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ピーマンボーイ

 学校からの帰り道、ぼくはいつものようにM博士の研究所に寄った。規定の通学路を少しずれ、人目のつきにくい寂れた田舎道のような所を通った場所に博士の研究所は存在している。そこは大抵の人が廃墟だと思い込むような外観で、博士はそこへ勝手に自身の科学道具を持ち込み、日夜荒唐無稽な研究と発明に励んでいる。具体的に何をやっているのかぼくには全くわからなかったが、博士の発明品はどういうわけか現代の科学技術を超越した革新的なものが多かったから、現代の極めてストレスフルな中学生活を送るぼくにとって博士の発明した道具による刺激は必要不可欠だった。

 研究所に着くと、入り口は開放されていた。そもそもボロボロの廃墟のような建造物であるからして、入り口というものは存在せず、四方に中途半端に開いた穴が入り口であり出口だった。博士はいつも他人に見られないよう真っ黒なベールを穴に被せているのだが、今日はたまたまそのベールも被さっておらず、研究所に近寄るとすぐ博士の姿を視認することが出来た。M博士は直径1メートルほどの桶のような灰色の容器に謎の薄緑の液体をスポイトで注入しているところだった。

「やあ博士」

「おお、またお前さんかピーマンボーイ」

 博士はこちらに振り向き、パーマがかった白髪のウィッグを揺らしながら言った。博士は恐らくもういい歳なのだろうが、未だにどこか若年層特有の活力に満ち溢れているように見えた。

「今ちょうどお前さんがピーマンを食べられるようになるドリンクを製造しとったところだ、ピーマンボーイ」

「そんな余計なことはしなくていいよ。そしてもうその呼び方はやめてくれって言っただろ」

 博士はぼくがピーマンを食べられないということを知ってからというものの、ぼくのことをピーマンボーイと呼んで止まない。ぼくの本当の名前は最初に会った時言ったはずなのに、何故か博士は一回もその名前でぼくのことを呼んでくれなかった。それに博士は自らを「M」と名乗っただけで、博士自身の本名も一向に教えてくれなかった。

「ねえ博士、それはそうと何か次の試作品をおくれよ。この間もらった『弾けた瞬間に家の中の害虫が一匹駆除される魔法の風船ガム』が底をついちゃったんだ」

「なに?では今お前さんの家はさぞかし嫌な虫が沸いて不衛生なことになっとるだろうな。悪いがもうあのガムは私がここの蛆虫共を駆除するためにもう使い切ってしまったぞ。嗚呼、何回この顔面の前であの小さな風船を破裂させたことか!やはり顎の筋肉を発達させる薬を先に製造しておかなければならなかったかもしれんな」

「もういいんだ博士、ぼくもいちいち風船を膨らませるのに辟易してちゃんと家の中を綿密に掃除するようになったんだ。おかげで今は完璧にクリーンな状態さ。前に比べたら嫌な虫も出なくなったさ、おかげさまでね」

「ならよかろう。で、なぜ他の発明品が必要なのだ?」

「別にどうしても必要ってわけじゃないさ。前にも言ったかもしれないけど、ただ単に飽き飽きしてるんだ、この平凡で退屈な日常にね。ぼくは退屈なのが一番困るんだ。どうしても生きてるって心地がしないんだよ、なんだかね」

ぼくがそう言うと、博士はおもむろに顔をしかめた。

「う~む、それはいかんな。何がいかんってお前さん、私の道具に頼ろうとしてるのがいかん。男なら自分自身の力量で人生を開拓せにゃいかん。私は研鑽を積み、科学の分野を飽きるほどに追究した。そして私は今こうやって発明という行為を最大限にエンジョイしている。飽きるほど何かを追究したその先にこそ、真の人生というものが存在する、そうは思わんかねピーマンボーイ。お前さんが人生に飽きたというのはまだ何も始めていないからに他ならん。何か熱中出来るものを見つけられたら、きっと今の数倍人生が楽しく明るいものになるんじゃないのかね?」

