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代替可能性に死を思い、生きる意味を問う。 『夏とレモンとオーバーレイ』

その日メロンブックスに入ったのは連載を追っているTSマンガの新刊を買うためだったが、入口すぐの新刊だけが積んである大きな島をなめ回して見ていると、綺麗な彩色のイラスト表紙と共にこんな文字列が目に入った。

「私の葬式で遺書を読んでくれませんか」

キャッチーなフレーズが載った帯。本屋に陳列されたマンガは中身が読めないようシュリンクが巻いてあることが多いが、メロンにはたまに見本として読めるようになっているものがある。それを手に取り、第一話を斜め読みしてすぐに購入を決意したのが、私と『夏とレモンとオーバーレイ』の出会いだった。

『夏とレモンとオーバーレイ』は、本業で芽が出ずバイトや動画配信で日々を食いつないでいる声優ゆにまる。のもとに、大企業勤めのキラキラOL紺野が自分の遺書を読んでほしいと依頼しに来たことをきっかけに、真反対な属性を持った二人の人生が交差する物語である。

登場人物はこの二人だけに絞られ、遺書の内容に始まる死に装束や遺影といった葬式の準備をする「会議」を通して、主題となる紺野の自殺予定とそれに伴う二人の関係性の深化を丁寧に掘り下げていく。


紺野はなぜこの夏で死ぬことにしたのか。

豊かな生まれで勝ち組の人生を送ってきた紺野は、しかし人の言いつけを守って順風満帆に続く暮らしの中に自分を見つけられずにいた。その状況は、声優としての大成を目指すも苦闘の日々に潰れかけているゆにまる。とは対照的だ。

生活も 人生も だらだらと繰り返される日常も
いつまで続くんだろうって思いませんか
なんで続けてるんだろうって
私には理由がありません

pp.108-109

死を見つめることで、己に生きる意味を問うことになる。なぜなら、私たちは人から褒められるお人形になるために生きているわけではないということに気付くからだ。

人の用意してくれたレールは確かに有難い。乗っているだけで、「それなりに苦労したつもりで/でも最終的には全部良い感じに収ま」ることができる。ちょっとでもレールから外れると、その茨の道っぷりと底知れぬ不安に驚かされる。

しかし、従うだけの人生には「私」がいない。プレイヤーの代替可能性。人生がロールプレイングゲームなら、これって私以外の人がやっても同じなんじゃないか? という疑念。初対面でゆにまる。は紺野を「雑誌切り抜き量産型きれいめアラサー大人女子のくせに…… きれいな顔して 頭の中はどうなってるんだ」と評するが、まさにその世間ウケの良い姿こそが紺野の代替可能性を示唆している。だから、「雑誌から出てきたみたい」と服を褒められても自分の自分でない部分を見せつけられたようで不快になるし、自分の話をしてと話題を振られても「私の話に面白いことは何もないですよ」と虚ろな目で冷たく言ったりする。明日から自分の中身が入れ替わっても何の問題もなく続けられそうなほど自己不介入な日々から離脱したくなる。だから紺野は「死のう」と思ったのだ。

人は死から逃げられない、ということに積極的に向かってみる。どうせ死ぬんなら、親や同僚や会う人みんなに猫被って良い顔していたって無意味だ。自分を出さずに生を終われない。死を思い動くだけの時間があるとき、人はこれまでやり残してきたことをやってみたくなる。

その観点では、この夏に死ぬ、と考えるのは実に良い選択だと思う。誰かが「今日が人生最後の日であるつもりで生きよ」なんて訓を言ったそうだけど、本当に今夜死ぬとしたら何の長期的な計画も立てられない。出来るのはせいぜい最後の晩餐の用意くらいで、この名言の時間設定はあまりに短すぎる。一方で、1年後に死ぬとか、10年後に死ぬなんて考えても、なんだか真に迫った感じがしない。死を手元に置いた実感が湧かないし、いつの間にか忘れてしまいそうだ。だから、ひと夏の、というのは忙しくも意味のある死を迎えるにふさわしい長さなのだろう。


ベージュ色の服とか、コース料理を出す店とか、紺野の好きなものの理由はきまって便利だからだった。では紺野がゆにまる。に依頼している理由は何か。呼び出された早朝の公園のブランコで、「あたしのことどう思ってるんですか」「……好きですよ」「役に立つから?」という言葉を紺野に否定されず、ゆにまる。は傷つく。なぜなら、

