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大阪北部地震(3) 大船渡を忘れない

大阪北部地震から数日経ったのだが、地震の揺れの怖さだけでは終わらなそうな事案が出てきたので、記録を付けて公開して行こうと思う。前回のnoteはマガジン『都市型地震経験談』に保存。ぜひお読みください。

あの地震から不安だが不思議な感覚と、ある種の恐怖で1週間を過ごした。
睡眠時間がショートスリーパーの私でもこれではアカンやろ?と思うほどに短くなって、3時間ほどで目が覚める毎日だ。
記憶も薄れてきそうなので、地震の後のこと、その時の行動の理由、きっかけなど、自覚していることも書いておこう。

6月18日月曜日、激しい揺れが収まった直後、愛犬と愛鳥と少しばかりの現預金をリュックに入れ息子とマンションを飛び出たが、何ら変わらぬ日常のような気がして自宅に舞い戻った。

ダイニングの椅子に腰掛ける。脱力感が半端ない。
息子も学習机から雪崩落ちた教科書などを眺めては、
「片付けるの後でいい?」
と聞いてくる。
「いいんじゃない?また揺れるかも知らないから、体力温存して休んどき。」
と答えた。

テレビ、Twitterなどで情報を得ながらボーとしていると、親、友人から立て続けに電話がかかってきた。

すごいな…
電話ってこんなに早く通じるんだ?
地震の後は電話が繋がりにくいという感覚がいまだに拭えない。何度も震災を乗り越えた通信会社の企業努力なのかも知れない。

またiPhoneの呼び出し音が鳴った。
画面には岩手県大船渡市に住んでいる友人の名前が表示された。

ここで、私は虚勢を張った。
この地震で目立った被害も受けてないし、2011.3.11東日本大震災に比べたらなんの問題もない。ただきつめに揺れただけ。
きっと心配してくれたのだろうから、「なーんだっ」と安心してもらいたい!だから、電話口の開口一番に
「生きてるでぇ!!」
と大きな声で言った。

東日本大震災、2011.3.11 あの日、パソコンでTwitterをしていた。
大阪も大きくゆらゆら揺れてどこかで大きな地震が起こったとわかった。
関東以北が深刻な危機に見舞われ、特に東北の海岸線から市街地は、津波によって壊滅的に破壊された。
その地震の直後は分からなかったが、徐々に、そして日に日に被害の状況が伝えられ、大船渡の友人の安否をネットを使って数日間探し求めていた。

昨年、私は初めて大船渡に行った。
ネットで知り合い、意気投合し、震災で被害にあったその友人の復興に頑張る姿を、これもまたネットだけでしか知らなかった私は、震災から数年経ってようやく彼女に会いに行ったのだ。
東日本大震災から、何かできないかと思いつつも、何もできないことを情けなく思っていた。あれから数年経ってはいるが、現地に行くこと、この目で復興の現状を見ることが私の、また、この話を伝える人、例えば息子などに人生の何かの糧になるかもしれない。と漠然と考え、また、何より、彼女とご家族に会いたくて、初めて東北に飛んだのだ。

大船渡の友人ご家族が新居に明るく迎えてくれた。
その後、観光名所、そして、震災の傷跡がまだまだ残る場所に連れて行ってもらった。おそらく、今では随分マシになったのかもしれないが、きっと彼女は当時を思い出す場所に赴くのは辛かったのだと思う。
津波で流されたご自宅があった場所、その時、どのように逃げたか…一緒に瓦礫の上を愛犬と歩いて移動したこと…。
いろいろ話をしてくれた。

その話の一つ一つは、私の脳にすっと入り、忘れる事のない貴重な記憶情報となった。

もう数十年前から、当時は「東海地震」と呼ばれていたが、「南海トラフ地震」が必ず起こると言われてきた。
私の住まいがある豊中市では津波の被害は起こらないと思う。
しかし、激震のために、家屋崩壊はひどいものになるだろう。
もう十数年間も「必ず起こる南海トラフ巨大地震」と言われてきたのに何も起こらず、ましてや人々の予測に無かった東北の地で壊滅的な地震が起こったのだった。

その大震災を経験した友人の体験談、またメデイアで見た被害状況、「いつか南海トラフが起こった時にはどうしたらいいか?」と常に考えるようになっていた。
だから、大阪北部地震が起こった瞬間、激しい揺れの中で「南海トラフが来た!」と思ったのだ。

今回の地震は東日本大震災ほどの大被害はなかったものの、耐震構造がなされていないブロック塀の倒壊により小さい子の命が亡くなり、被害者は現時点で死者5名、負傷者423名、住宅被害・全壊3戸、半壊19戸、一部破損が1万戸を超えている。

最近、大きな地震が起こっても、実はそれは余震で数日後にはそれよりも大きな本震が起こると言われており、東北の地震も、2016年の熊本の地震も最初に起こった地震がマグニチュード6.2と激しい揺れだとしても前震だとされている。

今回の大阪北部地震も、みな口々にこれより大きい揺れがくるかも!と言っていた。
しかし、18日の翌日に震度4の揺れや、歩いていたら気づかない程度の揺れはいくつかあったが、カラダの自由を奪われるほどの激しい揺れは起こっていない。

6月20日水曜日。スーパーでは食材もいつもの通り、いつもの価格で問題なく買い物が出来ていた。実は普段の生活のような気がしていても、地震直後はコンビニからパン、飲料など食材が売れてショーケースから消えていたのだ。
揺れは怖がったが、奇跡的にその後のつらい避難生活やストレス、恐怖を味合うことがなくありがたいことだと思っていた。

その夜、お風呂から上がった息子が顔をしかめて私のところにやってきて言った。

「ママ、お風呂の、、脱衣所の壁にヒビが入ってる!」




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