「ああ、博士の言いたいことはわかるよ。でもやっぱりぼくは退屈なんだ。何かをしようと思ってもすぐに飽きちゃうし、やる気というかモチベーションみたいなものが全然持続しないんだ。というのもぼくは人間としてのアビリティがすごく低いんだよ。何をやってもあんまり上手くいかないし、これといった成功体験もない。だから経験則的に何かをやろうとしてもどんどん気持ちが後ろ向きになってきちゃうんだ。これはもうどうしようもないことなんだよ。無理して希望を持って何かをやったところで、所詮それは無理している状態に過ぎないんだ。だから僕は博士の発明品という道具を介して、未知の世界へ足を踏み入れたいんだよ、わかってくれるだろ?」

「うーむ、そりゃまあ、そういう精神状況になる時も私だってあったさ。ただ、その虚無めいた世界から脱け出すにはどうしても私の発明品の力が必要なのかね?他に何か方法があると私は思うのだがね」

「……ないよ。少なくとも今の僕には何も思いつかない。とにかくこの現状を変えるには博士の発明品は絶好の材料なんだ。さあ、わかったら早く凡庸な人生を変えるような刺激のある試作品をおくれよ」

「…………」

「どうしたんだい?」

「いや……うむ……これはまだ未完成なんだがな……」

博士は思い詰めた表情でまた黙り込んだ。

「何か良い発明品があるのかい?」

「いいや、やはりお前さんに貸すわけにはいかん。そこに置いてある『全国のスコティッシュホールドのかわいい仕草が間断なく生中継される激癒やしテレビ』でも持って帰るがいい、どうやらお前さんは何やら精神的に疲れてるようだからな」

「そんなの要らないや。もっと刺激的なヤツを頼むよ、何か貸してくれるまで帰らないぞ」

「はぁ、やれやれ。そんなに言うならわかった、だがどうなっても知らんぞ。これから先何が起ころうとそれはお前さんの責任ということにさせてもらうからな」

「それで構わないよ」

それで構わなかった。ぼくはようやくこの無味乾燥で倦怠感の渦巻く人生から脱却出来ると思うと、ささやかな高揚感をおぼえた。

 

 博士は何やら思い詰めた表情で廃墟の奥の方へ歩いて行った。どうやら廃墟の中には隠された秘密の小部屋のような場所があるらしかった。博士は数分すると、手に小さな黒い塊を提げて戻ってきた。近くに来てよく見ると、それは少し大きめのキャップのようだった。

「もしかしてその帽子が?」

「ああ、そうだ。このキャップを被り、頭の中である人間のことを強く思い浮かべると、短い時間だけではあるがその人間の脳内を覗くことが出来る」

「脳内を覗けるだって?」

「うむ。簡単に言えば心の中が読めるのだ。相手の脳と自分の脳をシンクロさせるようにしてな。特殊なマイクロチップがこのキャップの中に埋め込まれとる。これはもともと私が犯罪者の思想を研究し、世に蔓延る数多の種類の犯罪の動機を解明しようという目的で製造しているものだ。まだ完成途中ではあるが、これはお前さんにとってはある意味刺激的なものだろう」

「へえ、なんだか面白そうだ。そいつを貸してくれるのかい?」

「ああ、ただし条件がある」

「なんだい?」

「貸してやる期間は3日間だ。そして3日後までにピーマンが食べられるようになっていること、これが条件だ」

「なんだいそりゃ。3日間だけ貸してくれないなんてケチじゃないか。それにピーマンは関係ない気がするよ」

「つべこべ言うのではないピーマンボーイ。私に一生ピーマンボーイと呼ばれるのは嫌だろう。3日間という期間はだな、刺激が強いこの発明品を一般的な人間が平常の精神状態で使用できる最長の時間だ。本当は3日でも長すぎるくらいではあるのだ」

