見出し画像

9日目〜絶望の三十路②〜

岡崎公園に着くと学生たちが微妙なラップを即興で披露していたので軽く見物する。側から見て実に典型的で凡俗な会話をその場に立ち止まりながら K君と繰り広げる。「“Yo! Yo! Yo! Yo!”って乱入して来なよ。このレベルなら勝てるでしょ、ほら行きなよ」私が街中の人々の間でならどこにでも見受けられるようなしょうもない扇動を起点にする。すると、K君もこういう場合大多数の人によくありがちな若干の苦みを加えた微笑を浮かべながら「嫌だよ」と簡単に答える。それから、行きなよ行きなよと嫌だよ嫌だよが姿形を変えて表現されテンプレートな会話が続いた。そうして自分たちは特殊な存在であり特別な会話を繰り広げているのだという平凡な意識を持つ人々と同じ形式内容の会話を心ゆくまで愉しんだ。

次に京都国立近代美術館へ行く。11月3日(文化の日)は常設展の観覧料が無料だという情報を得ていた。この京都滞在で神社仏閣に一円も拝観料を支払っていない我々にはピッタリである。美術館の絵を見ても大して面白く感じないもののとりあえず一周した。最後の辺りで河井寛次郎という民藝運動に関わった陶芸家の作品が展示されている。私はいつかこの美術館に来て河井の陶芸を見たことがあったがK君は初めてのようだった。外界に関心の薄い彼が先をズンズン進む中で立ち止まり「河井寛次郎の陶芸があるよ。河井寛次郎美術館の入館料を払わなくても見られたね」と振り返って言う。我々は3年ほど前の夏、清水寺を五条の方に下った先にある河井寛次郎美術館のエントランスを二人して出歯亀のように外からジロジロ覗いたことがある。たかが美術館や神社仏閣に入るためだけに金なんか払いたくないという価値観を共有しての行為だった。(今回の滞在でK君に「出歯亀」の意味をクイズにして出したが読者には上記でニュアンスが伝わるだろう。)

京都国立近代美術館の常設展を一周し終え展示の一枚目の絵の前に戻ると、どの絵が一番良かったかとK君に聞いた。簡単には答えの出ない彼を誘い軽くもう一周してみることにした。すると、彼は二畳分くらいの大きな灰色の余白が目立つ日本画の前で立ち止まる。中心には、琴を弾くのっぺりした若くない日本人女性だけが描かれていた。「この絵が一番いいね」と彼は言う。その絵を悪くないと私も思ったが、お世辞にも美しいとは言えない女性が色彩の薄い世界に収められている様は、古箪笥の上に飾られる透明なケースの中に取り残された日本人形に通ずる不気味さを放っていた。全体の中からとりわけその絵を取り上げる彼は、内向直観・内向思考ユーザーであるINFJとしての趣味を示したのかもしれない。あるいはただ、「どうだ、この目立たない絵をあえて選ぶ審美眼のある俺様がここにいるぞ」というアピールなのかもしれない。実際、彼にこの時の心情や動機を聞くと、「後者に決まってるだろ!俺様の審美眼はすごいんだからなあ!」とお得意の道化を演じるか、「んー、何も考えてないよ。適当だし大した理由なんてない。絵なんて全部一緒、何でもいいんだよ本当は」と空虚感を全面にして答えるかもしれない。どちらの回答せよ根本は同じなのである。

一方で私は小野竹喬という有名な日本画家の絵を選んだ。それはパステル画のように柔らかな色彩で風景が象徴的に描かれていた。言葉で的確に色を表現できないような微妙なピンクの太陽とぼやけた緑の海。それを見て私も彼も口を真一文字に結び「うんうん」とだけ繰り返した。この日まで既にユングのタイプ論(俗に言うMBTI)についての話を繰り返していた我々は、その絵の線や色彩があまりにもINFP的だと互いに内心悟っており、この美術館に来てもなお人前で堂々とタイプ論を口に出しては恥ずかしいという意識が二人同時に働き各々を沈黙させたのだ。4Fにある展示室の外へ出て休憩がてら平安神宮の大鳥居や大文字山がよく見える窓際の席に腰掛けると彼に小野竹喬の絵について色々と聞いた末、遂に「じゃあ小野竹喬のタイプは何だと思う?」と質問した。「ここでもまたタイプの話をするのか!」というわざとらしい顔をしながら「INFP以外ないでしょ」と彼は嬉しそうに答える。「ほらこれ見てよ、顔がINFPでしょ」と小野竹喬の顔写真も見せて来たのだった。

休憩後、階段を降りる頃には日が暮れかけていた。出口付近で呼び止められアンケートに答えると京都で有名な前田珈琲のドリップコーヒーが1杯分ずつ貰えた。無料で何かもらえるだけで我々は天上の喜びを味わう。帰ったらコーヒーを飲もうと話しながら空を見上げると、淡い夕日に段々とぼかされるように染まる秋の空が実に小野竹喬の絵のようだったので「ちっきょうのような空だなあ。ね?見てごらん?」と私は言う。「いやあ、本当だ!ちっきょうのような空だねえ」と彼はバカにしたように「ちっきょう」を繰り返した。そうして晴れの特異日である文化の日は雲一つ見当たらずに夜になっていった。

帰路、六角通の行きつけの八百屋へ寄り、安くてもキャベツ一玉250円ほどまでに高騰する野菜の価格に驚きながらも比較的安価な人参と白菜を購入した。野菜をカゴに入れて再び自転車を走らせると灯油販売の歌が聴こえて来た。

