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第37回:大和心編1 我が日の本は言挙げせぬ国|万葉集から学ぶ大和民族の在り方


筆者の憂い|大和心(日本人古来の精神)はいずこへ・・・

前回の記事「第36回:月の霊学3 月球罰霊界|皇室に弓を引く者達が落ちる地獄・・・」では、神仙家、宮地水位の遺著「異境備忘録」の中から、世にも恐ろしい月球罰霊界の消息について説いてみた。

それは国家の君である天皇家(皇室)に弓を引いた者達が落ちるといわれている、凄惨な地獄の世界である。

かつて月球罰霊界に落ちたとされる日本の有名な人物では、蘇我馬子や弓削道鏡(ゆげのどうきょう)、北条高時などがいる。
恐らく、二・二六事件の黒幕である北一輝も、この中に含まれるだろう。

そしてこれらの有名な先人達に続くべく、現代にも勇敢なる立候補者達が「皇室に弓を引く」という要らぬ努力をしているようだ。

彼らの言論の主戦場は、現代特有のインターネットという空間である。
そこでは匿名が許されているので、彼らの姿形は勿論、一切の情報は公開されずに済む。
それ故、日頃のストレスの解消の為か、恐れ多くも皇室の方々を標的にして、言いたい放題誹謗中傷の限りを尽くし、悦に入っている下劣な連中である。

何故、下劣なのか。
自身の立場を闡明(せんめい)にせずに、「陰に隠れて罵詈雑言を浴びせる」という行為は、皇室の方々に対してだけではなく、誰に対しても絶対にすべきではない「人道にもとる悪質な行為」である。

その点、同じ皇室の誹謗中傷者でも左翼の人々は大したもので、皇居の前まで行って公に文句を言っているのだから、正々堂々としている分、まだ右寄りの私からみてもマシな存在だ。

とは言っても、今述べたように私は右寄りの人間なので、左の人々の思想に対して理解を示す気は全く無い。
それはコミンテルンの指令が、余りにも非人道的に思えるからだ。

なお、私は「右派・保守」では無い。
つまるところ「古き良きものは残し、古き悪しきものは改めなくてはならない」という思想の持ち主である。

例えば、右の人は「明治憲法」復元という事を唱えるが、もし明治憲法に戻せば、この国における女性の参政権が無くなってしまう。
それでは民主主義国家として男女平等の社会とは言えず、個人として賛同しかねる。
故に、右ではなく「右寄り」と述べたのである。

いったい、日本人はいつ頃から、このような「言挙げ(ことあげ)」をして、人道にもとる卑劣極まりない行為を平気で行えるようになってしまったのか。

「言挙げ」とは、現代風に言えば、「賢しらな屁理屈や、くだらない戯れ言」という意味になる。
もっと簡単に言えば、「言挙げをしない」とは「余計な事を言わない」ということである。

万葉集の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌にはこうある。

『柿本人麻呂歌集』から(巻第13)
3253
葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国は 神(かむ)ながら 言挙(ことあ)げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我(わ)がする 言幸(ことさき)く ま幸(さき)くいませと つつみなく 幸(さき)くいまさば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 百重波(ももへなみ) 千重波(ちへなみ)にしき 言挙げす我(わ)れは

