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第47回:超秘教入門9|Loving you Sunday Morning モナド & パーソナリティー


ねこには見えているのか・・・。

「人は、死ねばそれで終わり・・・。」
世の中、そのように思っている方がほとんどであろう。

けれど、私のように生まれた時から霊的体質を抱え、その責め苦から逃れるべく神智学などの霊学に辿り着いた者は、人の生は一代限りではないことを身をもって知っている。

もし、人々が皆、高度な霊能力を持っていたなら、人の生が一代限りではないことを誰もが当たり前のこととして理解しているのだろうが、その霊能力が開花している人は、この世の中には稀にしかいない。

その霊能力が開けている稀な人の大半が、程度の低い霊能力しか持っていないので、俗に言う未成仏の低級霊しか認識できずにいる。

例えば、「辛い苦しい、供養してくれ・・・。」という未成仏霊は、実は死んだ人の霊の本体ではなく、「脱皮した抜け殻」いわば「影」にしか過ぎないのだ。

それを神智学的に、ごく簡単に解説してみよう。

どのような形にせよ、人が死ねば、その人は四次元のアストラル界という世界に移行していく。
このアストラル界とは、古くから何処どこの国でも「あの世」と言われてきた世界である。

そして、アストラル界では地上界の延長としての生活が待っており、その人の生前の執着心の強さ如何いかんによって、アストラル界での滞在期間が異なる。

例えば、若くして亡くなり、地上界に残してきた妻子のことが心配であったり、また、生前努力の末に富と地位を築き、その栄光に囚われていた場合などは、それが物質界への強い執着心となる。

その執着心が徐々に薄れ、自身の思いの念から解放されるまでは、アストラル界に留まることになる。

そして、自身の執着心から解放されたときに、アストラル界の住人は自身のアストラル体を脱ぎ捨てる。

このアストラル界の住人が脱ぎ捨てた抜け殻を、神智学では「アストラルかく」といい、これが「人の第二の死」に当たる。

現在、霊能者が見ている未成仏霊の実体は、この「アストラル殻」といわれるアストラル界の住人が脱ぎ捨てた抜け殻ということになる。
なので、先程「影」と言ったのである。

余談になるが、かつて私が若い頃、チャネリングをしていた人物と交流していたことがある。
その時聞いた話であるが、どうも猫は霊能者と同じように霊が見えるそうだ。

確かに猫と戯れていると、不思議な行動を取ることがままある。
例えば、私が前にいるのに、猫は私ではなくその後ろを見ていたりすることがあった。

なるほど、ねこには、不覚にも私が知らず知らずのうちに拾ってきた未成仏霊が見えていたのかもしれない・・・。

左脳編曲した現代人は、
「目に見えないものは存在しない」という。
けれど、私達の眼前には、微生物、酸素、
電波などが厳然と存在している。

これらのものは現代では科学的に証明されて
いるため、目には見えないものであっても
人々はそれを自然に受け入れている。

もし、私達が江戸の昔に生まれていたならば、
これらの存在を他の人から聞かされたとしても、
やはり「目には見えない」ために信じることは
できなかったであろう。
これと同じことが、今は信じられてはいない
「霊」という存在にも言えるのではないか。

いずれ、霊の存在が科学的に証明されれば、
人は自然と霊を受け入れることに
なるのかもしれない。

実は、19世紀にイギリスの科学者で世界的に
知られていたウイリアム・クルックス博士が、
ある女性の幽霊の協力を得て、生前の彼女の
肉体を再現する実験に成功したという事例がある。
ただし、地上界では彼女の物質化した体を
長時間保つことはできない。

この幽霊の女性はケ-ティ・キングと名乗ったが、
本名はアニー・オーエン・モーガンといい、
22~23歳頃に世を去った美しい女性である。

クルックス博士は、幽霊の物質化現象の証明として
彼女の写真を44枚残しているが、現在の人類は
この偉大な科学の実験成果を知らずにいる。

なお、これは心霊主義の中で行われた実験では
あるが、クルックス博士はまた神智学協会の
関係者であったことでも知られている。

記憶するエネルギー存在

この話を聞いて、「なんだ、未成仏霊じゃなくて、ただの抜け殻なのか。」と安易に考えてはいけない。

脱ぎ捨てられた抜け殻でも、その人物の生前の記憶の塊、即ちデータの集積として、そのデータは今なお残っているのである。

なので、霊媒(霊能者)が、ある人物の霊と接触している場合は、亡くなった人物の霊と対話しているのではなく、「亡くなった人物の記憶の塊と話している」ことになる。

例えば、心霊主義の降霊会などでは、部屋を暗くして亡くなった人物の霊を霊媒を通して降ろしたりすると、生前その人物しか知らなかったことを霊が口にするので、降霊会に参加した人々は、その霊がその人物そのものであると誤認してしまう。

