赤におぼれる ~第四話~

夢を見ていた気がする。断言できないのは目が覚めた瞬間、内容は綺麗さっぱり忘れてしまったのに胸の中にモヤモヤしたものが残っているからだ。はっきり覚えているか、見たことさえ忘れてしまえれば良かったのに中途半端にくすぶっているのは気分が悪かった。
ベッドにうつ伏せにしていた体を起こす。パサリと軽い音をたてて何かが床に落ちた。正体は数ページめくられた状態の脚本だった。手を伸ばして拾い上げる。
「何で人を殺しているのか、ねえ」
最初に目に飛び込んできた台詞を読み上げる。勿論エイの台詞ではない。正体がバレて問いかけられる重要なシーンだ、とイオが言っていた。
「何でって言われても」
物語の中の殺人鬼は答えない。静かに笑っているだけなのだ。問いかけられたのは自分ではなく、物語の中の殺人鬼なのだがエイ自身に問いかけられたような気がしてならない。頭にこびりついて離れないのだ。
そのせいで夢を見ていた気がする、のかもしれない。憂鬱な気分を振り払うようにエイは脚本を机に置き、再びうつ伏せになった。まだ外は暗い。もう一眠りしよう。電気を消し忘れたせいで眩しいが知ったことではない。
長く息を吐き出す。同じ問いかけが頭の中で回り続けている。どうしてこんなに引っ掛かるのか。思い当たる節がなく、苛立ちが募るばかりだった。
結局うとうとしただけで眠れないまま朝を迎える羽目になった。枕元で鳴り響くアラームに顔をしかめ、エイは起き上がった。
今日の講義は午前中だけだ。帰ってきたら寝よう。欠伸を噛み殺しながら心に決め、出掛ける準備をした。

突如として降りだした雨によって予定が大幅に狂うことになった。
「嘘でしょ」
エイは呆然と空を仰いだ。生憎と傘は置いてきてしまったし、カオルに助けを求めようにも講義が終わるや否や「CD取りに行ってくる」とダッシュで帰ってしまった。
「エイさん?」
「はい?」
どうしたものかと頭を抱えていると背後から声をかけられた。振り返ると荷物を抱えた星崎先生が立っていた。つい先程、ゼミで会ったばかりの人と数分もしないうちに再会すると不思議な気分になる。
「雨宿りですか?」
「まあそんなところです」
「雨、凄いですからね」
星崎先生の手に傘はないし傘を取り出す様子もなかった。もしかしたら星崎先生も傘を持っていないのしれない。だとしたら此処でエイと立ち話をしているのも解る。
エイが一人で納得していると、空を仰いでいた星崎先生がこちらを向いた。目があって反射的に逸らしてしまった。失礼なことをしてしまったと内心で反省しているエイを気にした様子もなく 、星崎先生は口を開いた。
「濡れるの平気ですか?」
「え? まあ多少なら」
「折角だから研究室で雨宿りしましょう。此処で立ち話もあれですし」
確かに研究室がある建物は目と鼻の先だし、出入口で立っているのも邪魔だ。提案にのらない手はない。
「そうですね」
「じゃあ行きましょうか」
エイが頷いたのを見てから星崎先生は雨の中を足早に歩き出した。鞄に濡れて困るものがないのを記憶を辿って確認し、エイも星崎先生の後を追った。