――紺野さんは あたしじゃなくても良かった

pp.185-186

からだ。

役に立つ、という言葉をもし文字通りに受け取るならば、人間関係はすべて何らかの目的に役立つからやっていると見なせる。腹を満たしたり孤独を溶かしたりするために人と会うのだ。それはリコくんが口で言うような都合のいい存在ということでもある。しかしこの話題はそういう字義通りのレイヤーで起こっているのではない。

それにそもそも、二人の関係は声優契約という商売から始まっているわけで、紺野にとって声優が誰でも良かったのと同程度には、ゆにまる。にとっての依頼人も誰だって良かっただろう。初対面でヤバい女だと思いながらも50万円という金に釣られてサインしているのはゆにまる。の方なのだ。そして、それを紺野に見抜かれてもいる。でなければ会議を延長するたびに時給3000円という報酬で釣って来たりはしない。

役に立つから好かれていることそれ自体が苦痛なのではない。役に立つならコンビニ店員だって立派に世の中の役に立っている。むしろいなきゃ困るレベルでエッセンシャルだ。彼らがそういうワードで称賛されることもあった。だが、ゆにまる。はコンビニバイトの仕事の「あたしじゃなくてもいい」という点に虚しさを覚えている。

ここでもポイントは代替可能性なのだ。

紺野の自分への好意が利便性由来だから傷ついているのではない。何度も「会議」を重ね、言葉を交わし、誰にも気付かれたことのない困ったときに首を掻く癖まで見抜かれて、高価なネックレスまでプレゼントされている。こんなに時間をかけて触れ合ってきた人間に、自分は代替可能な存在であると思われていることこそが心痛の本質である。

そして、紺野も傷ついていた。紺野が声優ゆにまる。に遺書の代読依頼を出したのは、最後に一方的に誰かを傷つけてみたかったからだった。自分の死体を見て泣いてくれる人が欲しかった。その条件を満たせれば誰でも良かった。しかしゆにまる。は本名を言おうとしない。それは紺野にとって、あくまでも書面契約に基づく交流であって深入りはしないという拒絶を意味していた。「まあ表札があっても私にはわからないんですけどね」とジャブをかけてもゆにまる。は声を詰まらせて答えない。

この膠着状態は、紺野の自殺決行とそれを止めようとするゆにまる。の意地によって氷解する。ゆにまる。は今まさに首を縊らんとする紺野に飛びかかり、馬乗りになって顔をはたく。そして泣きながら「いかないで」と言う姿を見て、紺野は自分が既に相手の中で代替不可能な存在になっていることを知り、そう思ってくれる人物の代替不可能性に気付いて、初めて「この人がいい」と思うに至る。

p.208
p.210

生きていくのがつらいのではない。生きる意味がないことがつらいのだ。そして生きる意味がないのは、自分を代替可能な存在だと感じているからだ。

そして、都市というのは人を代替可能な存在にすることで発展している。雇用の流動性とか、地縁血縁から切り離されて漂流する個人とか、「今この場に居るのが私である必要はない」確率を高めることによって、効率化と合理化は進み街が栄える。東京という場所はその極致である。

物語のラストに東京という街が突如として話題に上るのは偶然ではない。東京は代替可能性の象徴だからだ。だから最後に二人は東京を去る。

夢と失望とあらゆる情緒が詰め込まれた街を
私たちは後にする

p.226

互いを代替不可能な存在であると認識し、紺野は自分の本心を、ゆにまる。は本名を告げる。二人の世界が重なる――オーバーレイする。そうして二人は代替可能性に満ちた東京を出て、互いに代えの効かない代替不可能な人生を歩み始めるのだ。

改めて表紙を見ると、その計算された描写に唸らざるをえない。キレイめベージュの紺野の服、首を掻くゆにまる。の仕草、レモネードとコーヒー、東京タワー。読了した者にのみ了解されるアイコンが散りばめられており、優れた要約となっている。読後、私は部屋で「っっっっっっっっ完璧だ!!」と叫んだ。

大変美味な物語を読ませてもらった。魅力的なキャラと作画。カバー裏に小説がついていて、こういうサプライズもなんだか久々で嬉しいなと思った。


代替不可能性はどこから来るか。その源泉は、説明の付かない、意地みたいなものかもしれない。確かに人は意地だけでは飯を食って生きていけない。けれど、意地がなくては生きていく意味は見つからないのかもしれない。



(ページ引用はpixivコミックより。)

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