『四畳半タイムマシンブルース』はクリスマスプレゼントでお年玉でラムネ色
『四畳半タイムマシンブルース』がアニメ映画化された。うれしい。とてもうれしい。
映画館では9月30日から3週間限定で公開、Disneyプラスでは9月14日から順次配信が始まっている。堪え性がないのでDisneyプラスに登録していち早く見たい気持ちもあったが、心の声が「アマプラとNetflixにも入ってるのに?このふたつだって全然活用できてないくせに」と毒舌を吐いてくる。なぜ世の中はこんなに有料動画配信サービスが乱立しているのだろう。戦国時代か?
そんなこんなで映画館の大きなスクリーンで鑑賞することを選択した私である。ちなみに舞台挨拶の抽選は全滅した。かなしい。
今回は映画を鑑賞したひとりのファンが、改めて大好きな森見登美彦氏の最新作、『四畳半タイムマシンブルース』についてつらつらと語るたけの記事である。
『四畳半タイムマシーンブルース』
『四畳半タイムマシンブルース』は2020年7月に発売された小説作品。2018年の『熱帯』から約2年ぶりの新刊である。
本作は、ヨーロッパ企画の舞台および映画『サマータイムマシーン・ブルース』と森見登美彦氏の小説『四畳半神話体系』がコラボした作品。物語のあらすじは『サマータイムマシン・ブルース』に準じた内容となっている。ざっくりと共通する要素は下記の通り。
・主人公は大学生でサークル活動後にエアコンのリモコンにコーラをかけてしまい、リモコンがお亡くなりになる
・25年後の同大学の生徒がタイムマシンに乗って現れる
・壊れる前のリモコンを求めてタイムマシンに乗りわちゃわちゃする
・河童の銅像、犬のケチャ、銭湯オアシス、ヴィダル・サスーン
・リモコンの復活方法
元々、森見登美彦氏は原作をリスペクトしながらも舞台を自分のフィールドに置き換えた作品(『【新釈】走れメロス他四篇』など)のような、新釈(パロディ)であったりコラボ的な作品を複数執筆している。特に今回は、盟友・上田誠氏とのコラボということで、万城目学氏が言うところの「フィクション永久機関」が生まれたことにしみじみを喜びを感じているくらいである。
何よりも約2年ぶりの新刊。2020年当時のわたしはとてもうれしく意気揚々と本屋に買いに走ったものである。読めるだけで幸せ。しかしそれだけでなく刊行当初の私は、おおいに感動し、そして感謝していた。『四畳半神話大系』の16年ぶりの新作でもあるのだ。
私にとっての森見登美彦氏
2年ぶりの新刊で16年ぶりの新作であることについて少し補足をすべく、そのためにまず「締切太郎」の存在について触れたい。
2011年に大量の連載作品の同時進行に追われ、体調を崩してしまった森見登美彦氏は「締切太郎」を召喚した。氏は締切のことを「締切次郎」と呼び、元気な折にはくんずほぐれつしていたが、その締切次郎の親玉となる存在を「締切太郎」と呼んで恐れていた。この「締切太郎」を召喚することはどういうことなのかというと、すべての連載を停止すること。すなわち、氏はすべての連載の執筆を辞め、体調回復のために静養に入ったのである(詳しい内容は同氏のブログ「この門をくぐる者は一切の高望みを捨てよ」を参照)。当時、氏は7つの連載を抱えていたのだという。多いよ……それはホラーだよ……。
そのとき大学生だった私にとって、この出来事は大変衝撃だった。高校生の時に運命的な出会いをした作品たちの生みの親が、体調を崩してしまった。あんなに素敵でオモシロイ小説を書いてきた作家が、書けないくらいに病んでしまったのか、と。それはいけない。きちんと養生して元気に暮らしてほしい。
そんな経験をふまえ、森見登美彦氏ガチ勢である私は、まず「森見登美彦氏が健やかにすくすくと毎日を暮らしてくれればそれでいい」と思っている節がある。そんな心持ちであるから、新刊のお知らせが出ると狂気乱舞する。新刊に対する喜びはもちろんだが、「毎日存在しているだけで充分なのに新刊を出してくれてありがたや」という心境に陥っている。多分、村の神かなんかと勘違いしている。
