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デス・レター(Made In A Garage 7のあとがき:その1-イベント編)


イベントが終わった。ほっとしている。年末に起こった我が身のドタバタ、ティートエイチヒロキ氏の負傷など、何かと気遣ったが、大盛況に終わった。ショーが終わっても、会話と酒の消費は収まらず。そのティートエイチは「反省会」と称して近くの居酒屋に直行した、いい演奏の余韻を残しながら。みんな笑顔。参加してくださったすべての皆様に感謝しています。ありがとうございました。

ところで、俺はこのイベントに、様々な「願い」を持って臨んだ。その最大のものは、実は、俺が誘ったアーティストたちにあった。会場の千葉ANGAは、典型的なアメリカのライブバーの形式そのものである。煉瓦造りの壁、ネオンライクなバーカウンター。わりあい広い楽屋。英語人たち。日本語人たち。ある者は会話をし、ある者は演奏をまんじりと見、ノリノリになり、あるいは外でタバコなどを吸い、ワイワイとなって夜が終わらない。

この雰囲気と、彼らが普段やっているライブハウスの雰囲気とを比べて欲しかった。そして、両者の大きな隔たりの中で、彼ら自身の「ポップセンス」の重大性を再確認して、自らを祝福して欲しかった。これが俺の「願い」である。

今回Sen City Records から選抜された4組。かれらの演奏と客のフロアは、実に地続きであった。「見せる」と「見る」の境目が極めて曖昧であり、そこにいたすべてのものが、音楽を「問題提起」として、全員が楽しくなれる何かを全員で探している、というイメージだ。

VERONICA VERONICO, Teet.H, The Rudyそして→。音楽の系統は全然違うけれど、共通してあるのは、このポップセンスだ。歌とは限らない。しだけではもとより、ない。演奏だけではない。いろんなもの全てがないまぜになって、その上に「俺たちは人に話したいんだ」という、渇望が、断然強いアーティストたちを、俺は毎回選ぶ。とはいえ、当の本人は無自覚だと思う。ポップセンスは、天賦の才かもしれない。だが、彼らは見たはずだ。そのポップセンスは、英語人の彼らの中に、ごく普通に流れているということを。

ANGAの音響、照明も「ポップ」ということをわかっている。あんなにHI -FIなVERONICA VERONICOを聴いたことがあっただろうか?キックと鍵子の声が、あんなに、一直線に客に向かって飛んできたことが、あっただろうか?ルーディーもティートエイチも→もそう。各自の第一音がきっかけになって、その場にいるものは、無数につながり始める。

ライブハウスで、演者の中庸な演奏を聴いて、この音楽の何が良いのか、聴衆として、心の中で演者に歩み寄った経験はないだろうか?演者としてステージに立ち、盛り上がらない客に向かって煽った経験はないだろうか?ライブハウスの地位凋落の原因は、轟音ロックブームの中で、「ポップとは何か」ということについて、実は誰も何にも考えていなかったことにあると、俺は見ている。

ロック人たちが最も忌み嫌う言葉、「ポップ」。いずれ話はそこに逢着するだろう。だが、その「ポップ」とは、いわゆるJーPOPの「ポップ」では、全然ない。それはおそらく、JーPOPが生まれる前に、日本の音楽人が持っていた、あるいは持とうとしていた、多様で、寛容で、真摯なものであり、英語人たちにとっては、空気のように当たり前にそこにあるものだろう。

だからこそ俺は、今回出演してくれた3組のアーティストたちに、希望を持っている。いや、SenCity側のアーティストたちにも、希望を持っている。

彼らは、希望の松明を持っている。まあ、俺がいうまでもなく、昨日の演奏で彼らはそのことを確信しているはずだ。




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