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私の工場経営ノウハウ(12)大震災の教訓

あと数分で東日本大震災から9年になりますが、あの日のことは今でも鮮明に憶えています。私は東日本の地方工場長でした。応接室で打合せをしていたら、いきなり未経験の大きな揺れに襲われ、同時に中庭に面した3m程度の高さのガラスの壁が割れて崩れました。揺れがおさまったのを見計らって、あらかじめ防災訓練で決めてあった工場内の神社境内に行って、従業員の避難状況確認をしました。その後、製造現場に取り残された人がいないか、金めっきラインが倒壊していないか確認させる必要がありましたが、酸素ボンベを背負った自衛消防隊員に偵察命令を出せずにいたら、製造部長が出してしまいました。

自分の目の前での命令なので、もちろん自分が全責任を負うのは承知しているのですが、今でも迷う判断でした。金めっき液はシアン化金カリウム水溶液なので、酸と接触してPH3以下になると青酸ガスが発生する可能性があります。もし、行かせて事故が起きては取り返しがつかないし、行かずに青酸ガスが発生しては甚大な人的被害がでるので近隣避難を要請する必要があると思いました。一刻を争う状況ですでに地域全体が混乱しており、消防や警察を頼れず、頼っても近くに化学部隊はいません。自分たちが地域では一番の専門家なのです。 民間とは言え国が混乱に陥ったら頼れるのは自分たちだけだということを思い知りました。訓練を積んだ隊員が行動可能時間とルート確認を済ませ酸素ボンベを背負って、次々に出撃して行った姿は忘れられません。

 幸いと言うべきか、被害は硫酸銅めっきラインの損壊による硫酸銅めっき液2000リットルの流出と塩酸数100リットルの流出くらいで、ミストが充満に対する換気でその日は終わりました。全員無事でした。
この時知ったのは酸・アルカリを処理する設備は金属では腐食するため塩ビで出来ているので割れやすいということ、日本の東に震源があったので南北20mもある大型めっき設備が東西に1m平行移動し、塩ビ配管は固定部での剪断応力で割れること。バッチ式の2mめっき槽を配列した金めっきラインには被害がなく、10mを超えるプッシュバー方式の東西に長いめっき槽が応力で破損してめっき液流出を発生させていました。金めっき液はバッチ式めっき槽だったから助かったのです。また、金めっきの場合、費用は掛かりますが金属の槽の内側にテフロンコートして耐薬液性と機械強度を同時に達成している上、槽は2重構造、ライン全体を防液堤とアクリル壁で囲って多重安全構造にしていました。

これらの経験は東南海巨大地震対策で生かしたいですね。今度は震源が南なので揺れは南北、南北方向ラインのダメージが大きい。東西にラインを組み途中に応力を逃がす構造を入れ、防液堤は危険液全てを収容できる容積で設計するようにしたい。塩ビ配管をテフロンコート金属にするのは価格面だけでなくメンテナンス性からもできません。ポリエチレン配管の方が破損しにくいですが、溶接加工ができないので接合部の処理にノウハウがなければ高強度塩ビ配管がいいでしょう。

当然ですが、塩ビで出来ているスクラバーは壊れてしまい、重金属入り濃厚廃液処理設備のポンプも壊れてしまい2000リットルの硫酸銅めっき液は処理できない状態でした。業者はどこも応答なし、あっても利根川から北には来ないとのこと。そんなとき、地元の住宅塩ビ配管工など個人事業主10社が支援してくれたのです。思いがけない救援に涙しました。当時、半導体DRAM大口径ウエハの検査に不可欠な製品を独占製造していたため、お客様が翌日から次々正門に現れ心配してくれたのが負担でした。この製品はウエハ設計に合わせたカスタムメイドなので仕掛品の納期遅延は顧客の生産を止めるし、代替えは数か月掛かります。国内はもちろん韓国のDRAMラインも止まり、世界のサプライチェーンに影響を与えてしまいます。

電車も止まり、総務にはガソリン調達チームを編成させ、従業員を乗り合いで自宅と会社を送り迎えさせ、3日で工場の部分復旧と送電開始で仕掛品の加工を進め1週間後に一部出荷したのを覚えています。いつ寝たのか、いつ喰ったのかは覚えていません。家族は無事とわかったので工場生産再開に全てを掛けていました。このとき食料がない中、設備建設会社のオヤジが50個のおにぎりを指し入れてくれたことが、とてもうれしく、部下達と分けて懐中電灯だけの暗い臨時指揮所で食べたことを思い出します。

よく親が「遠い親戚より近所が頼りになる」と言っていたけど、遠いところの大企業より地元の中小企業の方が何倍も頼りになることを実感しました。東京本社もその頃、重要部品を生産していた福島の工場閉鎖と代替生産を政府から毎日強く要請されていて、我々の工場に勢力をさけない状況だったのです。工場再開フル稼働に入ったところで、助けてくれた10社の社長さんたちに感謝状とリポビタンD 1箱ずつを手渡した記憶があります。

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