けれど、これはその人の霊ではなく、その人の影としてのデータなので、死しても尚、霊的なソフトウェアとして生前の記憶を保持しているのである。
これでは霊媒といわれる人々が、その人物の霊と勘違いしても別におかしなことではない。

ただ、その霊は、影として過去の事は記憶しているが、その霊に話しかけてもそれは影に過ぎないので、思考する能力は持ち合わせておらず、話を進めていくうちに、その返答には曖昧なところが出てきてしまうのが特徴といえる。

では、アストラル殻を脱ぎ捨てた霊の本体は何処に存在するのかというと、執着心を捨てたためにその霊は軽くなり、既により高い上の霊的な世界へと移行している。

神智学では、アストラル界よりも上の五次元に存在する世界をメンタル界といい、その世界にはデヴァチャンといわれる至福の世界が存在する。

このデヴァチャンとは、キリスト教や仏教でいわれている天国や極楽のことを指している。

そこにアストラル殻を脱ぎ捨てた霊の本体は居住し、その至福の世界で次の輪廻に備え英気を養っているのである。

デヴァチャンでの滞在期間は人によっても異なるが、H・P・ブラヴァツキーの著書「神智学の鍵」では、平均的には1000年から1500年と記されている。

なお、H・P・ブラヴァツキーがいた初期の神智学では、現在使われているアストラル界のことを「カーマー・ローカ」、またアストラル体のことを「カーマー・ルーパ」とサンスクリット語で表現している。

西洋史上最大のオカルティスト、
H・P・ブラヴァツキーの著書に
「神智学の鍵」がある。

これは神智学の入門書的な本であるが、
この本の140頁には次のようなQ&A方式で
話が進められていく。
それを自己流に要約すると、以下のようになる。

Q. 霊的にはどうしたら生者と死者は交信できるの?

A. それは死者がデヴァチャン(天国)に入る前の
死後2~3日までなら可能である。
けれど、死者が地上界に戻っても、生者との
交信から良い情報を得た試しが殆ど無い。
(つまり、生者が死者に「○○逝かないでっ!」
と嘆き悲しみ引き留めるからである。)

また例外として、瀕死の人がこの世に
心残りがあり、「その思いを遂げたい」と
強く願った時は交信が可能である。

神智学の鍵では、生者と死者の交信について
このように記述されている。

霊は周波数の世界

人は死ねば、アストラル界に移行していく。
その世界では、執着心の如何によって人の滞在期間は異なる。

執着心の如何とは、人の思いの強弱のことをいうので、アストラル界は必然的に思いの世界、即ち想念の世界ということになる。

想念は人によって様々なので、その世界の数は無限に存在することになる。

なので、霊能者が「私はあの世を見ることができる」と言っても、今述べたように「あの世は想念の世界で無限に存在する」から、他の霊能者が見たあの世とは異なってくる。
(厳密には霊能者と霊媒は異なる存在であるが、それを解説すると長文になってしまうので、ここからは霊能者という言葉を用いて記述していくことにする。)

これを一般人は、霊能者によってあの世の消息の話が違うので、彼らが「悪戯で嘘をついている」または「精神疾患から幻覚や幻聴に苛まれているのではないか」と捉える傾向がある。

中には霊能者ではなく、嘘つきや精神疾患者もいるのかもしれないが、私のような霊的体質を抱えているような者は、彼らが「霊的な周波数の違いにより、彼らが見ているアストラル界がそれぞれ異なるものである」と理解している。

これは私が二十一歳の頃の話であるが、当時、埼玉県の春日部市在住のプロの霊能者の女性と知人として交流していたことがある。

この方は一時テレビ出演していたこともある女性霊能者で、私は彼女からこのような話を聞いたのを覚えている。
彼女はテレビの心霊特集に出ている他のプロの霊能者の霊視を見ていて、「この霊能者には、私がテレビ画面を通して見ているこの霊が見えていない。」と言った。

そういうことが霊能の世界にはままあるようで、思い返せば私が中学生の頃、霊能系の二人の男子が「深夜になるとある池に霊が出る」という話でめていた。
それは霊が池の中央に出るか、端に出るかという口論であった。
(霊的な周波数に関心がある方は、過去の記事:第4回:中学生編|月刊ムーを奨めてくる人々を参照されたし)