がんばれ凡人!」様より引用

このように、本来の日本人は「言挙げをしない国」だったはずである。
それは冒頭の「葦原の瑞穂の国は神ながら 言挙げせぬ国」という箇所に表われている。

それが今はどうか・・・。
匿名が許されるインターネット上では、「言挙げし放題」の倫理道徳を無視した暴言地獄と化している。

それは、暴言を発している者達の胸中に「既に地獄がある」からだ。
その者の「心の中にある地獄」が、その者の口を通して「地獄を地上世界に顕現」しているのである。

即ち、皇室に不敬を働く心無い者達は、月球罰霊界に落ちる前に「既に地獄の底に落ちている救いようのない者達」なのだ。

そして、この「救いようのない者達」が自らが作り出した心の中の地獄は、次の段階に進むと、引き寄せの法則から「自身の周囲にその地獄を顕現させてしまう」のだ。

即ち、地獄三昧・・・。
見方を変えれば、彼らは地獄の世界が心底好きなのだろう。
ただ、本人がそのことに気付いていないだけなのである。合掌。

閻魔あい 地獄少女 宵伽 / スタジオディーン

「いっぺん、死んでみる・・・?」
地獄少女が迎えに来なくとも、自ら進んで地獄に
向かう者達がいる。人を呪わば穴二つ・・・。

ネット上では匿名で通るが故に、他を貶めては
喜ぶ者達がいる。いずれ自身に、その深い業
(ごう)が還ってくるのは必至。
それが霊の世界であり、
カルマというエネルギーの法則なのである。

だが、悦に入っている当の本人達は
そのことを知らないでいる。
何故なら、自身が成した行為は、今すぐに
地上世界に顕現するものではないからだ。

業の顕現には時間差がある。とかく本人が
忘れた頃に「災い」として還ってくるものだ。

しかし、彼らは一体何人の人達を不快にさせて
きたのだろう・・・。それを考えると、彼らの
背負った業の深さに戦慄が走る。合掌・・・。

深淵(シェディング)を覗くものは深淵からも覗かれる

先に述べたように、人が無意識のうちに自身の思考に囚われてしまうと、引き寄せの法則によって意識したものを呼び寄せてしまうが、それは現在、巷で問題になっているシェディングについても同様の事が言える。

余り「シェディング、シェディング」といって意識し過ぎてしまうと、返ってシェディングを強く引き寄せてしまうことになる。

確かにシェディングは侮ることが出来ない程、危険性の高いものだ。
現に私も、二度シェディングの被害によって死にかけ、危うく死んだ二人のばっちゃに会いかけた。

けれど、シェディングは余り意識しすぎると逆効果で、シェディングそのものを引き寄せてしまうだけではなく、シェディングそのものと同化しかねない。
それが引き寄せの法則だ。

なので、シェディングの危険性をしっかりと認識し、ある程度対処法を身に付けたならば、もうシェディングから意識を切り離すべきである。
でなければ、「シェディングの虜」になりかねない。

詳しくは語らないが、私からすればシェディングは一種の「霊物(れいもつ)」である。
(何故、シェディングは、みぞおちの下に位置する「マニプーラチャクラ」が反応するのか。何故、そこに痛みや圧力を感じるのだろうか。このチャクラは、霊的には「低次元の霊界と感応する部位」に当たるものだ。)

この霊物は、邪悪な科学によって作られた「人工的な物の怪」なので、こちらが強く意識を向ければ内的に感応してしまうものだ。

例えば、清らかな神社に意識を向ければ、内的に神社の波動に感応するし、穢れた心霊スポットに意識を向ければ、同じく内的に心霊スポットの波動に感応する。
深淵(シェディング)を覗くものは、深淵からも覗かれるのだから。

そのような霊的な意味も含めて、シェディングに意識を向けるのは程々にしておいた方が安全だろう。
「君子、危うきに近寄らず」とは、この事である。

日本人は「神(かむ)ながら」故に言挙げせず

話が逸れたので、もう一度、先の柿本人麻呂の万葉歌に戻り、この歌を敢えて前半と後半の部分に分けてみよう。

「葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国は 神(かむ)ながら 言挙(ことあ)げせぬ国 」

前半では、「本来、日本人は言挙げしない」ということが強調されていた。
それは先にも挙げたように、日本人は余計な事は言わない人種なのだ。

何故、日本人は余計な事を言わないのか。
この国に古くからあるのは「神(かむ)ながら」の思想である。
神ながらとは「あるがままに生きる」という意味で、賢しらなことはせず「自然体で生きる」という言葉である。

有名なビートルズの曲の「Let It Be」も、「流れのままに」という意味であり、我が国の「神ながら」の思想と同じことが歌われている。

これが柿本人麻呂の歌の前半箇所であり、日本人が言挙げしない理由は、「神ながら」、即ち「あるがままに生きる」自然体の思想を持っているからである。

よって、ネット上で悪質な誹謗をしている人達は、賢しらな知恵を振り回し、本来の日本人の在り方である「神ながらの生き方」をしていないのだ。
それ故に、彼らは自分らしく生きていないのでストレスを溜め込んでしまい、人為的な誹謗を繰り返しているのである。

