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努力という単語が想起させる報われなさ

私は、努力という言葉が苦手である。

今までの人生において、自分が「努力」した経験は殆ど無いと思っている。他人から見てどうなのかは知らないが、少なくとも、自分の行いに対してこれは「努力」だったと感じたことは少ない。

こんな風に主張することが、世間においてあまりよろしくないことは知っている。「私は努力ができる人間です!」と言っておいたほうが良いことは間違いないし、何らかの成功体験の理由付けにおいて「余裕でしたね」と言うよりも「いやー努力が実りました」と言ったほうが心象が良い。

しかし、それでも私は自分の過去の行為を「努力」だとは思わない。思いたくないのである。それは、「努力」という言葉が持つニュアンスが好きではないからだ。

「努力」というのは、何らかの目標を立てて、その実現に向けて具体的な行動を起こすことである。「努力」する人には、必ずなんらかの成し遂げたいことがある。

そして、人が「努力」したと言うとき、「努力」を重ねた先の果実として目標が達成されることを期待している。例えば、ゴム手袋について食べられないと連想することはまずない。普段、ゴム手袋を可食性において評価することがないからだ。一方で、「努力」と言われたら報われる報われないという発想になる。これは、「努力」が行為の結果としての達成の可否と結び付けられていることの説明になるだろう。

「努力」をした人は、当然のこととして目標が叶うことを期待している。試合に勝てる、試験に受かる、上手に作れる、そういう風になることを主眼においている。だから、それが叶わなかったときに「報われない」と思うのだ。場合によっては「裏切られた」という語彙を使うこともあるだろう。これまでの行動は目標達成のために起こしてきた行動であるから、それが叶わなかったとき、今までの行動が全部無駄であったかのような感覚に陥り、「報われない」と嘆かずにはいられなくなる。

では、どうして「報われたい」と思うのか。それは、自分が報われるに値する善い行為、正しい行為をしたと考えているからだ。公正世界仮説、因果応報、のようなものである。自分は正しいことをした、善いことをした、だからそれに対する報酬が与えられるべきである……。私には、ある行為を「努力」と呼んだときにこのようなニュアンスを読み取ってしまう。

さらに、人が「報われるべき」と思うような善い行為は、多くの場合でつらいことである。何時間も残業するとか、参考書を何冊も解くとか、毎日腕立て1000回とか。こういう行為を総称して、修行と言うのだろう。つらければつらいほど、その先にある果実への期待が高まっていく。期待が高まったぶん、上手く行かなかったときの「裏切られた」感は増幅する。こんなに「努力」を重ねたのにそれを無下にするこの世に失望する。

しかし、私はこれまで、つらかったから上手く行ったというような経験が実感としてあまり無い。目標達成のためにすべきとされる行為のつらさと、結果として得られた報酬との間に、これといった相関を感じてこなかった。

私がnoteでたまに書いている麻雀を例にとって見れば、頑張って作った手で8000点を稼いだかと思えば、次局先制リーチにオリたら一発で12000点失うこともあるし、1回も和了れないままラス親まで進んだあとに、配牌の良さとしか言いようのない和了りで逆転トップを取ることだってある。この前の記事でも、考えに考えた結果得られたものは親権ひとつだし、結局次局自分は和了れなかった。

この例に限らず、私は生きてきた人生全体に対して、自分がつらい経験をくぐり抜けてきたからこそ立派な果実を手にしたのだ、とは感じてこなかった。人に言わせれば「努力」と名がつくこともしてきたのかもしれないが、自分では「努力」とは呼ばなかった。呼びたくなかった。

そもそも、善いこと、正しいこと、報われるべきこと、というのは誰がどういった基準で決めているのだろう。少なくとも、それは自分には決められないことなのではないか。

例えば、目の前に飢えている人がいるとして、その人に釣った魚をあげるか、魚の釣り方を教えてあげるか、という問いがある。これは、釣った魚をあげれば短期的には相手の腹を満たせるが、長期的な視野にたてば釣り方を教えるべきだ、という結論を引き出すための設問である。しかし、釣り方を教えることは本当に善いことなのか? 釣りすぎて魚がいなくなり遂に全員飢えるようになった、実は将来凶悪犯罪を犯す人物を生かしてしまった、のように本人には知りようもない情報を挟むことでいくらでもいちゃもんを付けられる。

もし、客観的な視点で善いことをしたら必ず報われる、という命題が真であるとしても、その客観的な視点とやらが私にも理解できるようになる日はやって来ない。

このように考えると、私には何かの行為の善悪や正しさなど判断できようもないということになる。となれば、その行為が善いかどうか分からないのだから、報われるべきだと断じることもできなくなる。何が報われる行為なのかは私には全く分からないことなのだ。分からないのに、これは報われるべきだと言ったって、実際報われなかったときの失望が深まるばかりではないか。だから、「この行為には報われるべき善さ/正しさがある」というニュアンスのある「努力」という単語を、私は使いたくないのだ。


さて、次のような質問が出てくるかもしれない。「努力」という行為をしたくないならば、何の行為もできなくなるのではないか?

私はこの問いに、「努力」だと思わなくても行動を起こすことは出来る、と答えたい。私は、行為自体に注力し、行為することそのものを楽しむようにしている。行為の果てに望むような結果が得られるはずだ、ということはあまり期待していない。なったらいいけれど、別にならなくたっていい。

例えば、こんなところでnoteをアップしている以上、誰かに読まれたいと思って書いていることは間違いない。あわよくば、たくさんの人に読んでもらって、めっちゃたくさんのいいねが付いたらいい。いつでも、自分なりに自分の力をよく出せたと思っている文章たちである。でも、だからといってたくさんの人に読まれて然るべきだとは思わない。この執筆行為が報われるべき行為だとは思わない。ただ、時折貰えるリアクションを、有り難く頂いている限りである。

人は、自分の行為の行為の正しさや善さや期待値が保証されなくても、行動できるはずである。なぜなら、行動すること自体が楽しみだから。行動することが生きることだから。

そして、ときたま、自分の行動が誰かに影響を与えることがあるかもしれない。誰かの行動が、自分に影響を与えるかもしれない。それは私が善いこと正しいことをしたからではなくて、なにか別のところで結ばれた縁があったからだ。そして、自分の預かり知らぬ力によって巡り合った縁に感謝する。

私はそんな風に考えている。

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