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【映画批評】チェチェンへようこそ ーゲイの粛清ー

※2022年に書いた過去記事です

2022年現在、もっぱら世界をお騒がせしているおそロシアだが、この映画が製作されたのは2020年なので、今回のウクライナ侵攻とは直接的には無関係である。

とはいえ、おそロシアのおそろしさを遺憾無く堪能できるおそろしドキュメンタリーとしてお勧めできる。いやはや本当におそろしい。。おそロシアがこんなにおそろしいとは、、、

アメリカのジャーナリストが編集しているが、登場するのはロシア国内で活動するLGBTQ支援活動家と、チェチェンで迫害されるLGBTQ達だ。

チェチェン共和国及びロシア連邦でのLGBTQの抹殺政策を告発した映画である。

チェチェン共和国ではカディロフという名の独裁者が君臨しており、その私兵集団「カディロフツィ」がウクライナ戦にも投入されて悪さをしていると聞く。最近では、マリウポリで集合住宅に向かって機関銃を乱射する映像が公開された。めちゃくちゃだ。真のヨタ者である。ゴロツキ、ならず者だ。

本作には、これどうやって撮ったのかしら?と尋ねたくなるような拷問映像が収録されており、けっこうショッキングだ。

道端で歩いているゲイっぽい人にゴロツキが近づいて行って、いきなりぶん殴り、蹴りを入れ、跪かせて髪の毛をカッターナイフで刈り取る映像や、拘束しゲラゲラ笑いながら尻の穴を犯す映像などなど。けっこう酷い。どんな理由であろうと子供には見せたくない。

映像は氷山の一角であって、夜と霧に紛れて連行された被害者がどれほどいるのか。殴る蹴るは当たり前で、電気ショックにかけられたり、鼠に皮膚を齧られたりするそうだ。実にボリシェビキ的な手法である。ヒトラーも真っ青だ。その過程で死んだ人もたくさんいるのであろう。

これらの拷問は自白を強要するために行われる。スマートフォンを取り上げられ、連絡先やチャットの履歴などを一つ一つ尋問され、仲間の居場所を吐くまで続けられる。一人捕まえて十人を密告させ、十人捕まえてまた密告させる。昔ながらのやり方。NKVDかゲシュタポ。オフラナ。オプリーチニキ。ヴォルフスムント。

こういうのって、ロシア的といえばいいのかドイツ的といえばいいのかさっぱりわからないが、古今東西変わらぬやり方で、しかも有効なようである。江戸幕府や特高警察も似たようなものだっただろう。

途中、カディロフへのインタビューが挟まれている。

独裁者カディロフ
見るからにキ×ガイ

「この国で同性愛者の迫害が行われているだって?あり得ない。チェチェンにゲイは存在しない。国のためにも不必要な奴らだ。もしもいるというならアンタのお国へ連れてってもらって構わない」

このカディロフという男が見るからに良い塩梅のキチガイ臭を醸し出しており、ううむ、、これはヤバい‥と観客は一目で納得するだろう。

チェチェンのゲイホロコーストが独特なのは、何も政府・官憲によるテロリズムのみではないことだ。ゲイやレズを殺すのは、大抵の場合彼らの親族なのである。警察は拷問にかけて自白させた後は、身内に引き渡す際に殺害したほうが良いことを仄めかす。

イスラム的で、異常なまでに名誉にこだわる民族性であり、西アジア的な野蛮さと、つい最近まで戦争してた国にありがちな暴力性が混在しており、身内にゲイがいるとバレると何だか知らないがヤバいそうなのである。そのため明るみに出る前に親が子をなんら迷うこともなく殺すのだという。女の場合、レイプをする。レイプすれば女はやはり女だということになる。意味不明かつ狂気のロジックだが、チェチェン人はそのような価値観でずっとやってきたのだろう。もちろん男の欲望を満たすための合理的理由?を与えた野蛮な風習である。しかし伝統なんだよな。グローバリゼーションとはぶつかるかもしれないが、彼らを話し合いで止めることはできそうにない。これをやめさせるためには、黙示録的な戦争による都市の絶滅と文明の総破壊が必要だ。

暴力には暴力で抗するしかない byジョン・ランボー(或いは毛沢東)

そんな訳で、カディロフはこともなげにこう言う。ゲイの粛清なんて、単に身内や家族の問題だろう、と。こう言って殺害を奨励、或いは黙認。
簡単なお仕事だ。殺すまでもなく元々いなかったということにできる。この国にゲイはいないと言い切ってしまえばいないものはいないのである。

どんなに日本人がBL好きでも、これって日本政府も同じなんじゃないか‥とちょい思ってしまったのだが、このような同性愛者への抹殺政策は、昨今ではイングーシやダゲスタンでも確認されており、連邦管内でも似たような事例が連鎖して起こっているのだという。だんだんと拡大しているというのだ。まさに時代と逆光である。おそロシアと言うしかない。この思想がウクライナを通り抜けて西側へやってくると言えない理由は無い。アメリカにだってトランプみたいなやつもいる。

ロシア連邦政府はカディロフのLGBTQ抹殺政策を黙認しており、全く咎めることも調査することもないのだと言う。カディロフがそう言うなら、そうなんだろうというアッサリとした公式見解が示されたことがあるのみだ。司法も訴えあってもあっさり棄却。その際判事がちょっとだけ出てくるけどこれもマジキチですごい迫力!是非見てほしい。

