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【雑記】日本人の感性とか柔軟さとか

こんばんわ、kaloです。

今日は過去の「思い込み」にまつわる気づきの欠片を混ぜつつの、
最近アタマの中に置いてあった日本人の感性とかのお話を。




どちらかを選ばなくてもいいよね


昨日、ひさしぶりに自転車で外苑前を走っていて。
ちょうど外苑前の銀杏並木が黄色くなって、人がたくさん訪れていました。
寒くなったよなぁ〜。と思って、ふと思い出しました。

昔、よく「夏が好き?冬が好き?」って質問をされてたなぁ〜。って。

確かその時々で、どちらかを選んで適当に答えていたような気がしますが。
実際のところ、
もっと冬が深まっいて、肌がピリッとするくらいの冷たい空気も好きだし。真夏の青空の中、炎天下の日差しでジリジリする感じもも好きで。
どっちも好きだよね。私。って思いました。

なのに、なんで昔は「どちらか」を、選ばなきゃいけないって、
思っていた
んだろう。と。




二項対立を越えた日本人の深い感覚


これは、思い込みとは直接関係ないんですけれど。


先日、ふと思い出したのが、
10年以上前ですが、折形デザイン研究所さんの講座に出たこと。

あまりに昔すぎて、講座の内容自体はもうひとつも覚えていないのですが
当時、中沢新一さんや折口信夫さんの本なども読んでいたことがあって
日本の民俗学や風習的なことに刺さっていた時期があったのですよね。

のし袋に代表されるように、一枚の紙を「折って」、紐を「結んで」、そこに気持ちや意味が乗っていて…。それが伝統となっている日本の「折形」。

江戸時代中期に、その「折形」の技術を解説した「包結図説」という
まさに「折形」のバイブルともいえる書物があって。
当時や、その前の時代から受け継がれた「包結図説」を研究されて、
現代に伝えてくださっている山口信博さんという
尊敬する先輩デザイナーの方が書かれた「新・包結図説」という本を、
そういえば...と、先ほど本棚からみつけて開いてみたのですが。

ヤバいです(←語彙力なくて、ほんとすみません)。

その中(「包結図説」)には、前の時代から受け継いだ伝統や人々の知恵、
無意識までも詰まっている。

折形は、無形の感情に確かな形を与えるデザインの技術として、発達を遂げた。パウル・クレーが述べたように、芸術が「見えるものをそのまま再現するものではなく、見えるようにすること」(「創造についての信条告白」)だとすれば、折形は紛れもなくそのような技術の一つである。

「新・包結図説」より


レヴィ・ストロースが述べているように、神話の論理は生と死、天と地、昼と夜、宇宙と社会、男と女、人間と動物、光と闇というような二項対立を基礎的な条件として、やがてその対立をのりこえるような、原初/起源の次元を導入するという特徴を持っている。
神話がものごとのはじまりにこだわるのは、そのためである。

折形のデザインは、ちょうど神話論理が二項対立を調停し、やがて第三の視点を導入するように、天と地、極と極、表と裏を結ぶ折衷のパターンをくり返しながら、一見すると単に対立しあっているような二つの場所が、実は同じ谷折りや山折りの両端、または同じ支持体の表裏に過ぎないことを、明らかにしようとするのだ。

「新・包結図説」より


日本人は見えないものを見せようとして「形」に思いを込めていた。

光も闇も、表も裏も地続きで、「すべては一つなんだよ。」と
知っていた
し、それは折形でも表現されていた。

ーー
例えば、先に書いたのし袋もそうですが、
神社や神棚の「御幣」や、お正月飾りのしめ縄も、
縄と白紙の「折形」だったりするわけで。

子供の頃に遊んだ「折り紙」も。
千羽鶴はそこに気持ちを乗せている祈りの象徴ですし、
そうして神事に関わることだけではなく
日常の遊びの中にも、「折形」は浸透していた。

紙一枚で形をつくる。折る。贈り物を包む。結ぶ。
ということの奥には、深い意識や意味があって。
それを、私たちは昔から、今では、もはや慣習となって、
無意識にやっていたし、やっているのですよね。