「ふーん、わかったよ。そういうことならしょうがない。ピーマンはともかくね」

「何を言っとる、ピーマンが食べられるようになることが一番重要なのだ。わかったかね」

「うーん、いまいちわからないや。とりあえずそのキャップを借りるよ。3日後には必ず返す、約束だ」

「約束だぞ、ピーマンボーイ。ピーマン嫌いを必ずや克服するのだぞ。3日後に会うのを楽しみにしとる」

 ぼくはそれから博士と他愛もない世間話を交わし、帰路についた。ぼくの手には博士から借りた黒いキャップが強く握りしめられていた。内心今すぐにでもキャップを被り、本当に他人の頭の中が読めるのかを試してみたかったが、それをするにはぼくの周りにはあまりにも人がいなかった。途中で酒に酔っ払ったホームレスのようなおじさんに遭遇したが、道端に横になってグウグウいびきをかいていたので素通りした。ぼくは家に帰り、ドアのカギを開けた。両親は所用で不在だった。仮に両親が家にいたとしても、屋内でキャップを被っていると不審がられるだろうから、ぼくはキャップを使うのは学校への登下校中だけにすると決めた。

 そして、次の朝が来た。

 昨夜はあまり眠れなかった。ぼくはいつものように身支度をし、スクールバッグの中に例の黒いキャップを忍ばせた。家を出て、通学路を一人でぽつぽつと歩く。ぼくは誰にも見られていないことを確認してから、バッグからキャップをこっそりと取り出した。そして、キャップのつばで目が隠れるようになるまで深く被る。一見すると不審者のように思われなくもないが、スクールバッグを持っているので問題ないだろう。視界が半分以上制限されたぼくの目は自然と通学路を歩くSさんを探していた。Sさんは同じクラスの女子で、スラリとした身体に端正な顔立ちをしており、とても成績が優秀だった。性格も優しく、それでいてしっかりとした自分の意志を持っていた。ぼくはそんなSさんのことがかなり気になっていた。正直、博士のくれたこの謎のキャップでSさん以外の頭の中を読もうという気は起きなかった。

 Sさんはいつもぼくの通学路の途中にあるやや大きい豪奢な家から出てきて、ぼくの前を歩いていく。Sさんは後ろからぼくが追うような形で歩いてきているのに気が付いているのかはわからない。学校でもぼくとは全く話さないし、おそらくぼくが後からつけてきていることは知らないのだろう。傍から見ればストーカーのように見えなくもないが、ただ2人の人間が時間差で通学路を歩行しているだけであり、そこには何の犯罪性もないはずだ、ということでぼくは毎回自分の尾行行為を正当化している。

 腕時計を見ると8時10分、そろそろSさんが自宅から出てくる頃だ。ぼくはいつもより歩くスピードを緩めて、Sさんの自宅をかなり後方から確認する。

 前方に目をやるとちょうどSさんが家から出てくるところだった。

 よし、ようやくこのキャップの出番だ。ぼくは博士の言葉を思い出す。「このキャップを被り、頭の中である人間のことを強く思い浮かべると、短い時間だけではあるがその人間の脳内を覗くことが出来る」―――――。ぼくはSさんの姿を前方に見ながら、その顔、身体の全容を出来る限り鮮明に脳内に思い浮かべた。Sさんは学校に向かう途中、どんなことを考えているのだろうか。他の有象無象と同じように、ああ学校に行きたくない、すぐに帰ってテレビを見たいなどと思っているのか、それとも――。ぼくは自分が知らないSさんの秘密を知ることが出来る可能性に少しばかり胸が熱くなった。歩調の速いSさんは、ぼくがゆっくりと歩きながらSさんのことを考えている間にもどんどん遠ざかっていく。ぼくは脳に全意識を集中した。すると、少しばかりして突然頭に強い衝撃が走った。誰かに頬を平手打ちされたような痛みを感じる。それと共に、視界がぼんやり霞み、全く別のぼんやりした薄緑色の陰影が見えてきた。もしやこれがSさんの脳内なのだろうか――。しばらくすると、ぼんやりとした陰影の輪郭が徐々にくっきりと見えてきた。これは、どうやらテーブルの上に置かれた皿に緑色と茶色の食べ物が盛り付けられている映像のようだ。次第に映像が鮮明になっていく。そして、それが何かはっきりわかった瞬間、ぼくは拍子抜けした。これはただのピーマンの肉詰めだ。それ以上でもそれ以下でもない。Sさんは登校中にピーマンの肉詰めのことを考えているらしかった。よりにもよって、ぼくの嫌いな食べ物のことを考えているとは。妙な因果関係にぼくは苦笑した。それから3分間ほど、ぼくの眼前にはずっとピーマンの肉詰めが音もなくただ鎮座していた。Sさんは朝ご飯を食べてこなかったから空腹なのだろうか。それとも無類のピーマン好きなのだろうか。もうしばらく待ってみても、ぼくの脳内には一向にピーマンの肉詰めの映像が去来するのみだった。ほどなくして、また頭に強い痛みと衝撃が走った。ぼくは気付くと、地面にしゃがみこんで目をつぶっていた。「大丈夫かい?」目を開けると、通りすがりだと思われる老婆が心配そうにぼくの顔を覗き込んでいる。「あ、大丈夫です、ちょっとお腹痛かっただけでもう治ったんで」ぼくはそう言うとキャップを深く被り直し、そそくさと歩き出した。後ろから「ボク、無理するこたないよ」と老婆の声が聞こえたので、振り返って笑顔で会釈した。まいったものだ。ぼくは他人の脳内を覗き見るために無意識にしゃがみこみ、見知らぬ老婆に要らぬ心配をかけてしまったらしい。Sさんの姿はとっくに見えなくなっていた。ぼくは肩透かしを喰らったような気持ちで、学校へ向かった。学校内ではキャップを被る訳にはいかないし、Sさんは手芸部の活動がありぼくは帰宅部なのでこのキャップをSさんに使えるのは朝の登校時間中しかない。ぼくは人目につかない道に入り込み、キャップを脱ぐと、元のように校門へ向かった。明日はきっと、もっとSさんの感情を掴み取ることが出来るような心象風景を拝見することが出来るだろう。