なので、神智学では無限に存在する幻影であるアストラル界を素通りし、敢えて意識を向けない、という傾向がある。

その理由の一つは、あの世の消息をいくら調べてみても、そこは人の思いの世界なので無限に等しく切りが無いということと、もう一つは、地上界に留まっている未成仏霊はその人の霊の本体ではなく、その人の生前の記憶(データ)としてのただの脱け殻に過ぎないので、極論、接触する意味が無いと見なすのである。

特に、脱ぎ捨てられたアストラル殻は、死んだ人の想念のいんの面そのものなので、ストレスやフラストレーションなどから来る「辛い、苦しい、きつい」または「俺を(私を)分かってくれっ!!」などの負の想念の塊であるから、それらのものと接触しても「ただ邪気を受けるだけで得るものはない」と言えるからだ。

いわばアストラル界とは「人の想念の世界」であるので、一言で言えば「各周波数で成り立っている世界」である。

ただ問題なのが、今の時代は資本主義が激化したストレス社会なので、その中で暮らしている霊能者の意識レベルも物質性に縛られており、決して高度なものではない。
そのため、必然的に彼らが接触する霊は、未成仏霊という脱ぎ捨てられたアストラル殻ということになる。

これが神智学でいわれている、霊能の世界の基本的な仕組みである。

私の経験談から

なお、余談になるが、私はこの女性霊能者からこのような警告を受けたことがある。
それは「あなたは魔が差しやすい人だから、気を付けなさい。」というものだった。

これは別に、私の心が弱く悪事に手を染める、という意味ではなく、彼女の「魔が差す」という言葉の意味は、「心根の優しい人には魔が忍び寄ってくるので、他人から利用されないようにしなさい。」という警告であった。

ただ当時の私はまだ若く、他を思いやる程の人格形成もできていなかったので、そのように言われてもピンとは来なかった。

というのも、物騒な話になるが、その頃の私は日本刀を持った男が押し入ってくるような生活環境下にいたので、内心尖っており心穏やかではなかったからだ。
なので、「心根が優しい・・・」云々と言われても、腑に落ちるものではなかったのである。

なお、ここまでは神智学の理論に基づき、「死後の人間が辿る霊界への消息について」簡潔に記してみた。

それを詳細に記すべく、試みに第四代神智学協会会長ジナラジャダーサ著の「入門神智学」第五章56~57頁に記載されている二つの図を合わせたものが、以下の図1となる。

各霊的な諸体は七階層に分かれているが、ここが第一界層、第二界層などという形で各界層ごとに明確に分かれているわけではない。

いわば海水と淡水とが混ざり合う水域のように、曖昧な形で各界層が重なり合っているのが「霊的な境域」と言えるであろう。

図1:死後の人間が辿る霊界への消息

パーソナリティーを復習すると

前回の記事、第46回:超秘教入門8|二重人格 霊的文化の輸入に伴う言語変換の難しさでは、神智学で説かれているパーソナリティーについて解説した。

パーソナリティーとは、カタカナ用語の辞典を引けば「個性、人格、個々人の持っている総合的特性」と記されている。
これは一般的な意味でのパーソナリティーということであって、神智学でいうパーソナリティーとは少し意味が異なる。

神智学でいうパーソナリティーとは、「肉体、アストラル体、メンタル体の三体を合わせて一人の人間と見なす」というものである。
そのような意味においては、カタカナ用語の辞典で記されている総合的特性という意味においては正しいということになるであろう。

更にこのパーソナリティーについていえば、神智学では「濃密な目に見える肉体」と、「精妙な目に見えない肉体」の二つを合わせて、一つの「肉体」と見なしている。
後者の精妙な肉体のことをエーテル体という。

同じように、メンタル体にも「低級、高級」の二つがあり、前者はメンタル体、後者はコーザル体という。
この二つを合わせて、神智学ではメンタル体と言い表している。

なので、人間を表わすパーソナリティーとは、厳密に言えば「肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体」の五つの諸体を合わせたもののことである。

これらの基礎をしっかりと理解していないと、H・P・ブラヴァツキーやアリス・ベイリー、ベンジャミン・クレームなどの神智学文献を読み解くことはできない。

何故なら、前もって神智学の基礎用語を理解していなければ、彼ら秘教家達が伝えようとしていることが分からないからである。

寝て過ごせれば楽だけど・・・。

このニャンコ・・・もとい、下の画像の眠っている猫を見て欲しい。

神智学の理論は複雑である。
それをこの呑気に転がっている猫で例えれば、
この猫そのものを「パーソナリティー」と見なし、
このソファーを物質的な背景とは見なさずに、
「霊的な界層が幾重にも重なった空間」と
見なすのである。