森見登美彦氏といえば、腐れ大学生が京都および四畳半でもんもんと右往左往としている作風をイメージする人も多いだろう。しかし、2011年に『四畳半王国見聞録』を上梓して以降は、『夜行』『熱帯』といった、少し不思議で読み手の想像力をおおいに刺激する物語を執筆している。京都から離れ、様々な土地を舞台にした作品たちである。
対して、学生と四畳半をモチーフにした作品については、次のように語っている。
腐れ学生と四畳半というテーマを苦しみながら書いていたことは様々なインタビューで拝読しており、また、2010年に『ペンギン・ハイウェイ』が刊行された際には、「登美彦氏は四畳半から卒業したんだな」ということを思った記憶がある(そのあと『四畳半王国見聞録』が出版されたが……)。
でもそれは悲しいことではなく、多分小学生が中学生になるにあたりランドセルを卒業したりとか、思春期の男の子の一人称が「僕」から「俺」になるとか、母親のことを「おふくろ」って呼び始めたりとか、そういう自然な移行にすぎなくて(どんな例えなのか)、現に私は『ペンギン・ハイウェイ』が長文の感想を書いてしまうほど大好きな作品だし、『夜行』も『熱帯』も大好きで傑作だと思っている。『熱帯』は直木賞は逃したものの、読書が好きな人ほど読むべき作品だと思っているし、読書体験というとても素敵で素晴らしいものを、ひとつの作品で二重にも三重にも楽しめる不思議な作品だ。
それに、私も高校の時に森見登美彦作品に出会い、現在はアラサーである。それこそ、学生の頃から趣味嗜好も変わってきているし、(おそらく)視野も広がり、作品の楽しみ方も変わってきていると思う。でも、全部それは自然な移行なのである。
そんなときにやってきたのが、今回のフィクション永久機関のうえに刊行された『四畳半タイムマシンブルース』。
大人になった私のもとに、『四畳半神話大系』の面々が顔を見せにきてくれたのである。
クリスマスプレゼントでお年玉
『四畳半タイムマシンブルース』刊行当初のわたしの心情を表すとしたら、それこそ先に書いた通りおおいに感動し感謝したということにほかならない。
ただ、不安がなかったわけではない。そうは言っても私は大人になったし、森見氏は「四畳半」についてはやり尽くしたともおっしゃっている。例えば、十数年ぶりの同窓会で成長した同級生に出会って「あら、あの頃の片鱗はあるけれども、お互いに大きくなって変わりましたわね。うふふ」というような内容であってもおかしくない。そう思って読み進めていた。ところが。
この描写、最初の3文字以外は一言一句変わらず『四畳半神話体系』と同じである(『四畳半神話大系』では「小津は」ではなく「彼は」と書かれていた)(この前に書かれている下鴨幽水荘にかかわる描写も『四畳半神話大系』に則したものであるが、『サマータイムマシーン・ブルース』の設定に合わせると一部割愛・変更している内容があるのでここでは飛ばす)(森見氏ガチ勢なのでいちいち注釈が細かいところは許してほしい)。
つまるところ私は、高校生のときに出会った、あの頃に呼んだ「私」が「小津」の説明をする描写に、ふたたび出会ったのである。
このときの感覚は、「子どもの頃にはなんの気なしにもらっていたけれども、大人になって縁遠くなり期待することすら忘れていたにもかかわらず、ふいにもらってしまったクリスマスプレゼントやお年玉」のようなものである。村の神様のように感じていた森見氏から、時を経て思いがけない贈り物を用意してもらってしまったとき、これを喜ばずして何を喜ぶのか。うれしい。とてもうれしい。
それにしても、『四畳半神話体系』をまざまざと思い出させる描写が小津を語るものであるとは、「私」と「小津」のボンレスハムのようにぐるぐる巻きにされた「運命の黒い糸」を感じずにはいられない。
とはいえ、もちろん変わっているところもある。『四畳半神話体系』ほどもんもんとしていないというか、主人公の内向的思考がやわらいでいるというか、少しさわやかさがあるというか。それは、私も物語も様々な人や機会に出会い、それこそ「ランドセル」と「僕」を卒業するかのように、お互いに自然な成長したからだということで妄想することとする。それもとても幸せなことだと思う。
