災害が起きたときに,野外生物学者ができること.

 犠牲になられた貴い方々のご冥福を心からお祈り致します.また,被害に遭われた方々へのお見舞いと将来のお幸せを,心より祈念させていただきます.

 東日本大震災から10年,常日頃,蓋をして生きてきた自分の気持ちが少し開いた.蓋をする? 東京で暮らすということはそういうことなのだ.2011年3月11日 仙台の大学の研究室で原稿を書いていた。大きな揺れが来て,上から本が落ちて,僕の手がマックの画面に挟まれた.大学の噴水がゆすったバケツのように揺れていた。長い揺れだった.

 東京で,「東日本大震災は大変だったね」と人が話すのを聞く.「テレビはすごい映像をながした」と人は言う.しかし,仙台にいた僕たちは,電気もなくて,あるのはラジオだけだった.東北の3月は凍てつく寒さだ.その中,毛布にくるまって,気仙沼ではタンクから油が漏れて一面燃えているといっていったラジオのニュースで,心配するしかなかった.

 僕たちは,野外生物学者としてこれまで過酷な自然の中に身をおき,鍛えてきた.そして,人間の損得とはかけ離れた自然の喜びを伝えるという極めて人にうらやましがられる生活も続けてきた.好き勝手やってきた側としては,そのスキルを役立てられないかとおもったわけだ.被災地のその当時の現状に、過酷な自然にも耐えられる力を持っている野外生物学者が立ち上がるべきだと思った.自然の中で生きる術を知っている我々が行動をすべきだと思ったのである.

 沖縄の離島から,ガソリンが入る携行缶を,北陸におくってもらって,そこでガソリンを詰めて,小さな車に,ガソリン満タン携行缶が,たっぷり詰まった後部座席をガタガタ揺らして気仙沼と南三陸に走った.

 携行缶ごと配り終えてから,たどり着いた先は,猛者ばかり集まるキャンプだった.そりゃあ,そういう連絡網であつまるわけだ.「どこどこの廃校にこい.道は自分で調べろ.来られないやつは来なくても良い」.それを聞いてきたのだから.

 話して見ると,エベレストに何回登ったとか,僻地の沢登りをやっているとか,海をカヌーでどこまで渡ったとか,そんなのばっかりがあつまったのだ.凍てつく廃校の体育館で寝るなど慣れた連中だった.今でも仲良くしているが,僕のスキルなどたいしたことはない.

 津波で道はコンクリートごとはがされている.瓦礫で道などない.そんな場所を車ではしりまわって自分たちで地図をつくり,非難している人を探して物資を渡す.ここの話は,またいずれ.

 印象的だったのは,大学の授業にもどってからだ.ご家庭から承諾書をもらって,学生を連れてこのキャンプに訪れた.釘を踏み抜かないように鉄板を入れた長靴.顔にはガード,ヘルメット.おもたい革の手袋.その格好で,瓦礫に埋もれているトンネルから,津波にながされた思い出の品物を集めて洗った.

 さて,仙台の大学の学生達は,前向きに力強く,何日も作業を続けた.僕が連れて行った後に,自分から何度も手伝いに訪れるものもいた.彼らは強かった.けして,くじけず自らすすんで作業をつづけた.

 キャンプの代表者は「災害教育」という言葉で,「ボランティアに来た者が,被災地から大きな気づきと学びをすること」と定義した.「がんばれ東北」といって来たボランティアは,「ありがとう東北」と言って帰って行った.

 同じ頃,「夜と霧」を紹介された.ナチスの収容所をつづった本は,それまで手に取ろうとはおもわなかった.しかし.薦められて読んでみると,死と隣り合わせの収容所に,この東北の多くの痛ましい犠牲が払われた被災地の廃校の体育館で寝袋でねる僕には,何か共感のようなものが感じられた.悲しみと生きることが背中合わせになっているという感じと言ったら良いだろうか.

 そうして,数ヶ月が過ぎて,訪れた暑い夏.ボランティアでがんばった学生達をねぎらう気持ちで.沖縄にでかけた.那覇からフェリーに乗って,とある離島に向かった船の上.学生達は,本当に嬉しそうだった.はしゃいでいた.連れてきて良かったと思った.

 離島について荷物を置いた.旅費をケチるために,泊めてもらう代わりに.被災地の事を話してくれという報告会が催されることになっていた.離島の人たちがあつまって,東日本大震災の現状を聞くことも必要だということらしい.

 しかし,会場に案内されて,僕の心は凍てついた.津波被災地の写真が壁一面に貼られていたのである.

 まずいとおもったが,既に遅かった.学生は号泣を始めていた.つい,数日前,学生たちと僕がボランティアをしていた津波被災地なのに.その景色をみて,みんな心が凍り付いたのだ.数ヶ月,彼らも僕も,心を張り詰めて頑張ってきたのだ.彼らは作業中でも明るく前向きだった.

 しかし.沖縄の青い空と海に癒されて,その緊張を解き放したその時に,自分たちがそれまでいた場所の情景を受け入れることが出来なかった.

 僕らは知らないうちに人を傷つけて生きているとおもう.離島の主催者は,慌てて写真を全部はがした.仙台から来た学生たちもなぜ自分たちが泣かなければならなかったのか.そのことを受け入れるのに,みんなしばらく時間がかかった.なぜ泣いてしまったのかとお互い聞くこともできなかった.

 宿代をケチったばかりに,2階のベランダに,満点の星空をみながら,ごろ寝することになった.号泣したり最後はごろ寝だったり.さんざんな離島生活になってしまったが,今でもときどきSNSで連絡が来る.みんな教員になり,生徒たちと偉そうにクラス担任の生活を送っている.あの経験が,どこかに,いかされていたらよいのだが. 

 野外生物学者として鍛えてきた,と意気込んでみたが,学生の涙は救えなかった.現場にいかなければ解らない.その場に立ってみて,初めて人の気持ちがわかる.

 煩わしい人間社会にいるよりも,僕は森の中に身を置くことが,自分にはふさわしいとおもった.いつかまた,災害現場にいくのだろうか.どれだけ現場で,僕が役に立ったのかちっとも解らない.しかしながら,彼の地に暮らす友人達は,今でも連絡を取り合っている仲間として,かけがえのないものとなった.

 今は,絶滅に瀕している動物を救うために,遠く離れたブータンの若い研究者とやり取りする毎日だ.タイにも,マレーシアのことも心配だ.僕に出来る事は,ムシや動物を向き合うこと.そのほうが社会にとって,僕が少しは役に立つかも知れない.

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