そして、この猫が所有する霊的な各諸体は、
霊的な各界層の空間で機能しているのである。

これは猫の画像があったので、それを活用して
パーソナリティーとその各諸体が所属している
各界層についての解説を試みたものであるが、
これを人間に当てめてみれば、神智学の複雑な
理論も少しは分かり易くなるのではないだろうか。

ただし、人間と動物を比べた場合には、
霊的な進化の度合いには雲泥の差があり、
人間の魂は個別化されているが、自然界の動物達は
群霊として存在しており、個別化されてはいない。
そのため専門的に言えば、彼らは
まだコーザル体を有していないことになる。
なお、コーザル体とは「自我」を指している。

この猫は気持ち良さそうに眠っているが、今の人類もこの転がっている猫と大して変わらない状態である。

言うまでもなく、猫は飼い猫、野良猫を問わず、自身に高い霊性が備わっていることに気付いてはいない。
今の人類も、自身の中に「高い霊性が存在していること」に気付いてはいないのである。

けれど、猫と違って、人間は彼らよりも霊性が高い存在として地上世界に転生しているので、いつまでも呑気に眠っていることは許されないのである。

神智学では、現在の地球は霊的な意味において第四環期の中期に当たるので、この時期は「新時代へと移行するための大変革が起こる」といわれている。
現に、人類は新約聖書の最後を飾る「ヨハネの黙示録」が示した預言通りの道筋を辿っている。

しかし、未だに人類は呑気に眠り続けているので、気付かぬうちに多くの人々が邪悪という暗黒の闇に呑まれ犠牲者となってしまった・・・。

もし、暗黒時代の憐れな犠牲者になりたくなければ、自身の中に存在する「高い霊性」に気付き、霊的に目を覚ますしかないのである。

では、何故、人間は生きながら眠ったままで過ごし、自身が有する本来の高い霊性に気付かずにいるのか。

それは、人間の意識が物質世界で活動するためのパーソナリティー(肉体人間)に完全に囚われ、本来の高い霊性にまで意識が届かなくなってしまったからである。

故に、私達は本来の高い霊性を取り戻さなくてなならず、そのために意識的にこのパーソナリティーという肉体の檻から脱しなくてはならない。
それには、高次元のオカルティズムである神智学を学ぶ必要性が出てくるのだ。

モナド & パーソナリティー / 高級我こうきゅうが低級我ていきゅうが

神智学では、人間は「モナドとパーソナリティー」によって構成されている霊的な存在であるという。
このパーソナリティーの上には、より高度な「モナド」というものが存在している。

簡潔に言えば、パーソナリティーは「肉体人間としての低級我」であるのに対し、モナドは「霊的人間としての高級我」である。

そして、モナドは「アートマ、ブッディ、高級マナス」の三つによって構成されている。

それを分かり易く解説してみると、以下の図2になる。

図2:モナド & パーソナリティー

このモナドを、また神智学では「個性」と言い表すが、早い話、「人間の魂」という意味である。
けれど、ややこしいのが神智学ではこの個性を厳密には魂とは見なさない。

では、神智学で魂という場合は、何を魂と言うのだろうか。
それは、三重のモナドである「アートマ、ブッディ、マナス」の中の「ブッディ」のことを言うのである。

更にややこしいのが、神智学では「ブッディは魂である」と言いつつも、この魂が収まっているのは、人間の抽象的な思考力を意味する「コーザル体の中に存在する」という。

そして、人間が第四段階のイニシエーションを超えて、第五段階のイニシエーションに昇華した時にこのコーザル体が破壊され、魂が自由を得て遂に超人のアデプトに至ると言われている。

このように、神智学では魂という言葉一つとってみても、霊的な仕組みとして細分化されており、人々の間で何気なく使われている俗に言う「魂」というものは複雑なものであり、簡単に表現できるものではない。

では、今回のモナドの簡単なまとめとして、「アートマは霊」であり、「ブッディは魂」であり、「マナスは知性」である。

この三重のモナドは、三つで一つの魂と見なすが、それはあくまでも「大まかに言えば」ということであり、厳密にはより複雑なものである。

何故、モナドを霊的に知る必要があるのかというと、モナドは人間が進化していく上での輪廻の仕組みに深く関わってくるからだ。

要するに、人は肉体人間としてのパーソナリティーに意識を向けているだけでは霊的に眠っている状態であり、モナドへ意識を向け自らの本来の霊性に気付き、解脱に至るより高次な道へと歩み始めた時に、人は正式に「目覚めだした」と言えるのである。

