実際の体験を元にして作られた曲で、
彼の父が病気で倒れ、あと幾許も無い
といった時の家族の心情を歌ったものだ。

「まだ逝かないで・・・。」といった家族の
切実な思いが、楽曲のメロディを通して
異国人の私達にも、その想いが伝わってくる
美しいバラードである。

今回の記事の中で取り上げたイエスの側に
いた人達も、同じような切実な思いで、
彼の死に向かい合っていたのではないだろうか。

家族の思いは、いつの時代でも身内に対しては
安寧を願うものであり、もし、命に関わるような
ことがあれば、「逝かないで・・・。」と
切に願うのが人の情である。

しかし、秘教の世界では、人の死に関わるような
ことでも、「生に執着してはいけない」という。

何故なら、人は輪廻を繰り返す存在であり、
「その人物としての生は、輪廻の一過程の
経験に過ぎない」からだ。

このような捉え方を「メンタル的」といい、
思考的な捉え方としている。

その逆は「アストラル的」といい、起こった
出来事に対して過度に感傷的になり過ぎ、
必要以上に心を囚われてしまうことをいう。

しかし、私達は凡夫なので、高度な秘教の教えに
触れても、もし家族に何かがあれば動揺し、
どうしても心をアストラルに囚われてしまう。

今回のこの曲を紹介したのは、イエスの側にいた
人達が、彼のイニシエーションを目の当たりに
した時に、この「Another Day」と同じ心情
だったのでは・・・という人としての情、
アストラルな想いから紹介した次第である。

推薦動画2:Dream Theater Images and Words

Dream Theaterの2ndアルバム、
「Images and Words」

このアルバムが日本でリリースされたのは、
1992年の秋頃だった。
日本が世界に誇るハードロック・ヘヴィメタル
音楽専門月刊誌「BURRN!」誌上で、海外の
ロックバンドがリリースする最新アルバムの
評価で90点以上の高得点がついたアルバムが、
このDream TheaterのImages and Wordsである。
(私の記憶が確かなら、95点だったはずである。)

90年代前半の海外のロックシーンでは、
プログレッシブ・ロックが死滅寸前の
状態だったが、そんな中、アメリカから
プログレ復興の兆しが見えだしたのが、
このDream Theaterあたりからだった。

私は当時、18歳のロック小僧で、珍しく高評価の
プログレバンドが海外から出てきたので、
横浜に行ってポルタ地下街の新星堂で
このアルバムを購入したのを覚えている。

そんなセンチな話は良いとして、
彼らのアルバムImages and Wordsは、
音はヘヴィだけれど、とてもメロディアスな楽曲で
構成された「全曲捨て曲無しの名盤中の名盤」
なので、是非、フルにアルバムを聴いてみて。

Dream Theaterは超ド級のバカテクバンドなので、
聴くだけで音の「神」に触れることができるから。

なお、このアルバムでは、
二つの美しいバラードが収録されており、
一つは先に紹介した
Another Day
もう一つは
Wait for Sleep という曲である。

前者はシングルカットされた知名度が高い名曲だが
後者はこのバンドの「隠れた名曲」と言える。

このWait for Sleep は、アルバムの最後を飾る
Learning to Liveと共に合わせて、ノンストップで
聴くと、曲の構成の素晴らしさは圧巻っ!