 しかし、そのようなぼくの予想は大きく外れてしまった。次の日の朝も、同じように登校し、途中でキャップを被り、Sさんを観測すると共に彼女の姿を脳内に強く思い浮かべた。すると、またもや緑と茶色のぼんやりとした陰影がぼくの視界に浮かんできた。まさか、またピーマンの肉詰めのことを考えているのだろうか?朝にピーマンのことを考えながら登校するのが彼女のルーティーンなのだろうか。だとしたらしょうがないが、流石に2日連続というのは心がもどかしい。陰影がくっきりとしてくると、今度はそれがピーマンの肉詰めではなく青椒肉絲であることが判明した。なかなかどうして、ピーマンは彼女を虜にして離さないようだ。ぼくは落胆し、キャップを脱いだ。今回は慣れてきたのか、地面にしゃがみこんではおらず、直立不動の状態で道に突っ立っていたらしかった。幸い、周囲に人はいなかった。ぼくはとぼとぼと学校へ向かった。

 その次の朝。今日でもうこのキャップを博士に返さなければならない。今度こそSさんがピーマンのこと以外に何を考えているのかが知りたかった。昨日と一昨日のように、ぼくは深々とキャップを被る。Sさんの姿を登校中に確認すると、彼女の容姿を強く念じる。次第に視界がぼやけ、別の情景が浮かんでくる。徐々に映像が鮮明さを帯びてくる。これは、なんだ――。今までより色合いの強い茶色と、緑、赤、紫――。やはりまたピーマンに関連した何かの料理なのだろうか。少ししてぼくは、ある異変に気が付いた。カレーの匂いがする。しばらくして輪郭がくっきりしてくると、それがどうやらピーマンの分量がやや多めのキーマカレーであるらしいことがわかった。Sさんは3日連続でピーマンに関連した料理のことを考えていたのだ。なんだかぼくは少し怖くなってしまった。いくら偶然でも3日連続でぼくが嫌いなピーマンのことを考えるだろうか。博士がこのキャップに何か仕組んだのではないだろうか。それともSさんはすべてを知っていて、わざとピーマンのことを考えるようにしていたのだろうか。ぼくはだんだん疑心暗鬼になり、結局考えるのが面倒臭くなってしまった。平常時の意識を取り戻すと、ぼくはキャップをバッグの中にしまい、学校へ向かった。朝ご飯を食べた後だったにも関わらず、ついさっき嗅いだキーマカレーの匂いによってぼくは少しお腹が空いてきてしまっていた。今ならピーマンが入ったキーマカレーを食べることが出来るかもしれない。そしてそれが、Sさんとぼくを繋げる何かのキーになり得るかもしれない。そんな淡い期待も儚く、いつも通りの一日が過ぎ、ぼくは学校からの帰りにキャップを返却するため博士の研究所へ寄った。