今の人類は、パーソナリティーが
「物質世界で生きるためだけのもの」と
認識している。
これでは自らの本来の霊性をまるで自覚していない
ので、眠っている状態と何ら変わることは無い。

近年、インターネット上では「私は目覚めた」と
いう人達が稀に見られるが、彼らの言うことが
本当であれば、「自己の放棄」に成功した
偉大な人達ということになるであろう。

自己の放棄ということは、自身のエゴイズムで
人や世の中を見ることが無くなった人達のことを
いうので、彼らは解脱したお釈迦様と同じ
「ブッダ」の段階に達したと見なすことができる。

最早、彼らには現世での金銭、家庭、職業、名誉、
生命も何もかもが必要では無くなったのである。

もし、このように「私は目覚めた」という人が
傍にいたなら占めたもので、この資本主義
末期に職業を失うことがあったとしても、
この目覚めた人達が不幸な境遇に陥った人の
人生を無償で支えてくれるのだ。

何故なら、自己を放棄したことにより、
「自らのエゴ」に生きなくなった彼らは
「愛」によって生きることが
霊的に宿命づけられているからである。

新約聖書には、不幸に苛まれた者達が
イエスに助けを求める場面が多々見られる。

彼らはその時必死になり、イエスに対して
このような言葉で叫び、救いを求めるのである。
「私を哀れんでくださいっ!」

この言葉は、目覚めた人達に助けを請う上で
大変参考になる。

霊的に目覚めるということは、神智学的には、
「低級我のパーソナリティー」に囚われずに
「高級我のモナド」に意識を向け、
霊的な統御に向かいだした人達のことをいう。

なので、自分のことよりも他人のために生きる
段階に達した者のことをいうのである。

即ち、利己から利他に向かいだした段階であれば、
その人は「霊的に目覚めた」と言えるであろう。

もしそうでなければ、彼らは目覚めたのではなく
「あること」に対して気付いた、という表現を
用いた方が謙虚で無難である。

推薦動画:Scorpions - Loving you Sunday Morning (Visualizer)

ドイツの国民的ハードロックバンド、SCORPIONS。
彼らの6作目のアルバム「Lovedrive」が
リリースされたのが1979年。

この年、日本では第二次アニメブームを
生んだ機動戦士ガンダムがテレビ放映された。

機動戦士ガンダムは、それまでのアニメとは違い、
マジンガーZや勇者ライディーンのような
勧善懲悪ものの巨大ロボット作品ではなく、
アニメに「戦争」という概念を取り入れた
エポックメーキングとも言えるアニメ作品である。
そのせいか視聴率があまり伸びず、打ち切りが
決定してしまった。
けれど、その後視聴率が伸び出したので、
話数を少し増やして放映されたが、放映終了後に
なって高い評価を得るようになり、商業的にも
成功した希有けうな作品である。

これと同じことがSCORPIONSにも言えて、彼らは
デビュー当時、自国では全く売れないバンドで
あったが、この手の「正統派の流麗な音」を
聞かせるロックバンドが好きな日本を経由して、
SCORPIONSは本国ドイツでも人気を博し、今や
大御所のバンドとして不動の地位を築き上げた。

このように、成功とは時間を掛け遠回りをする
ことによって得られることもあるわけで、
「人生、今がダメだから・・・。」と
嘆く必要も無いのかもしれない。

神智学では、そのような悲嘆に暮れるのを
「アストラル」といい、人生の一喜一憂に
心を奪われることは愚かである、と捉える。

人生は長いのだから、
妥協せずに努力し続ければ、その後、
どのような形で花開くかは分からないからである。

また、「人生報われないこと」が逆に報われる
こともあるので、「人生面白いな」と思う。

このように、自身の一時的な感情論に
振り回されない冷静な判断を「メンタル」といい、
第五根本人種である現代の人類には
「合理的な思考力」を求められている。

今回、SCORPIONSの名曲、
Loving you Sunday Morning 邦題は日曜の愛劇を
紹介したのは、モナド & パーソナリティーの
原稿を書き始めたのが日曜だったから、という
ラフな理由によるが、神智学について書くのは
とても難しく、正直、BGMでも掛けて
気を紛らわせていないと筆が進まない。

そのようなわけで、ボーカルがラウドに歌っても、
ギターワークが激しくても、不思議と品の良さを
感じさせるドイツのハードロックを楽しんでっ!