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アファンタジアの創造力


アファンタジアとは

最近アファンタジアという言葉を知って自分が明確にそれであることに気が付いた。そのことにより、今まで見ていた景色が人とまるで別なものであるという事が判明し驚愕するとともに、人の認知に関わる世界の違和感の正体がアファンタジアであることに起因すると知ることが出来た。この記事はアファンタジアという特性による自身の体験を紹介するとともに、自分の脳を出来る限りスキャンし、その理解というスキームについて説明することを目的としている。最も大事な事のひとつはアファンタジアという特性により、明確な制限を受けているのは事実であると思うものの、それを補完するような能力の発達による恩恵もまた受けているという認知であり、まるで悲観していない(※その逆で嬉しさすらある)という事である。
ここでアファンタジアとはwikipediaによると

心的イメージを思い浮かべることができず、頭の中でイメージを視覚化することのできない状態を指す言葉である

という定義である。即ち頭の中で絵を思い浮かべる事が出来ないという事と同じであり、私はこの言葉を知って一週間が経つがその間脳をスキャンしてもやはり一度も絵を思い浮かべることは無かった。

非参照の観点から

ひとつ注意として、アファンタジア関連の書籍もあるみたいだが、今回は何の本も見ず、更にあまり調べることなくこの記事を書こうと思う。人、無論私にも「確証バイアス等意見への心理的な寄せ」が存在していると思っている事がその理由である。これは例えばB型である人がB型の性格特徴を見るとそれが自分のことだと思い込み、更にB型の性格に寄せてしまうようなことがあるからである。勿論心的イメージの無さというのは事実ベースであるから「寄せ」というのは星占いとは違って存在しにくいものであるから気にしなくて良いのかもしれないが念の為である。

アファンタジアを指摘された明確なエピソード

10年近く前のITエンジニア時代の頃、新人研修の一環としてセミナーが行われたのだが、その中で講師が唐突に「りんご」と発言し、続けて「これをどう理解しましたか?」と問うてきた。続けて「りんごの絵が脳内で思い浮かんだ人は挙手してください」という問いがあり、そこで私は驚愕する事になる。なんとこの時、私以外の14人全てが手を挙げたのだ!
戸惑いつつも講師が「フレイさんはどう理解しましたか?」と聞いてきたので、「りんごという言葉そのままです」と答え、講師が「実はそういう脳の人もいるのです」という事を全体にサクッとしてその場は終わったように思う。しかし、このエピソードは10年近く前のことであり、自分がアファンタジアである事に気づいたのはここ一週間である。
実はこの時私は14人全員分のその証言を信じていなかった。つまり脳内で見ていることを他人に示すことが出来ないという特性故、脳内でりんごの絵を見ていないのにも関わらず、りんごの絵を見ていると、もっと言うと「見ているから理解できているのだ」という意味で後付けされた認知を表出しているからに違いないと思ったからである。
人と人はその感覚の全てを確認する必要はない。例えば原始的な痛い等の感覚、風に触れた時の心地の良さとそれが全員がそれが空気の冷たさによるものだと信じる事に疑いを持つ者などいない。また、黄色という色が実際にどう見えているかなど誰も共通の理解を計った事がないし、計りようもないが、それを純粋に信じているものであろう。脳内の理解スキームも同様である。逆に言うとこの程度の事は共通理解であってもらわないとデカルトのコギト・エルゴ・スムに陥り日常生活が脅かされるので本来あってはならないのだ。
故に原因は14人の錯覚によるものであり、問題は認知能力の弱さによる後付けであるとその時は断定づけて終わったのである。

美術の困難さ

今も継続する事であるが、幼少期から美術に対して非常に困難さを抱えていた。たまにわざと下手な絵を描き、画伯と呼んだりするのが流行ったりしているから問題が目立たないが私は本当に絵を上手く描けない。
中学の時の美術で印象的なエピソードはA4程度の長さを持つ紙を渡され「これを鉛筆で線を引き三等分にしてください」という指示をもらった時の事である。すぐ察したと思うが私は一本目の線を真ん中あたりに書いてしまい、三等分にすることが出来なかった。今なら三等分にすることは造作もない事(※慣れたので)だが、問題は紙にペンを走らせたときに一体何が出来るのかが全く想像できないという事にあると思っている。この分け方をした私は皆の前でさらし者にされた。
更に美術では努力し、他人の倍の絵(※2枚)を作成したのにも関わらず評価が2であったのは私の中の黒歴史となっている。