なので、彼らは自然体で生きることが出来るようになれば、また彼らの在り方も改善されてくるのではないだろうか。
ただ、それには時間を必要とするだろう。

続いて、この万葉歌の後半を読み解いていこう。

しかれども 言挙げぞ我(わ)がする 言幸(ことさき)く ま幸(さき)くいませと つつみなく 幸(さき)くいまさば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 百重波(ももへなみ) 千重波(ちへなみ)にしき 言挙げす我(わ)れは

柿本人麻呂は、前半の箇所では「日本人が言挙げをしない人種である」ことを前提とした上で、後半では「私は敢えて言挙げをしよう」と詠って(うたって)いる。

それは、日本人とは言挙げをせずに自然体で生きる人種ではあるが、人を送り出す時には、その人の前途の幸いを願って「祝福の言葉」を贈ろうと綴っているのである。

それを現代的に言えば、「どうぞご無事でありますように」となり、キリスト教的に言えば、「神のご加護がありますように」という意味になる。
いずれの場合も、その人の安否を祈っている祝福の言葉である。

このように、本来の日本人は余計なことを言わないよう心懸ける人種ではあるが、「人を活かす前向きな言葉」であれば、敢えて口にしようという姿勢なのだ。

日本の歴史を遡れば、古(いにしえ)の頃より、ありのままの自然な生き方を旨としてきたのが我々大和民族であり、人を陰で誹謗中傷し悦に入るような生き方をする憐れな人種ではなかったはずだ。
それはこの万葉歌の後半で歌われているように、本来の日本的な在り方は、「人に何かを伝えようと口を開くときは、その人の弥栄(いやさか)を願って祝福の言葉を手向けよう」というものである。

これは柿本人麻呂個人の思想ではあるけれども、当時それに共感する多くの人々がいなければ、万葉集の中にこの歌が収録されることはなかっただろう。
故に、この万葉歌は古代の日本人の心を歌っているのであり、それが日本人の本来の大和心なのである。

そして、このことからも分かるように、古代の日本人が重きを置いたのは、自らの「心の清澄さ」にあるのだ。

神社の「神鏡」はその者の心を映し出す

何故、我が国の神社の本殿には、「神鏡」が安置されているのか。

それは参拝に来た者達の心の中を反射し、映し出す為のものである。
その為に、神社の拝殿には、神鏡が安置されているのだ。
故に、本来の神社の霊的意義の中には、現世利益・開運などという物質的な要素はない。

即ち「神社」とは、神(宇宙)の分霊(わけみたま)である参拝者が、「自身の心(魂)に曇りが無きように、自身と向き合う神聖な場所」なのである。

日本人は、このように古くから「心の清澄さ」というものに、本来無意識のうちに重きを置いていた民族なのだ。
それが我が気高き「大和民族」であり、心の美しさの表われが「大和心」なのである。

駿河国一の宮 富士山本宮 浅間大社/静岡県

人とは何か。
この人類永遠の謎ともいえる哲学は、神道に
意識を向ければ、難なく説くことができる。

人とは「神の分霊(わけみたま)」である。
それが我が国に古くからある神道の答えだ。
よって、人は生まれた時から崇高な存在であり、
本来は玉のように光り輝く存在なのである。

しかし、人が成長し、世の中で生きていく上では
様々な出来事があり、人はどうしても穢れていく。

その自身の穢れを自覚し認識させてくれるものが、
日本各地に存在する神社なのである。

神社の本殿には「神鏡」が安置されている。
参拝者が拝殿で手を合わせる行為は、神社の神を
通して自身の内にある神(内在神)と対峙する
事であり、それが神社参拝の霊的な意義である。

