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松尾匡「新しい左翼入門 - 相克の運動史は超えられるか」


最近,なんとなくですが私の中で「社会」に対する意識が変わってきたように感じます. 先日,「怒り」に関するWSがありましたが,私は個々人に関しては特に怒りが湧かないのですが,「社会」に対しては別なようです.
例えば,本来誰においてでも実現されるべきである,「自らが望むだけ子供を持ち,望むだけの教育を受けさせる」ということが困難である状況になってしまっている責任を帰結するべきなのは個々人ではなく国家,ないしそれに類する存在である「社会」だと思い始めてきたようにです.巷でよく言われる,「20歳の時に左翼でないのならば情熱が足りない」という言葉をなんとなく思い出しますね.

もちろん,「個人」という他者との境界が曖昧な存在よりも幾分か捉えやすい「社会」という概念を対象に議論した方が生産的であるという観点もあります.そもそも,「個人」と「社会」の間に明確な線引きなど存在しません.その点で,「自己責任論」は論拠が崩壊していると思いますし,なんらかの要素に苦しんでいる個人が発生してしまっている「社会」はなんらかの形で変革させられるべきだと考えます. 

 さて,本書はそのように苦しむ個人を救うため「社会」を変革しようとした人たちの歴史と,今日の我々が知るような失敗と挫折を記述した本です.「社会」を変革しようする姿勢には大きく分けて二種類あるのですが,その両方ともが先鋭化するなり腐敗するなりしてその理想を達することなく潰えてきました.酷いものになると,それこそ自らと対立する意見を持つものをこの世から抹殺し始めるという行動を取る集団もいました.先ほど引いた言葉の対となる「40歳になっても左翼なのであれば知性が足りない」という句がどうしても頭に浮かんできてしまいます.

ただ,この「社会」は,特にコロナ禍においては,「底が抜けたような」貧困といった問題が見て見ぬふりができないほどに頻繁に噴出しています.だからといって,すぐ「社会」は変革できるとも思えないし,二種類ある変革の姿勢がやがて辿る結末も知ってしまっている.私はその相反する考えの狭間にいるといった実感があります.

その狭間を抜け出そうにも,本書には「二種類の姿勢の対立を解消し発展させようとするならば”目の前の人の欲求を丁寧に汲み取り,それを地道に一般化する””多数の集団に属し個人としての核を確立する”という当たり前の道しかない」という記述しかありません.書評でも述べたとおり,学術活動においてはまさに「入門」とされるような取り組みばかりであり,何一つとして面白味のない結論です.ただ,これ以上確実な方法がないのも事実です.もしその取り組みを行い私が個々人の事情を今までより少しでも慮れるようになれば,他の最良な手法が思いつくかもしれません.社会の大多数の人間がそうなれば「社会」の状況はよりマシにはなるでしょう.もちろん,簡単なことではありませんし,ほとんどの人にとっては楽しくもないと思われるので,決して強要は行えませんが. 

 結局のところ,「社会」を変えることに限らず,自体を解決するのに快刀乱麻な手法などは存在せず,地味で地道な方法しかありません.それを明確に伝えるのが良い入門書の条件だとすれば,この本は「左翼」という個々人の事情を組み社会を変えようとする運動を少しでも志すならば,その入門としてはこれ以上なく最適でしょう.本書が世の中にもう少し出回るようになれば,何かしら「社会」に変化が起こるのではないかと思うのは僕の期待しすぎでしょうか. 

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