赤におぼれる ~第八話~

人殺しの理由が解って以来、訳の解らない夢は見なくなった。お陰で夢に悩まされることはなくなったのだが、今度は別の悩みが頭をもたげてきた。
人を赤く染める幻覚が見えるようになったのだ。目の前にいる人の首に視線が吸い寄せられる。切り裂いて、赤く染めて、倒れる人の周りに血の海が出来て、次第に赤の割合が増えていく。
何時もそこまでが一連の映像として再生される。何度、手を伸ばしかけては抑え込みを繰り返したか解らない。
更に悪いことに、今撮影しているのはサイコパスな殺人鬼が人を殺すシーンだ。それを夜に、しかも殺人現場にしたことがある場所で撮っている。皆は「此処で殺人事件があったんだって」「怖いね」なんて呑気に話をしているが、エイは相槌を打つだけで精一杯だった。
何で実際に人が殺された場所で撮影しているのか。イオに聞いたら「その方がリアリティーが出そうじゃん」とキョトンとした顔で言われ、色々突っ込みたいことはあったが、ボロが出そうで諦めた。
確かに事件を起こした張本人が殺人鬼の役をやっているから、リアリティーは出せそうだ。これが落ち着いている時なら問題ないのだが、今は落ち着きとは真逆の状態にある。実際に血の海にした場所で凶器を持ち、倒れている死体役に手を出さなかった自分を褒めてあげたかった。
行動には移さなかったものの、衝動は隠しきれなかったらしい。撮影終了後、死体役をやってくれた面々に「本物の殺人鬼みたいで怖かった」と口を揃えて言われてしまい、謝り倒すはめになった。
「くっそイライラする」
「食べるか愚痴言うかどっちかにしな」
カオルにたしなめられ、エイは口を閉じた。今は撮影が終わり、カオルの部屋に押し掛けて遅めの夕飯を食べているところだ。ゲームをやっていたカオルが眠そうな顔をしながら「ご飯食べる?」と尋ねてきたのは記憶に新しい。
今日のメニューはロコモコ。白米の上に目玉焼きとハンバーグ、刻まれたキャベツとキュウリとトマト、そしてソースが満遍なくかけられている。あたたかいうちに食べた方がいいのは明白だ。大人しくハンバーグを口に運ぶ。ソースの味を邪魔しない程度につけられた味は好みど真ん中だ。相変わらず美味しい。だがそれとこれとは別だ。苛立ちはおさまらない。
「だって、人殺せないのに人殺す役をやるんだよ? 生殺しじゃん。我慢するの大変だったんだからね」
キチンと箸を置いて口の中のものを飲み込んでから愚痴を吐き出す。カオルはこちらを一瞥し、スマホを置いた。
「というかさ。そろそろ大丈夫なんじゃないの?」
「何が?」
「エイにアリバイがある時にも人は殺されてるんでしょ? ならそろそろ室町さんも「エイさんは犯人じゃないのでは?」なんて思い始めてるんじゃない?」
「真似上手いね」
「ありがとう、じゃなくて。いくら室町さんが執念深かったとしても、アリバイがある人間をずっと張り込んでる程、暇じゃないと思うよ」
「そういうものかな」
「だと思うよ。このまま放っておいたら白昼堂々犯行に及びそうで怖い」
カオルは遠い目をして呟く。否定出来ない可能性にエイは黙りこむ。確かにこのまま放っておいたら周りに人が沢山いようが、辺りが明るかろうが犯行に及びそうだ。
そもそもカオルは自分が狙われる可能性は考えないのか。一番近くにいるのだから一番危ないと思うのだが。信頼されているのか、それともそもそも自分が狙われるという発想がないのか。真相は解らないが、目の前で切り裂いて下さいとばかりに首筋がさらされているのは目に毒だ。カオルが赤く染まる幻覚が見える前に頭を振った。
「大丈夫かな」
「大丈夫だと思いたい」
「いやでも撮影」
「終わってからにすればいいでしょ」
次の言葉を発する前に箸を奪われ、トマトを口に押し込まれる。咀嚼しながらどうしたものかと溜め息を吐いた。

最後の撮影は幸か不幸か昼間だった。イオにオッケーを出され、肩の力を抜く。これで撮影に頭を抱えることはなくなった。
「今のところ、撮り足しや撮り直しはないけど、何かあったら連絡するね」
「解った。編集頑張ってね」
「ありがとう。じゃあね」
イオと他の撮影班の部員達は部室に歩いていった。この後は講義もないし用事もない。ひとまず帰宅しようと数歩進み、エイは足を止めた。視界の端に見えた人物が知り合いで、こちらを見ているような気がしたのだ。