相変わらず研究室は本に溢れていた。両サイドの本棚は愚か机の上にも積み重ねてあり、地震があったら埋もれてしまうのではないかとエイは密かに心配している。
「これ使って下さい」
差し出されたタオルを有り難く受け取り、ざっと体を拭く。
「そうだ。エイさんパン食べますか?」
脈絡のない問いにエイは手を止めた。
「パン、ですか?」
「はい。来る途中にパン屋さんを見付けてちょっと寄ってみたら沢山あって、つい目移りしてしまったんです」
何処に置いてあったのか、星崎先生は大きな白いビニール袋を取り出した。覗いてみるとパンの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。透明なビニール袋に入れられた様々なパンが入っていた。クロワッサンやカレーパンと言ったオーソドックスなものからパッと見ただけでは何なのか判別出来ないものまで多種多様だ。目移りするのも解る気がした。
「よろしければどうぞ」
「ありがとうございます」
これだけの量を一人でどうするつもりだったのかは考えないことにした。お腹が空いていたから、有りがたく頂くことにしてエイは袋に手を突っ込んだ。どれも美味しそうで悩みそうだったから適当に一つ取り出した。
手の中にあったのはメロンパンだった。白い表面にはメロンそっくりの模様があり、ほんのりと茶色い焦げ目がついている。一口かじると表面のクッキー生地のカリカリと甘さが口一杯に広がった。中のふわふわ感がそれを引き立てる程よい柔らかさを醸している。
「どうですか?」
「美味しいです」
「そうですよね、これ美味しいですよね。良い所を見付けました」
ニコニコと頷きながら星崎先生は焼きそばパンを食べていた。挟まっている焼きそばが落ちそうで落ちなくて、器用だと感心した。
パンを食べ終わってしまい、やることがなくなった。雨はまだ止まず、帰ろうにも帰れない。星崎先生はパソコンにむかっている。また論文を書いているのだろう。邪魔をしたらいけないと思い、エイは本でも読もうと棚に視線を走らせた。
不意に戯曲の本が目に留まった。そういえばまだ台詞を覚えていない。読む度にあのシーンで思考が絡めとられて先に進めなかった。だが何時までもそうは言っていられない。撮影が始まる前に覚えなければ迷惑をかけてしまう。
鞄から脚本を取り出す。クリアファイルに入れていたおかげで濡れずに済んでいた。安堵しつつ読み進める。幸いあのシーンまでは辛うじて目を通してあったらしい。最後まで読みきれた。
次は台詞を覚えようと最初のページに戻す。
視線を感じて顔をあげると星崎先生がじっとこちらを見ていた。
「すみません。真剣に読んでいるところに声をかけるのは如何なものかと思いまして」
「いえ別に大丈夫ですよ」
「それは何ですか?」
「脚本です」
「出演されるんですか?」
「はい。指名されちゃったので」
「何もなかったら観に行きますね」
曖昧に笑って誤魔化した。部員以外の知り合いに観られるのは恥ずかしいが、上映日を聞きながらスケジュール帳を開いている星崎先生に「来ないで下さい」とは言えなかった。今のところ何もなかったらしい。スケジュール帳に書き込んでいた。
「脚本を見せてもらうことは可能ですか?」
「いいですけど。先生ってネタバレした状態でも楽しめるタイプなんですか?」
「はい。展開が解っているからこそ楽しめる物語もあるんですよ」
「それならいいか。はいどうぞ」
「ありがとうございます」
脚本を手渡すと、星崎先生は真剣な眼差しで読み出した。自分が書いた脚本ではないのだが目の前で読まれると緊張してしまう。手持ち無沙汰で意味もなく辺りを見渡した。
時計が時を刻む音と雨音が沈黙が流れる空間に響いている。夜には止むだろうか。最もまだ台詞を覚えていないから散歩は出来ないのだが。
「エイさんはどの役ですか?」
不意に話しかけられて反応が遅れた。改めて星崎先生に顔をむける。脚本は数ページ程めくられていた。知らなくても読めるだろうが知っていた方がよりイメージしやすいだろう。だが何故それを途中まで読み進めてから聞くのか。突っ込みたいのは山々だったがどうにか堪えてエイは口を開いた。
「殺人鬼です」
「やはりそうでしたか」
星崎先生は一人で納得していた。それはどういう意味なのか。星崎先生の意識は再び脚本に向いてしまったため、尋ねるのは読み終わってからに決めた。
数分後、星崎先生がゆるりと顔を上げた。最初のページに戻して、尚且つエイに文字が向いた状態で返してくれる。さりげない気遣いに内心で感動しつつ脚本を受け取った。
「読んだらますます映像で観たくなりました。是非観に行かせてもらいますね」
「ありがとうございます。あの」
「何で人を殺しているのか」
エイの言葉は遮られた。星崎先生の口から飛び出したのは頭にこびりついて消えてくれない問いかけ。連鎖的に覚えていないのに存在を主張してくる夢を思い出し、睡魔がじわじわと襲いかかってきた。
「何故だと思いますか?」
「え?」
「この殺人鬼は何故人を殺しているんだと思いますか?」
星崎先生は指で脚本を叩いた。何故とは考えていなかったはずなのに、口は勝手に答えを紡いでいた。
「理由なんてないんだと思います。ただ殺したいから殺す。それだけなんです」
「そうですか」
星崎先生はその場しのぎと思われそうなエイの答えに否定も肯定もしなかった。ただ静かに笑っていた。こちらを見つめる凪いだ日の海みたいに穏やかで、全てを見透かしていそうなこの瞳がエイは苦手だった。だが、そっぽを向くのは失礼な気がして鼻や口元に視線をさ迷わせた。
「では、エイさんは何で人を殺しているんですか?」
喉元まで出かかった大きな溜め息を飲み込んだ。物語の感想よりも先に「何で人を殺しているのか」と台詞をピンポイントで拾ってきた段階で予感はしていた。殺人鬼が物語に出てきてエイがその役をやると聞いた段階で聞こうと決めていたのではないか。つい邪推してしまう。
視線を合わせないままエイは答えた。
「何でと言われましても……血が見たいからですけど」
「それだけではない、ですよね」
「どういう、ことですか?」
即座に否定され、エイは顔をしかめた。貴方に何が解るんだと噛みつかなかっただけマシだろう。不快感をあらわにしたエイを気にも留めず、星崎先生は続きを口にした。
「血が見たいだけなら他にいくらでも方法がありますよね? それなのに人を殺す行為に拘っているということは血が見たい以外の何かがあるんじゃないですか?」
星崎先生の言葉がストンと心に落ちてきた。どうしてここまで「何で人を殺しているのか?」という疑問が引っ掛かっているのかが解った。エイ自身も違和感を覚えていたのだ。沢山の血が見たいだけなら人を殺さなくてもいい。にも関わらず人を殺すという行為にこだわっているのは他の理由があるのか、それとも物語の中の殺人鬼のように明確な理由などないのか。エイには解らなかった。
本人すらあやふやだった違和感を見破るなんて星崎先生は何者なのだろうか。気になる事が増えてしまった。
「雨、止みましたね」
沈黙を破るように星崎先生が窓の外を見た。窓ガラスに新たな雨粒は付着しなくなったし音も消えている。何時の間に止んだのだろう。首を傾げながらもこれを期にエイは帰宅することにした。
「そろそろ帰りますね。お邪魔しました」
「撮影頑張って下さいね」
「はい。パン、ごちそうさまでした」
「いえいえ。では気を付けてお帰り下さい」
手を振る星崎先生に軽く頭を下げて研究室を後にした。