地図理解の困難さ

地図が理解できない。方向感覚が無い。特に幼少期から何度も思い知らされた(※そしてそういう話になると拒絶反応が起きる)ことは家の中から「(そこから見えない)コンビニはあっちだよ」や「(そこから見えない)出口はあっちだよ」という会話の全てである。小さい家の2階上がった瞬間にその玄関の位置が既に分からなくなる私にとっては本当に憂鬱な、致命的な会話であり、故にいつも胡麻化している。
また、方向感覚が全くなく、めちゃくちゃ道に迷う。最近は屋外であればGPSの恩恵を受けだいぶマシになっているがそれでもまだまだそれが通用しない場所など腐るほどある。特に高校3年生の頃は3年間通い詰めた30分の道が分からなくなり、迷ってしまったのは自分でも驚いた。
これは極端だが地図や方向に関しては本当に分からないので全て他人任せにしている。

その他の特徴

母親の顔が分からない

小さい頃や大学生として実家を離れた時によく悩んでいた覚えがある。「お母さんの顔を思い浮かべてね」的な事を言われると思い浮かべ方が全く分からないのでしんどかった。そして「次に会った時に顔を忘れているのではないか?」と思う事もあったが、思い浮かべられなくても会えば分かるものである。

夢に絵が出ない

夢に絵が出ることがない。田島貴男さんの「接吻」という曲の歌詞の中で「やけに色のない夢を見る」というフレーズがあるが、昔これは何かの比喩的なものだと思っていた。例えば「私たちは翼の折れた天使」的な表現は翼など物理的に持っていないのにそういう表現をする事がある。接吻の歌詞もこれに近い何かだと思っていたのだが、アファンタジアという言葉を知り殆どの人は本当に夢に色がつくと知ってどういう脳の構造なのかと衝撃を受けた。私はというと色はおろか絵すら出ない。あまり見ることも少ないのだが私にとって夢と言うものは概念を見るものである。

論理という武器

アファンタジアという概念を知る前から薄々と私の頭は何かしら弱い所があってそれを論理力でそれらをカバーしているという感覚があったのだが、この概念を知ってからはより強く思うようになった。普段このnoteを見てくれている人は知っていると思うのだが、私は大学院まで数学を学び、そしてそこでも上位の成績を修めている。数学以外の他の教科はあまり得意では無く、特に英語等は難しいのだが、何故か数学だけは自分の中で飛びぬけて出来ている。このことはアファンタジアという絵を見る事が出来ない欠損とも呼ぶべき部分(※実際には欠損ではない)を補うために代わりに論理力が発達した帰結にあると感じている。

理解のスキーム

私は概念をそのまま飲み込む事で理解している。その概念の性質が必要になったら、その飲み込んだ(大きさのある)概念から必要な性質を抽出する感覚がある。そして数学に関わらず日常のあらゆる事において論理を構築する癖があるのだが、頭の中では常に文章で論理が走っている状態である。
例えば「りんごは赤い」という性質を導くには頭の中で絵が存在していれば考えることなくその色を答える事で事足りる。一方、りんごの概念を飲み込んだだけの私の脳ではその赤という性質を出すためには概念の引き出しからその性質を取りださなければならない。思うにここにクリティカルな違いがある。つまり率の悪い私の脳には初等的な事実を表出するには不必要とも思えるネストが存在するのである。しかしこの良い所はこの理解スキームは絵に依存しないより汎用的な仕組みである(※それ故アファンタジアとは欠損ではない)ことである。また普段からネストを取り扱う訓練が出来ているので論理構築(※即ちそれはよく考えるとネストの構築に同じなのだが)をあまり苦にしないのかもしれない。仮にこのことが大してIQが高くない私に対して数学優位性を齎したのなら感謝しかないのである。

まとめ

アファンタジアという特性は「見えない」という意味で欠損と捉えられそうな気もするが、(欠損ではないが)仮に欠損だとしても人間の能力とは何かが欠損していても他の能力でカバーするように出来ており、簡単に倒れることはないという実感が出来た。特にもしこれにより論理力が発達したのなら寧ろイメージなどなくて嬉しい事である。
そして、絵ではなくテキストや概念そのままで理解するスキームの方が明らかに汎用的な仕組みである。それは簡明な事実に対しては「絵を見て答えれば良いだけ」のファンタジアの利得には勝つことが出来ないが、他の部分において(※例えば数学的対象の理解において)メリットはあるように感じる。アファンタジアは多様性の範囲であり、素晴らしいアイデンティティなのではないかと思う。個人的には非常に面白味を感じるので仮に生まれ変わってもまたアファンタジアが良いとさえ思う。

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