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【映画批評】福田村事件【虐殺】

俺が今の仕事でまだ新人(15年ぐらい前である)だったころ、100歳近い老婆を担当した。その女性は関東大震災の日のことをよく記憶していた。もっとも子供としての目線のみではあるが。

「朝鮮人を殺すんだ」と竹やり等で武装した男達が集合する一コマを覚えていた。

また別の老婆は、こちらも90超えた寝たきりの婆さんだったが、病の縁で俺に色々なことを語って聞かせてくれたものだが、北海道で終戦当時にやはり武装した大人達が集まって、朝鮮人を寄ってたかって殺していたというのだ。その時の朝鮮人の泣き叫ぶ声、恨みがましい怒声が恐怖の感情と結びつき、これまた末期に伏せる老婆でさえ想起できるほどの鮮明な記憶を残した。

「北朝鮮がミサイルを撃つのは当たり前だと思う。日本人はあんな酷いことをしたんだもの」そう言って話を結ぶのがお決まりのテーゼであった。

「福田村事件」という映画を観たんだが、関東大震災当時に流言・飛語に踊らされて朝鮮人をたくさんたくさん殺した者たちがいた。これは拉致問題やジャニーズなどと並ぶ「みんな知ってるんだけど公共の場では敢えて口に出さない、黙ってる」という謎の集団心理の代表例として歴史に刻まれるべきものである。

とはいえ、謎に包まれていることが多すぎて、極右主義者からすれば虐殺自体がでっちあげの嘘である、捏造だとのことである。しかし、俺はネットで顔も見せず喚く嘘吐きどもより自分が会って話した人々を信じたいと思う。虐殺が起こったのは確実である。

ただ、流言・飛語という言葉が必ずセットになるように、このポグロムは完全なる民営化された虐殺。蒙昧なる大衆の暴走行為として語られる場合が圧倒的だ。自分もそうなんだろうと思っていた。しかし、時は1923年である。日本ではシベリア出兵が大失敗に終わりかりそめの平和が訪れた空白の期間である。わずか8年後には関東軍の謀略により満州事変が引き起こされる時期だ。つうか、シベリアで心と体に傷を負った復員兵が国内ではちきれんばかりにひしめいていた。反共と朝鮮人、中国人、ロシア人への敵意と怨嗟と憎悪が蠢きその負のエネルギーが行き場をなくしていたころだ。

シベリア出兵では、レーニン率いる革命政権を亡き者にしようと国際社会が一致団結してシベリアへ攻め込み、その土地で暮らす人々に恐ろしい被害をもたらした。日本の歴史が最も忘れたがってる長期にわたる戦争だ。日本は長年の宿敵であるロシアと決着をつける意味もあったし、満州の権益を確固とし、より広げることを目論んでいた。そして、同時に反政府活動が活発に起こる朝鮮半島の完全なる支配を目論み、どさくさまぎれに反抗的な朝鮮人に徹底したテロを行い、血と暴力とによって黙らせることに腐心した時期でもあった。

当時のウラジオ派遣軍は赤軍ゲリラと中国人・朝鮮人ゲリラを明確に攻撃対象とし、朝鮮人ゲリラが隠れ潜む村や集落を徹底して掃蕩し、そのために中国側に越境進軍することさえあった。朝鮮半島では反日活動が活発化しており、官憲の摘発を恐れた朝鮮人は北へ逃れ、赤軍に参加したりゲリラとなったりした。見分けなどつかないので朝鮮人は出会ったらみんな殺すのが日本軍の暗黙知であった。女でも子供でも野菜を切るかのように斬りさばいて殺した。これらは松尾勝造の「シベリア出征日記」でも書かれているごく普通の一般常識である。捏造もクソもない。検閲を逃れたいち従卒の赤裸々なる従軍日記だ。悪びれることもなく、敵を殺すこと、戦場で人を殺すことがどういうことなのか描かれている。1つの村を皆殺しにする高揚感が一晩もたてば単なる感傷に化けて終わりとなる描写などは文学そのもの。戦場で人間性を失うってどういうものなのか、ナチュラルにそっけなく描かれている。是非読んでもらいたい。

さて、そのような時代背景がある。つい一昨年まで戦争していた敵性民族が、国内にわんさといるんだから差別されないわけないし、もういつ襲ってくるかもわからないから怖い。恐怖は伝染しあいつらいなくなっちゃえばいいのに、と民は簡単にそう思ったことだろう。

そこで今日の話の核心はここからなんだが、この映画ではこの朝鮮人の虐殺を政府謹製のジェノサイドであったことを告発しているのだ。マスコミ各社の首根っこをつかんで流言飛語を操ったのは内務省であり、町に出て行ってわざわざデマを広げる工作員は町の刑事である。川べりで数珠つなぎに手をつながせた朝鮮人を撃ち殺すのは機関銃である(民衆が機関銃持ってるわけねーからな)。

また、朝鮮人だけなくプロレタリア文学作家などの社会主義者も裁判なしで銃殺刑。これもやってるのは所轄の刑事である。もちろん、自警団を組織させたり地元警察やマスコミを操っているのは内務省であることが示唆されているし、不逞鮮人に注意せよ、なんて立て看板や新聞の煽り文句を書かせているのは内務省の役人であろう。それを専門の仕事とした特務機関もあったかもしれない。なにしろ日本の特務機関は日露戦争の頃に産声を上げ、シベリア戦争で連度を練り上げ数々の経験を積み、その十年後にはコミンテルンと渡り合う程度の仕事は普通にしていたのだから。

ナチス親衛隊の保安部及び保安警察、ドイツ国防軍総司令部が東欧でポグロムを引き起こすその20年も前に、全く同じことを日本人がしてたって思うとめちゃくちゃ怖くないすか?