 研究所に着くと、その廃墟のような建造物に開いた穴から博士がボロボロの木製椅子に座ってうたた寝をしているのが見えた。

 「博士、博士」

ぼくは博士のところまで近寄り、博士の身体をさすった。博士は熟睡しているのか、なかなか目を覚まさない。

「博士、このキャップを返すよ。ほとんど刺激的なものは得られなかったけどさ」

そう言いながらぼくはあることを思いついた。そうだ、せっかくだし最後に博士の頭の中を覗いてみよう。何か変な夢を見ているのかもしれない。面白そうだ。流石にピーマンの夢を見ている可能性は薄いだろう。ぼくはバッグからキャップを取り出した。そしてそれを深く被ると、目の前にいる博士の姿を強く念じた。すると突然、ここ3日間でSさんに対してやった時とは比べ物にならないぐらいの衝撃が全身に駆け巡った。と同時に、激しい痛みが全身を襲う。ぼくはたまらず苦痛に顔をゆがめた。痛い。全身を巨漢に全力で殴打されているようだ。ぼくはあまりの痛みに徐々に意識を失っていき、次第に底の無い深い闇の中へと落ちていった。

目を覚ましてゆっくりと瞼を開くと、真っ白な天井が見えた。どうやらぼくは病院の一室のベッドに寝かされているらしかった。

「おっ、起きた!起きたよ先生!琥太郎!琥太郎!聞こえる?」

「おお、無事か!?」

横を見ると、丸椅子に座った20代前半ぐらいの女性と、白髪交じりの髪をした初老の男性が心配そうにぼくの顔を覗き込んでいた。

「うー……ん」

ぼくはまばたきを繰り返し、ぼやけた視界をはっきりさせる。しばらくして、ようやくそれが姉の早苗とM博士であることがわかった。見慣れているはずの姉の顔は、泣き腫らした目の所為で少しひしゃげて見えた。

「ここは一体……?」

「ああ、琥太郎、もしかして何があったか覚えてない?」

「いや……少し不思議な夢を見たけど、それ以前のことが何も思い出せないな」

「そっか……じゃあ今から私が説明することを落ち着いて聞いて。あんたは……」

そう言うと姉はぼくの身に何が起こったかを滔々と語りだした。

 まず、ぼくは身に覚えが無いが投身自殺を図ったらしかった。家の2階から飛び降りたらしい。嫌な音を聞きつけた姉がすぐさま確認し、急いで救急車を呼んでぼくは一命を取り留めたものの、意識がなく昏睡状態で入院することとなった。両親と姉は突然のことでショックを受け、数週間はまともに頭が働かなかった。それまでのぼくに、特に異常なところは見受けられなかったからだ。やがて姉はぼくの部屋の引き出しから、一冊のノートを発見する。そこにはこう書かれていた。

『もう無理だ。これ以上自分自身の手で何かを選択出来ないのなら、死ぬしかない。それしか自分で選べる道が残されていないのだから。毎日のように出されるピーマンがその証拠だ。この家庭におけるピーマンは親による子への束縛、鎖の象徴なのだ。子供の人生を矯正させようという意志、子どもを支配しようとする強制力をピーマンは持っている。私は、鎖からの解放として死を選ぶのだ。』