つまり日常の中に「祈り」が根付いていた、とも、
いえると思うんです。



すべてを包み込む。日本人の柔軟さ


親しい人やお世話になった人に贈り物を贈るとき、私たちはそれを、紙や布で包む。
(中略)
いったい私たちはなぜ、贈り物を包むのだろうか。これは考えてみれば相当に不思議なことであると思う。

(中略)
届けられた贈り物は、その受け取り手によって開封され、ようやく包みから外に出される。包みの奥の仄暗い空間から、明るい意味の空間に現れ出ることは、単にある場所から別の場所へと、移動することではない。
包みの中に隠されているあいだ、贈り物は眼に見える空間から退却し、潜在的な空間の中で安らいでいる。貰い手はその「包まれた空間」を、丸ごと受け取るのである。
(中略)
「包装」とは、幾重にも折りたたまれた、《贈与の空間》そのものを指している。包むことはつまり、モノが収まるのにちょうどよい空間をつくりだし、その中にモノを配置することを意味している。
このとき、モノを包む技術は、いわば《贈与の空間》をつくりだす技術と等価になるだろう。モノは包み、ひらかれる包装の技術によって、眼に見える世界と、眼に見えない世界を行き来する。そうした被膜に包まれている短い時間だけは、モノは商品の流通する市場の原則から解放され、つかのまの自由を得ることができるのだ。

「新・包結図説」より


ここを読んでいたら、
わたしたちが時空をワープする。空間を移動する。とか、
そんなことが起きたとして。
それはここにあるように、私たちを包んでいた「何か」が、ひらかれる。という、そんなことに近いくらいのシンプルなことなのかも…。と、
ちょっと思いました。

ーーー
そういえば、私はもともと手紙を書くことも、それを封する時にちょっと工夫することも、ちょっとしたものを誰かに贈る時に、それを包装する。紙で包む、紐で結ぶ。という行為が異常に好きだったことを思い出しました。

断捨離をしていた頃に、メルカリのマイブームがあって。
商品が売れた時にそれを自宅にあるもので、自分なりに素敵に包装して送る。というのもすごく好きで。

だから、つい「使えそう」と思って、「紙」とか、あとは「布」とか「紐」とか「釘」とか…なぜかワクワクしちゃうんです。
何かのカタチになる前の「材料」的なものが、好きすぎるのもあって、
(昔の東急ハンズは本当にココロ踊る場所でした(笑))
捨てられないのですよね〜。と。

でもこれって、私に限らず
日本人DNA的なことなのかもって、思ったりもして...。
なので捨てられないのは、きっと私だけじゃないはず(笑)。



そして包むといえば、紙だけじゃなくて、布についても
日本では「ふろしき」や「おふさ」があるように、
いろいろなカタチのものを、
ただの四角い布で上手に「包んで」運んだりしていて。

相手に渡してしまったら、ただの布になるので、
折りたたんで胸元や帯元にしまえたりして。
実はカバンよりももっと便利に「布」を使っていたのですよね。


ーーーー

それに日本人が、ただの四角い布でなんでも上手に包む、の、
最たるものが着物なのですよね。

着物は、ながーいロール状になった反物から仕立てますよね。

それも仕立て上がりも結局、四角い形状のままで、
それを体に巻いて、真ん中で、帯という紐で結んで着るもの。

これってある意味、のし袋を着ている的な…?!
あ。いや、着物が先で、のし袋があとなのか…(笑)


ーー
それも綿や麻でつくられた着物は、寒かったら重ね着をする。
着古したら、分解して手拭いやおむつにする。
それも使い古したら、はたきや雑巾に。

現代で言う「服」という固定した「役割」だけではなく、
たくさんの使い方をしていたのです。

つまりは四角い布一枚からたくさんの展開ができる「発想」と
アタマの柔らかさを日本人は持っていたということだなぁ。
と思うのです。

たとえば、四角い箱があって、
これ物入れに使える、
あ、椅子にも使える、机にもなるよね、
あ、踏み台にも使えるね…っていう、概念を固定しない考え方。

ごはんつぶを糊にしたり、ね。
(他にも色々ありそうだけど、思い浮かばなかった)