支援団体がこれまでにチェチェンから救出した同性愛者の数は百人を超えるというのだが、身内を誘拐された、或いは財産を奪われたと解釈したチェチェン人は、支援団体を敵視して地の果てまで追ってくるという。それを共和国政府と警察が支援する。連邦も黙認。というか協力もしているみたいである。おそロシアだ。

支援団体が追手を撒こうと必死で隠れ潜むさまはスリリングで、高水準のインテリジェンス映画を観ているかのよう。

そんなわけで、同性愛者に対する迫害は酷すぎるの一言で、何故ここまでするのか、加害者の目線に立って考えてみた。俺はいつも加害者側の目線をついつい考えてしまうタチなのだ。

俺自身も、この映画がどんな映画かはよく調べてから観たし、同性愛者を迫害するのは絶対に野蛮行為かつ違法かつ倫理的にも許されぬ人道犯罪だと思っているのだが、それでもだな、正直に言うと、男カップルがちゅっちゅしたり裸で抱き合ったり一緒に風呂入ってる映像が流れると生理的に「おぇっ」てなった。そして、同時に迫害を受けるカップルが抱擁する姿を見て悲しさと美しさを感じた。どちらの自分も真実なのだと思う。

モノゴトを正直に話すと大抵の人には煙たがられ、嫌われてしまうことを俺も身に染みてわかっているいい大人だが、それでもね、こんな、ちょっと志高くわざわざお金払ってこの映画を観に来た俺でもだな、正直「気持ちわりぃな」って思っちゃったんだよね。そういう自分に気付かされたというか。理性的には同性愛者の権利を侵害するつもりもないし、官憲の壮絶な暴力はただただ不可解であるが、それでもね。ちょっと気持ち悪いって思う、、、というかそういう感情が湧き上がってくる。つまり、これって本能というか、理性でコントロールできない部分なんだよ、多分。男はゲイが嫌い、というか、ちょっと気持ち悪いって思っちゃうんだよ。

大学生の時に、俺が同性愛者を別に差別しないよ~なんて話を友人に話したら、その友人は「×田はホモだ。だから、お前はホモなんだよ。ホモだからだろ」と言ったやつがいて、その日をきっかけに、そいつはその後もことあるごとこに俺をホモだホモだとからかい続けた。二言目にはそう言ってた。俺はそのたびにホモじゃねえよ、ホモはお前だろって返していたんだが、あまりにしつこいので面倒になって黙っていたら、「ほら、言い返さないじゃねえか。お前はやっぱりホモなんだよ。いい加減認めろ」と言ってきた。本当にこういうのがいた。こういう奴ってどこにでもいるんだよね。小学の時にも中学の時にも高校の時にもいた。言うなれば俺もそんな奴だった。なよなよした奴がいたらホモ野郎とからかうのが、ある種男同士の一種の儀式みたいなもので、BLみたいに二人でイチャイチャしていたら確実にホモだと笑われるんですね。だから男はBLも嫌いである。少なくとも嫌い、気持ち悪いと表明せねばならない。そうでなければ名誉を失うリスクがあるのだ。そのような圧がある。

そして↑のろくでもない感じに描写した友人だが、よくよく考えたらその更に過去に遡ると、そいつがBL本の話をやたら話題にしていたので、お前ホモなんだろ?興奮したんだろ?正直に話せよ、と先にからかったのは俺であった。そういえば。なので、↑の話はそいつなりの単なる報復行為であろう。俺もそいつもロクデナシということで理解してもらって構わないのだが、男同士というのは、こういうやり取りが普通にある。残念ながら多分どこででも。

そんなわけで上の話をまとめると、男はホモを見たら気持ち悪いと表明するか、からかったり攻撃するか、自分は無関係で無関心なふりをするか、というアチチュが求められていました。(求めていたのは多分社会です)ことわっておきたいのは、これはいま40歳ぐらいの我々の世代の話であり、それ以降の世代にはもっとLGBTQが受け入れられているのかもしれない。

でもね、俺は外回りの仕事もしているんで、しょっちゅう街中の普通の公園で休憩を取っているんだけど、小学校ぐらいの子供が遊んでいる様子をよく見かけるんですね。その様子は、実にプリミティブといいますか、俺の世代と全然変わんないですよ。女の子と仲良くする男の子は「オカマ」とか「オトコオンナ」とか「ホモ」とか言って馬鹿にされています。それは事実です(真顔)。オカマから尻の穴を連想したのか、そこから痔の薬のCMが連想されたらしく、「ボラギノール」とあだ名をつけられていじめられている子をみた。集団で、たった一人の小柄な男のを「おい!ボラギノール。くたばりやがれ」と嗤っていたのだ。

不快な光景だった。

俺はよほど間に入って行ってその卑怯なガキどもを全員殴り倒してやりたかったが、まあもちろん犯罪だからそれは。やめておいたが、本当にその被害を受けている子の暗い顔は忘れられない。今もこれを書くためにそれを思い出したので、本当に嫌な気持ちだ。男はゲイを馬鹿にすることによって男らしさをアピールする行動様式があるのだ。俺自身も心当たりがある。男は多くの人がこの行動パターンに心当たりがあるだろう。

そのような人間の救いがたさとどう向き合って行くのかが問われている、と思う。グローバリゼーションやポリコレでその救いがたさに制裁を与えるのか、憎悪にお墨付きを与えて堂々と迫害するのか、両極端なようでいて根っこは同じ思想から生じているともいえるわけだ。

そんなわけで、この話に救いはなく、映画自体もなんの救いも提示されぬまま終わる。この映画評?にも特にオチは無い。落としどころがどこにもないからだ。ラブアンドピース。

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