映画『四畳半タイムマシーンブルース』
さて、映画の感想である。
森見登美彦氏ガチ勢である私は、もちろん特典入手のために公開から日を開けず鑑賞することを目指したが、冒頭に書いたとおり舞台挨拶の抽選は全滅。仕事と体調と諸々の都合で公開3日目に足を運ぶも、悲しいことに特典の配布は終わっていた。公開3日目じゃ遅すぎたのか……。『ふしぎな石のはなし』、読みたかった……。特典とはいえ推しの新作なのよ……。
気を取り直して映画である。直前までアニメ版『四畳半神話大系』最終話を見て気持ちはすでに作ってある。
にもかかわらず、鑑賞中は様々な思いが湧き水のように出てきては流れていき、出てきては去っていく。
初めて『四畳半神話体系』を読んだ学生の頃、森見氏好きで意気投合した店長に採用された本屋バイト、はじめてのひとり暮らしで一気見したアニメ版『四畳半神話大系』、社会人になって会社の近くで買った新刊、はじめてとった有給で訪れた弾丸森見登美彦氏聖地巡礼京都旅行て泥酔した夜、恋人と観に行った『夜は短し歩けよ乙女』の映画と舞台、そして『四畳半タイムマシンブルース』の刊行……。
よくよく思えば、私の人生は森見氏の作品と共にあったのだなと実感した。そしてやや感極まってしまった。
しかも映画館はとてもあたたかい雰囲気につつまれており、物語の展開に応じてところどころ小さな笑い声が聞こえたりしていて(特に、99年前から城ヶ崎氏が戻ってきて樋口氏と問答した場面では結構な笑いが起こっていた)、それが更に私の涙腺を緩ませる。
他者がどのように考えているかはわからないし、私のこの文章も完全な独り言であり妄想のもとに書かれているものではあるが、出会ったタイミングも想いも人それぞれであっても、こうやって作品と出会って今日を楽しみにしている人がいて、この映画を一緒に笑いながら鑑賞できる空間にいられるということは、とても素敵なことである。
そんなことをもちぐま的やわらかさをもつあたたかな空間で考えていたからか、エンディングの「出町柳パラレルユニバース」を聞いて鼻をすすってしまったのは内緒だ。
青春的ラムネ色
映画『サマータイムマシン・ブルース』も鑑賞済みの私であるが、映画『四畳半タイムマシンブルース』を観てひとつ声を大にして言いたいことがある。『サマータイムマシン・ブルース』で瑛太(現・永山瑛太)が演じる主人公に比べ、本作の「私」のほうが圧倒的ヘタレであるということである。
「私」が「明石さん」を五山送り火に誘うことができたのは、圧倒的タイムマシン展開のおかげであり、ヒロインとしての明石さんが勇気を振り絞ってヒロイン力を発揮したからであると言っても過言ではない。でもだからこそ、そのラムネのように少し甘酸っぱいようなふたりのやりとりを私たちは楽しむことができたし、映画最後の鴨川デルタでのふたりのやり取りも素敵である。ちなみに小説版は映画にはない素敵な会話があるので、未読勢は読むことを強くお勧めする。
『四畳半神話大系』はもっと煮汁的な色合いが強い作品で、この青春的ラムネ色展開は16年越しの今だからこそ、『四畳半タイムマシンブルース』たからこそ、実現できたように感じてならない(現に『四畳半神話大系』の単行本は黄土色っぽい表紙で、『四畳半タイムマシンブルース』は爽やかみのある青色である)。
そんなラムネ色も含めた贈り物をしてくれた森見登美彦氏はもちろん、本の出版・映画の制作に携わった全ての人も含めてますます感謝しかなく、引き続き森見氏には「健やかにすくすくと毎日を暮らしてほしい」とただただ願っている。村の神様なので。
このひとり語りを終わるにあたり、本文中からこの文章を引用したい。どんなに時を経ていても、どんなパラレルワールドに行ったとしても、きちんと素晴らしき大円団を迎える「私」が語るべき言葉として、これ以上にすばらしいものはないと思っている。
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