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頭の良さとIQ

頭の良さの定義

みなさんはIQと頭の良さにどう言う関係があると思いますか?
結論は「頭の良さ」の定義によっていかようにも変わるのでまず我々はこの定義を決めなければなりません。しかしその定義を「○○する能力」と具体的に決めてしまうと、IQ自体も「頭の回転、その処理能力」という定義なので同じ事かまたはつまらない結論を導く恐れがありナンセンスになります。故に我々は「頭の良さ」の定義を抽象的に、しかし本質的に決めなければなりません。
「頭の良さ」をより良く定義する為には、まずは定義された「頭の良さ」が「頭が良い人は社会に良い影響を与える」という性質を持っている、ということが必要になるでしょう。「良い影響」の定義自体も誰か1人と見てしまうと相対的指標になりほぼ定義不能になりますから、万人、或いは局所的集団への良い影響の期待値をもって「良い影響」の定義としましょう。
定義をある程度抽象的に広く取るため(※ナンセンスにしない為)に、この記事では上記必要条件を「頭の良さ」の定義とすることにしましょう。

IQは仕事能力?

さて、IQが高いと、社会に対して良い影響を与えると言えるでしょうか?
私は良い影響を与える期待値は高いと思いますが、物事はそう単純ではないと思います。
まずIQの高さは仕事能力の高さに関わってきます。基本的に仕事が出来ると社会を成長させ良い影響を与えると言っていいでしょう。しかし本質的な注意として、仕事が出来ることが与える良さは、仮に1つの会社にとっても見かけ以上に単純ではありません。
即ち、世の中の大体の事は複雑すぎて局所最適解が大域最適解になっていないことが多いのです。例えばシステムのバグに対してパッチを当ててその場しのぎで処理したエンジニアはバグ解決のプロとして褒め称えられるかもしれませんが、本質的構造にメスを入れない限り大域的にそれは負債を生んでいるだけです。同様にスペシャリストが関わることで生まれる仕事に対する属人性は、大抵ロクな結果を生みません。
故に単純な頭の回転であるIQで解決出来る仕事能力というのは過大評価である可能性を常に孕んでいます。

仕事能力とは?

では、IQで解決できないとしたら何が仕事能力を指し示すでしょうか?
それは「赤字にならない程度の局所的な結果を残しながら、大域的な良さを見据えている」という事です。前者の能力はIQかもしれませんが、後者の能力は単純な回転ではありません。これは思慮深さにあります。

勉強とはあらゆるセーブポイントを持ちます。例えば分数の割り算が出来る為には、足し算はもちろん、その後の掛け算、割り算が正確に出来ていなければなりません。凄まじい頭の回転を持った人でも足し算を知らない状態から分数の割り算を1日で理解することは不可能でしょう。即ちこんな簡単なことすら四則演算というセーブポイントの力を借りないと理解できないのです。
同様に思慮深さとは今までどのくらい考えたか、色んな事に対してどのくらい哲学したか、自分なりの解を正義と倫理をもとに論理的に編み出し続けたか、がセーブポイントとしてものを言います。これが導き難い大域的な問題の存在を認知し、そのヒントを与えると私は考えています。

しかし相関はある

しかし、同時に思慮深さとIQの高さには正の相関があるとも思えます。
即ち、セーブポイントの積み上げ、その一つ一つは考えた量ですが、もし高いIQで普段から真摯に思考を重ねていた場合には率の良さから単純にその積み上げも高いでしょう。故に相関があるという事です。
しかし、「普段から真摯に思考を重ねていた場合」という前提が失われる場合には勿論1人の実現値として結論は偽になります。

考え続けること

結論としてはIQは単なる相関に過ぎないという事です。
考え続け、変化し続けることこそ価値があり、そこに対する謙虚さを失った瞬間に記事で定義した意味での「頭の良い人」ではなくなります。しかし、記事では誰もが「頭が良い人」に求めるであろう必要条件をもってして「頭の良さ」を定義していましたから、「頭が良い人」として求められる最低限(※しかしハードルは高いかもしれない)ですらなくなるということです。
よく考察するとIQはその率の良さを上手く利用できた時のみに効力をなし、物事の進め方に対する本質的な要素ではないと言えます。



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