雨が止んだとは言え、空にはまだ重そうな灰色の雲が一面に広がっている。いきなりカンカン照りになられても目に痛くて困るからいいのだが。
知り合いがいないのをいいことに溜め息ばかり口からこぼれる。誰かが「そんなに溜め息吐いたら幸せが逃げちゃうよ」と頭の中で言っているが、無視して足を進めた。
講義の真っ只中なのか、人影は疎らだった。
お陰で校舎から出てくるレイをすぐに発見出来た。それはレイも同じだったらしい。エイと目があった瞬間、あからさまに嫌な顔をされた。
初対面もその次に会った時も印象最悪だったから仕方ないな、と冷静に分析しながら歩いてくるレイを見ていた。レイもレイで嫌なら別の道を通ればいいのに、わざわざエイが居る方へ歩いてくるのだから律儀だ。
レイは会話は可能だが手は届かない位置で足を止めた。濃い闇の色をした瞳が真っ直ぐにエイを捕らえている。星崎先生とは違い、レイの瞳は今日の雲みたいに全てを覆い尽くす仄暗さがあった。だから見ていても逸らしたくならないし、何ならずっと見ていたい、と思うのかもしれない。
「何してんだ?」
「レイは」
何で人を殺しているの。喉元まで出かかった問いかけを飲み込んだ。黙りこくったエイにレイは怪訝そうにしている。頭を振り、作り笑いをむけた。
「いや、何でもない。じゃあね」
何か言いたげなレイを振り切って足早に家路に着いた。
レイの答えを聞いたところで自身が人を殺している理由が解る訳ではないのだから。聞いたところで何の意味もないのだ。
家に帰り着き、荷物を放り投げる。スマホの電源を切り、カーテンを閉め切り、エイはベッドにダイブした。今日はもう何も考えないで眠ってしまいたかった。
目蓋を下ろし、長く息を吐き出す。眠気も疲労も限界だったのか、意識はゆっくりと暗闇の中に落ちていった。

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