見出し画像

デス・レター(日本らしさと日本人らしさ)


ウクライナ出身の日本国籍女性が、「ミス日本」グランプリを獲ったことで、外野があーだこーだと騒いでおる。彼女は、ショート映像を見る限り、日本人として受け入れられるよう、精一杯努力しているぽいし、そもそもミスコンに出るのは、受け入れられるのが目的である。そんな健気に愚劣な意見。「純度100%のウクライナ人」ときた。はーぁ…

俺にとって「日本らしいもの」とは、諸星大二郎である。

ご存知のない諸兄に説明しておく。諸星大二郎とは、漫画家である。映画化された「妖怪ハンター」シリーズを代表とする、日本の童謡、神社仏閣をテーマにした、ホラーというかファンタジーというか、幻想的な作品ばかり生み出し続ける、極めて特異な漫画家である。

たとえばこんな感じだ。「生命の木」という短編がある。Wikipediaから抜粋引用する。
ー「はなれ」と呼ばれる、東北地方某所の隠れキリシタンの集落には、「世界開始の科の御伝え」という聖書異伝が伝わっている。それによると、太古、人間は楽園で暮らしていたが、禁断の果実を食べたことで「でうす」の怒りを買い、楽園を追われたという。このうち「あだん」と「えわ」の夫婦は知恵の木の実を食べたが、もう一人の人物「じゅすへる」は生命の木の実を食べた。そのため、「じゅすへる」とその子孫は神と同様に不死となり、地上が人間で満たされることを憂いた「でうす」は「いんへるの」を開き、「じゅすへる」の一族をそこに引き入れ、「きりんと」が来たる日まで尽きぬ苦しみを味わう呪いをかけたのだという。
これに興味を持った主人公、民俗学者稗田礼二郎は、三日前に「はなれ」の住民が何者かに殺された事件をきっかけに、地元のカトリック教会の神父と共に「はなれ」を訪れようとしていた…ー

これが俺の考える「日本らしさ」である。つまり「日本らしさ」とは、「日本という土壌でしか生まれ得ない」ということだ。以前の項で触れたVERONICA VERONICOも、これと同義で「日本らしい」と言った。

さて、俺のこの感覚を「ヘンだ」と言うのなら、もうちょっと馴染みのものを挙げてみよう。それは、カツカレーである。俺の行きつけ、「かつや」御徒町店で俺は時々これを頼んで、たまにではあるが、カツにとんかつソースをかける。ソースはカツに全て染み込むわけではない。傍流はカレールーに流れ込む。見た目汚いが、ソースとは果肉の発酵が元なのだから、混じって不味いはずがない(むしろソースはかけたほうがいい。小声で言うが、かつやのカレーは、俺にとっては、コクがいまひとつ足りない)

人間の想像力は、世の常識を、簡単に超える。人間の行動は、世の常識を、簡単に超える。そういったいちいちに、俺は驚きながら生きている。そして、そういうこともあるのだなぁと、深く頷いて、嬉しがる。

「そんなはずないだろ」「それはおかしい」「ちゃんとしろよ」こういった、他人の感受性を認めない態度を、俺は同調圧力と呼んでいる。日本人は親切だ。日本人は礼儀正しい。外国から来たミュージシャンは口々にそう言う。だが、親切だろうと礼儀が正しかろうと、心奥で、他者の感受性を多数派(幻なのだが)のそれに合わせるよう願う気持ちがある限り、俺は日本が嫌いだ。

俺は「合いの子」として日本に生まれ育った。俺はたまたま日本に生まれ育った。俺はたまたま日本から出られない。だから俺は日本でロックをやり、イベントを組んでいる。それだけだ。俺のイベントに出てくださったアーティストたち、日本が好きか否かに関わらず、日本人らしさなるものを意識していない。なぜなら彼らは(俺たちを含めて)、世界を見ているからだ。俺たちの楽器が、俺たちの音楽形式が、日本発祥でないなら、この心情は当たり前である。さらに言えば、聴いてくれる人を、日本に限定していない。「日本人らしさ」は、却って邪魔でさえある。俺はそういったロックのいちいちに、勿論、ミス日本グランプリの方の美しさにも驚き、そういうこともあるのだなぁと、深く頷いて、嬉しがるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?