なんというか、地頭の自由さよ。



用途を決めないことで広がる無限さ


私は、布もかなり好きで、これは蒐集癖あるかも…なんですが、
とにかく一枚布が好きで。
刺繍やプリントが施されているものから、織りの美しいもの、
なんでもないシンプルな布まで、比較的なんでも好きで。

昔は、「一枚布は何かを作るために存在するもの」っていう
こちらも今思えば謎の既成概念が自分の中にあったので、
何も作らないままお気に入りの布を買って置いておくことに、
罪悪感があったんです。

多分、布は材料であって、
それを日常で使える「何か」に作り替えないと
価値がないと思っていたんですよね。なんでだろ。

でも「ふろしき」しかり。で、逆なんですよね。
「布」であればどんなふうにも使える可能性が広がっていて、
一つの用途にしか使えないものを作るよりもずっといいじゃないか。って。
布は「布のまま」で、いいんだ!って、
そう思えるようになったのは、ここ10年くらいかもしれません。




日本人だけがスゴイ訳ではないけれど、日本人はスゴイかもね


…と、先ほどから「日本人」「日本人」書いていますが、
私、実は「すごいぞ日本人」的なフレーズが嫌いで。
日本人はすごい民族だとか、って言われるたびに、ん〜〜〜…みたいな。
ひっかかっちゃうのですよね。

なので以前記事内でちょろっと紹介をしましたが、
最近流行りのショーゲンさんのYouTubeも、
あんまりにも「日本人」「日本人」と、そこに焦点をあてて観るのって、
どうなのか???って思ってたんです。
(ショーゲンさんがどうの、というより観る側の意識の方です)

で。

私はなんで「すごいぞ日本人」的な言葉にひっかかるのか?と考えてみたら
そこに選民的な思想や「比較」みたいなものを、時折感じる時があって。
それって、神に祈っている我々は救われるけれど、それ以外は救われない。というキリスト教(かなりざっくりすぎな解釈ですが(笑))と
似た感覚??? なんというか、差別的? 優越的?なものや、
ある意味、盲信的な感覚を受け取っていたのですよね。

だから「日本人だから日本人がすごいって言ってるけど、
別に日本人以外だって全然スゴイでしょーがー。」みたいな。

はい、来ました。あまのじゃく〜(笑)。

でも、そういうの、とりあえず置いておいて(置いておくのか(笑))

ふと、これって日本人的感覚のなせる技?なのかもな〜...。って
最近思ったのは、さとうみつろうさんが一生懸命、今動いてくれていて、
みんなに伝えて、広げようとしてくれている、ドリーム燃料。

ちなみに、エネルギーの分野に踏み込むって…みつろうさん、本当にすごい。イノチ張っているって思っちゃいますよ。(多分)

昔は、日本でも、フリーエネルギーを開発したけど
電車のホームから突き飛ばされて、殺されそうになった、とか、ですね。
(これは実際にご本人から直接話を聞いた友人から、聞いてました)
実際、海外では殺されたりしてるとか〜…。そうした物騒な話を、
ちょくちょく耳にしていましたからね〜。

っていうのも、置いておいてー。(…って、また置いておきますが)
(こういうことが綿々とあったから、だからこそスゴイことなんですよ。)


水(H2O)と空気(CO2/O2/N2…とか)で、
石油(C8H18)つくれるんじゃーーん。っていう、発想って、
何か、先に書いてきた既成概念とかとっぱらって、
シンプルな素材で、実はいろんなことできちゃうよね〜、的な
ごはんつぶを糊にするっていうような、
(いやそんな簡単なことじゃないと思いますけれど、もちろんね)
なんか日本人っぽいなぁ。と思ったというか。

それと、確か数年前にバシャールが
「この先、日本人がフリーエネルギーを開発する」って
言っていたと思うんです。
わぁ、その世界線、キタなぁ〜。って、思いました。




と。
バラバラとまとまりなかったですが、
今日はそんな話でしたー。
なんか、この記事書いてて、1日かかっちゃった。


※トップ画像は「新・包結図説」の中の写真より

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