なお「神鏡」は、一般的には神社のご神体といわれているが、これは顕教的な解釈であり、先に述べた「自身の心を映し出す作用」は、秘教的な意味での神鏡の解釈になる。

「神ながら」それは調和の精神を意味する

自然界を眺めていると、全てが調和していることに気付く。
それに気付かせてくれるものの一つに、木々達の生命の循環がある。

四季の巡りは「生の巡り」。

植物は死しても尚、その次の「生」に繋げていく。
その意味では、自然界に「死」というものは
存在しないのかもしれない。

木々は、春になると幹や枝を伸ばし、夏になると青々した葉を茂らせ、繁茂する。
秋になり、涼しくなるとその葉は紅葉し、次第に枯れて地面に積もっていく。
冬は、木々の姿を覆う葉は落ちてしまったので、その身を覆うものは何もないが、落ちた葉は地面に堆積し、土に滋養を与える腐葉土になる。

これが木々達の四季の流れの中にみられる、生命の循環である。

このように、自然界は循環し再利用するので、基本的に捨てるものは何も無い。
しかし、同時に「適応できないものは自然淘汰される」という厳しい側面も併せ持つ。

例えば、動物は我が子がひ弱で生き延びる事が出来ないようなら、母親はその子を捨ててしまう。
この法則は人にも同じ事が言えて、神が定めた「周期」の間に霊的に目覚めなかった者を捨ててしまう。
(未だに事の真相にも気づかない接種者達は、その岐路に立たされている。)

再度繰り返すが、自然界の全ては循環し、調和するようにできている。
それが「神(宇宙)の摂理」なのである。

この木々の落ち葉達のように、人間界にも落ちた者達がいる。
いわば「人の世の枯葉」ともいえる人々だ。

その者達は、枯葉のように風が吹けば飛ぶような軽い人々である。
要するに、彼らは「人として未だ自我が形成されていない」から軽いのだ。

自我が形成出来ている人は、そこに至るまでに大変な苦労を経てきているので、他の人の自我も認める事が出来る。
けれど、自我が未だ形成出来ていない人は、他の人の気持ちを理解できず、またその人が抱えているだろう背景すらも察する事が出来ない。

これは人としての経験値の差であり、目的意識を持って努力して生きてきたか否かで、このような人格形成の差が生じるのだろう。

「人の世の枯葉」とは、私がこの記事の冒頭から幾度となく述べている「陰に隠れて人を誹謗中傷し、悦に入る心無い者達」のことである。

しかし、このようなクズでも、自然界から学べば基本的に捨てる物などはないので、神ながらの精神で彼らとの調和を目指していくのが、本来の日本人の在り方なのかもしれない。

要するに、「人の世の枯葉」にも、大人が寛容な態度で接していけば、子供の彼らもいずれ生き方も変わり、社会の中で「少しは役に立つ腐葉土」になれる可能性もあるだろう。

「人の世の枯葉・・・」
その性格の故か社会からあぶれ、ネットの中でしか
強気になれない悲しい臆病者達。

現代人の私達は、彼らのような者達に対して理解を
示す気は毛頭無いが、古代人の大和心に学ぶなら、
四季が巡るが如くに世の中にも色とりどりの人々が
いることに気づかされるだろう。

「捨てる神あれば拾う神あり」

いずれ、このような枯葉達にも
理解を示せる寛大な人が現れ、
彼らに良い好影響がもたらされたら幸いである。

そのような心の在り方が、日本古来の
「神ながら」といえるのではないだろうか。

日本古来の「神ながら」とは、あるがままであり、自然そのものを意味する。
自然とは調和であり、排除ではない。
人の世は、相容れない者がいれば、とかく左遷などで排除してしまおうとするが、「神ながらで生きる」なら、調和を心掛けていくべきである。

「故きを温ねて新しきを知る」

今回の記事では、改めて古代人の万葉歌から大和心を学ぼうという趣旨で話を展開してきた。

今の時代は、人心が乱れ殺伐としているので、人間、穏やかに生きたくともそれは叶わない。
だからこそ、万葉を通して日本人の原点である大和心を呼び覚まし、「神ながら」の調和の精神で生きていけたらと願う、今日この頃である。弥栄。