政府主導であったともしも証明されたら、これは確実にホロコースト、アルメニア人大虐殺、ウクライナ人工飢餓と並ぶ世紀の国家犯罪である。といっても日本政府は死んでもそこは認めないであろうし、証拠も揃っているとは言い難い。が、完全民営化の虐殺、暴動とは少し違っていて、少なくとも自警団の編成や警察主導の狩り集め、裁判なしの銃殺刑などは御国の関与があった。それはどうも確かそうである。そもそも戒厳令が敷かれているのに日本人だけは外出できてもお咎めなしとか奇妙だしな。

上記のように、この「福田村事件」は日本の歴史の暗部、いや恥部といっていいと思うが、それを公に発信した初の映画であると思う。「ゆきゆきて、神軍」を思い出したが、戦場では実はみんな人肉食ってたって話をみんなで黙っていたって話があったと思うがそれに似ている。まったくもってお恥ずかしい。とはいえ、こういう映画は日本人が自分で作んなきゃダメ。BBCに言ってもらってありがとうのジャニーズ問題みたくなってもらいたくない。

同じく、この映画では当時の民草のお恥ずかしい様子が山と描かれている。元兵士だったふりして嘘の武勇伝を語るジジイは兵隊に行った息子の嫁とできちゃって子を産ませたりとかするし、名誉の戦死を遂げた兵隊の奥様は間男(=東出、しかもやっぱり演技クソ下手)とヤリまくってて別に男に不自由してなかったりだとか。セクハラ上等男尊女卑の風景だとか。貧しくて娯楽がなさ過ぎてとりあえずセックスするしかねえとことか。日本の恥部だ。

前の席に白人男性と日本人女性のカップルが座って観ていたんだけど、俺は猛烈に恥ずかしかった。彼女はさぞ白人の彼女である自分に安堵したことであろう。この映画の全てが恥ずかしい。映画の出来もそんなに良いとは言い難いし、そもそも描かれているエピソードのほぼ全てが恥ずかしいことばかり。穴掘ってその中で死にたいほどの羞恥の感情。これはなかなか味わえないですよお(にたあ)

ただ、間男役の東出昌大は私生活でのスキャンダルのイメージでこの役に抜擢されたんだろうけど、そのしょうもない遊び心ってこの手の映画に必要ですか?相変わらず演技下手だったしなあ(あの、何だったかへたくそな憲兵の役やってたクソ映画思い出した。名は忘れたが)。

瑛太も虐殺される行商人集団の親方の役だが、若すぎるし貫禄無し、、すごいフィクション感が漂ってしまってアウトだと思った。新任教師の役やってた「怪物」では最高だったんだがなあ。シンプルにミスキャストだろう。また、田中麗奈とインテリ元教師の夫婦だが、こいつら必要か?つうかこの二人が主人公、、なのかなこの映画?あと正義感丸出しの美人記者も不要な役だと思ったな。この三人は令和の価値観を100年前の作中に埃もはらわず無思慮に持ち込む戦犯だったと思うね。時代が狂ってたんだから、正気(令和の価値観で)の人間が一人でもいるともう一気に創作臭が漂ってくる。創作なのは当然だけど、この手の実話ものに当時の価値観とあまりにも乖離した現実離れしたキャラクターを画面の中心に映して作り手の思想をセリフで喋らせるってのは後出しジャンケンの如き卑劣な行為だし、アンフェアであります。日本映画業界がそっくりまるごと罹っている病だともいえるが。

特に記者の役は完全アウトだ。この手の美顔の若い女に誰もが納得する正義を語らせること自体が強烈な男尊女卑だ。不細工なオバサンだったらダメなの?それがだめで絵にならないってんなら、それこそが差別の核心だ。この映画は差別はダメってのがメインテーマだろ?だったらこんなことしちゃいけないよ。(超絶上から目線でスマンな)

あと、基本的なところだが、この映画は朝鮮人を殺す映像はごく一部のシーンのみで、朝鮮人と疑われた讃岐の薬売りたちが虐殺されるシーンがクライマックスだ。ここに至るまでのシークエンスを肝を潰しながら待つのが観客の唯一の仕事であるが、やっぱり朝鮮人を殺す様子をきっちりしっかり描くべきだったと思う。シベリア戦争での回想シーンなども時代説明の補足などにあっても良かった。「ランボー最後の戦場」や「炎628」並みのぶっ飛んだ大量殺戮シーンがあれば100年後も語られる映画になっただろうに、惜しかった。なぜ描けなかったのか。政治的な思惑があったのだろうかね、、

総合得点は75点!

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