 姉によれば、ぼくは昔からピーマンが嫌いで、両親、特に母はそんなぼくの好き嫌いをなくそうとピーマンを使った料理ばかり作っていたらしい。姉も実はピーマンがそこまで好きではなかったが、口うるさい母に折れて我慢しながらピーマンを食べていた。しかし弟のぼくはなかなか姉のように我慢することが出来ず、ピーマンを無理矢理食べさせられては毎回トイレで吐いていた。それを見た母はあろうことか激昂し、余計にぼくに対してピーマンを食べさせようと干渉してきた。「もう赤ん坊じゃないんだからピーマンぐらいちゃんと食べられなくてどうするのよ」と、毎回苛々しながら説教を垂れてきた。もともとああしなさいこうしなさいと要望の多い母親だったので、ピーマンを食べさせることに限らず、日常の些細なことまで事細かに指示してきた。ぼくは全て親の言いなりになるのも癪なので無視していると、ぼくの部屋まで押しかけてきて長々と説教してきたので、仕方なく母の言う通りにことを進めるしかなかった。姉はそんなぼくの姿を見て、あまりにも親が過干渉だと子が自分でものごとを考えて生きていく能力が失われていってしまうのではないかと危惧し、そう母に言ったのだが母は元来自分の思い通りにならないのをとことん嫌う性格なので、聞く耳を持たなかった。

 姉はそうした背景が、ぼくを自殺未遂に至らしめたのであり、ぼくが親の支配下ではなく、自分自身の手で起こせる行動としての死を選び取ったのではないかと推測した。ある意味、死はぼくにとって自由への架橋だったのかもしれないのだ。

 そして姉は、昏睡状態のぼくが目が覚めた時の精神衛生のことを心配し、M博士に相談した。M博士は夢の中だけではなく現実に存在するファンタジーでアメイジングな存在だった。M博士は、最新の科学と心理学に長けていたから、迷うことなくぼくにある夢を見させる装置を使うことを姉に勧めた。それは、過去のトラウマや嫌なものを夢を見ることによって帳消しにし、良好な精神状態で人生を再開出来るようにするというものだった。姉は半信半疑ながらも、今までの博士の発明品の精密さ、そして博士の人に対する思慮深さを知っていたからその提案を受け入れることにした。かくして、ぼくは意中の女子がピーマンのことを想う夢を見た訳だ。

「どうだ琥太郎、今の気持ちは」

姉の話を一通り聞き終わったぼくに、博士が尋ねた。

「うん、まあまあかな。良くも悪くもない。全身がかなり痛むけど」

「そりゃそうさ、2階から地面に落ちたんだからな。生きているだけでも奇跡さ」

「そうか……そうだな、ぼくは……一体どうしたんだ、自殺を図ったなんて……実感が湧かないよ」

「琥太郎、洗いざらい話しておいてなんだけど、もうそのことは忘れなさい。はっきり覚えてないことを無理に思い出したって仕方ないわ。綺麗さっぱり忘れて新しい人生をスタートさせなきゃ」

「うん……まあ、それもそうかもしれない」

「うむ。そうだな。早苗の言う通りさ。ところでどうだ琥太郎、腹は空いてないか?」

「そう言われてみると、かなり空いてるかもしれない。ここ最近何も食べた記憶がないよ。見た限りぼくの身体に繋がれてるこの点滴で栄養を補給してたみたいだしね」

「そうよ。そろそろ味のあるものが食べたいよね」

「ちょっと待っとれ」

博士はそういうと病室から出ていき、3分ほどして何かを乗せた皿を持ちながら戻ってきた。

「ほれ琥太郎、試しにこれを食べてみい」

博士がそう言ってぼくの前に差し出した皿の上には、細切りにされたピーマンが盛り付けられていた。

 だが不思議と、ぼくはそれを見ても何も感じなかった。姉から詳しい話を聞いた後でピーマンを出されても、普通ならば生じるであろう驚き、戸惑い、不安などはなかった。

「琥太郎よ、ピーマンを目の前にして何か思うことはあるか?」

博士は大事な実験結果を確かめるような慎重な面持ちでぼくに言った。

「いや、特にないよ。不思議と何の感慨もない。ただぼくの目の前にピーマンがあるという事実だけしかぼくにはわからないよ」

そう言って、ぼくはピーマンを手で掴み取り、口に運び、ゆっくりと咀嚼した。

姉と博士が真剣な面持ちでぼくの顔を見守り、ぼくの言葉を待った。

 5分ほどが経過しただろうか。ぼくは皿に盛りつけてあったピーマンを全て食べ終えると、一呼吸おいてぼそりと呟いた。

「やっぱり苦いや。」

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