「たきびだ たきびだ おちばたき〜♪  かたろうか かたろうよ〜♪」

そのメロディと歌詞があまりにも情感豊かだったので冷たさの増して来た夜風の中、焚き火の前で人々が語り会う姿を想像しながら何度も何度も「語ろうか語ろうよ〜♪」と繰り返し歌った。「いやあ、詩的だね。こんなに詩的な歌詞は珍しいよ。語ろうか?うん、語ろうよ!だってさ。本当に素晴らしいねえ」と私が言うとK君が何を言っているんだとばかりに「かたろうか、じゃなくて、あたろうかだよ」と間違いを指摘した。それでも私は自分を曲げず「いや、語ろうかだね。俺にはそう聞こえた。うん、語ろうか?語ろうよ!とっても詩的だねえ」と言う。ずっと灯油販売車の後ろを付けていたのだが、間違いを指摘されると流れて来る歌が「あたろうか」にしか聴こえず、後で調べるとやはり彼が正しかった。

帰宅すると貰ったコーヒーを飲み、K君のクラシックギターの時間となったので私は早速一人でゲームを始めた。その間、自分の誕生日に届いた有難いメッセージに返信したり、自分と縁の切れた知人と関係のある一人の人物を調べて顔の写った写真をネット上から拾ったりしていた。その写真は後でK君にタイプしてもらうためのものである。

虚無的であるゲームはあっという間に21時過ぎへと私を運んだ。この日は自分が三十路を迎えた日、有難いことにK君がUberでご馳走してくれることになっていた。先日、彼のセレクトでパッタイとすき家を注文したので、今回は私が4000円分のピザと魯肉飯を選んだ。彼は去年の誕生日にも巨大なピザを京都駅前のスーパーで買ってくれた。大きすぎて入れる袋がないと店員に言われたため自転車で片手持ちしながら30分漕ぎ続けた思い出に耽りながらUberでまずはピザを注文した。それから魯肉飯も注文してどちらも22時に家に到着するよう予約した。携帯の画面上に表示された2人のUber配達員の現在地を示す2つの点が我々のいる場所へと同時に向かう。配達員として選抜された圧倒的な配達回数を誇るベテランおじさんと数回しか配達していない若者が鉢合い、顔を向かい合わせて「こんな古い家なのにUber Eatsを立て続けに2件も注文するなんて一体どんな奴が住み着いているのだろう、こんな夜遅く順番に並んで配達するなんて驚くべきことだ」なんて内心が彼らに生まれることを願いながら待っていた。しかしベテランおじさんが先にピザを届けて去っていってしまった。それから若者が魯肉飯を届けてくれた。私は心からの感謝をK君に述べてこの豪華な晩餐を楽しんだ。ピザを与えられた乞食はその恵みが自分に釣り合わないとわかるから泣いて祈るのである。私はまだ乞食ではないから泣く代わりに感謝を伝えた。ここでも改めて感謝したい。

それから我々は流れるようにタイプ論について話し合う。まずは、先程集めた人物の写真をまとめてK君に見せる。その男性がどのような人物なのか会ったことのない私は何も知らなかった。写真以外の一切の情報を与えられていないK君は「誰だよ、この人」と言いながらもその人物の顔の表情や雰囲気、周囲に映る友人や出身校などを考慮して外向直観・内向思考タイプのENTPと判定した。

「まずこの人のニコっフニャっていう笑い方とナルシスティックな雰囲気はENTPに特徴的なものだね。それから外向タイプの友人と付き合う傾向にあって割と勉強もできるタイプであるという点もENTPらしい。ENTJと迷ったけどこのサラサラした長い前髪を目に掛けてるナルシシズム的な写りがENTPっぽいんだよね。ENTJはパーマか癖毛でオデコ出して腕組んでる姿が様になるような雰囲気がある。でも決め手はやっぱり表情、特に笑い方だね。うん、ENTPだよ、この人」

こうしてK君は抜群の直観力で数枚の写真から人物をタイプした。彼はタイプに関して絶対的な才能があると自負している。それが真実かどうかは知る由もないが少なくともタイプ論に関して一家言を持っていることは確かだろう。

「自分にも納得できるようにタイピングの根拠を示してくれ」と何度も懇願したが彼は「言葉で表現することには限界があって、ユングも素人ではなく分析家に向けて執筆している。もし本当にタイプ論を理解しようとするならば、まず自分でゼロから沢山の人をタイプして経験を積むしかないよ。これは経験がものを言うし、だから自分の場合、理解してもらおうとも信じてもらおうとも思ってないんだよね。ただ少なくとも君にたくさんの材料を提示すれば自分の中でタイピングに関する独自のシステムを構築してくれるんじゃないかと思ってる」と言う。

タイプ論はどこまでいっても結局は主観だろう、これが私の結論である。ある人物をタイプAと分析する人もいればタイプBと分析する人もいる。精神的な真実は多数決では決まらない。ゆえに自分にとってのタイプ論を構築するしかない。それは個人的な美学や価値観のような立場を取らざるを得ない。真実のタイプは存在するはずなのだが、他者の具体的なタイピングを主観のものとして寛容に受け止めなければならない。でなければ論争は絶えないだろう。ENFPタイプはこのような人間だという記述に争いはないが、この人間はENFPのようなタイプだという記述に寛容でなければ平穏は訪れない。ゆえに、私はK君のタイプ論を客観的な真実に含まれるものとしてではなくあくまで主観として扱うことに決めたのだった。それは、K君がこの日私のお気に入りの声優を何人もENFPにぶち込んで私の怒りを買ったからである。

こうしてタイプ論の話は朝まで延々と続いた。眠る前、K君は「深い決意」を語った。そのキーワード自体ははっきり覚えているが惜しいことに内容はすっかり忘れてしまった。そして絶望的な三十路の素晴らしい一日目が終わった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?