視線を感じた方向に顔を向ける。想像通り知り合いがいた。柱の陰ならぬ猫の陰から顔を覗かせ、頭の上には別の猫が乗っかっている。こんな突拍子もないことをする知り合いをエイは空さんしか知らなかった。
空さんはエイより一つ年上で、暇さえあれば猫を構っている。何故だか解らないが何時も違う猫が乗っかっていて、猫耳ならぬ猫帽子みたいだとエイは密かに思っていた。
目があうと、空さんはふわりと笑った。
「エイちゃん、こんにちは」
「こんにちは。何してるんですか?」
「時間が空いちゃったから、猫ちゃん達と遊びに来たの」
抱っこしていた猫を掲げる。その猫とは別の足元にいた猫が「ニャー」と鳴いて、空さんの足にじゃれついた。空さんは「ごめんね」と抱っこした猫を一撫でし、地面に下ろした。しゃがみこんでそのまま他の猫達を撫でる。空さんの周りには猫の輪が出来ており、猫好きが見たら羨ましがりそうだった。
「エイちゃんは何してたの?」
「帰ろうとしてました」
「え、ごめんね、邪魔しちゃったよね」
空さんは勢いよく顔をあげた。その拍子に足元で寛いでいた猫達が何事かと起き上がった。何匹かは驚いたのか、サッと立ち上がって何処かへ行ってしまった。残った猫達はエイにお前のせいだと言いたげな恨みがましい目を向けてくる。あながち間違っておらず、心の中で謝ってしゃがみこんだ。
「大丈夫です。特に予定はなかったので」
「そっか。よかった」
相好を崩した空さんに猫達は警戒をといた。再び寝転がり、ゴロゴロと喉を鳴らしている。猫に嫌われがちなエイは見ているしかない。寂しさを覚えつつ、猫達を眺めていると起き上がったままだった黒猫が一匹、ゆっくりとエイに近付いてきた。足元に座り、短く「ニャ」と鳴いてじっとエイを見上げている。不思議と撫でても平気な気がして、恐る恐る手を伸ばして背中を撫でた。黒猫は気持ち良さそうに目を細めている。毛並みは少しごわついているが、手の平を通して温もりが伝わってきて心地よかった。
「エイちゃんはその子に気に入られたね」
「何でですか?」
「その子ね、なかなか触らせてくれないの。何時も近くには来てくれるんだけどね」
「そうなんですか」
「ちょっとエイちゃんが羨ましいな」
確かに空さんが手を伸ばすと黒猫は耳を後ろにピタリと倒した。詳しくは覚えていないが、あまり良い意味ではなかった気がする。観察していたら手が止まっていたらしい。黒猫はエイを見上げ、もっと撫でろと言わんばかりにすり寄ってきた。撫でるのを再開すると黒猫は喉を鳴らし、目を細める。
自分は巷を騒がせる殺人鬼で、沢山の命を奪っているんだよ? 怖くないの?
心の中で問いかける。聞こえていたのではないかと疑いたくなる絶妙なタイミングで、黒猫は顔をあげて「ニャー」と鳴いた。否定か肯定か。穏やかな表情は後者だと思いたい。
「そうだ。エイちゃん、お腹すいてない?」
猫達と会話をしながら撫でていた空さんが顔をあげた。
「少しすいてきました」
「さっき猫ちゃん達のオヤツ探しにコンビニ行ったらね、新しいお菓子が出てたんだけど。食べる?」
「いただきます」
エイは即答した。甘いものは好きだ。それに新商品という言葉の響きには弱かった。どんなお菓子なのか確認する前に頷いたが、空さんが変なものを持ってくる訳がない。そんな確信があった。
空さんは背負っていたリュックを体の前に持ってき、中を漁り出した。先に出てきたのは猫用の煮干し。催促するように猫達が鳴いている。猫達をなだめながら空さんが取り出したのは手の平サイズの長方形の箱。かの有名なパキリと割って食べる長方形のチョコレートのお菓子だ。お菓子の名前の横にはバニラアイス味と書かれている。
空さんは箱を開け、銀紙の上からチョコレートを真っ二つに割った。
「綺麗に割れたよ」
しっかり割れ目が入っているから、曲がる方が珍しいが空さんが嬉しそうだったからとやかくは言わなかった。差し出された片方をお礼を言って受け取り、銀紙をはぐ。白くてサクサク生地の断面が見えているチョコレートを、真ん中のヘコミに沿って割る。かじるとバニラアイスの甘さが口一杯に広がった。チョコレートの固さと生地の食感はノーマルのものと変わらなくて安心する。
「結構甘いです」
「新商品とか期間限定とか書いてあるとつい買っちゃうんだよね」
「解ります」
エイは力強く頷いた。新商品とか期間限定、地域限定と言われるとつい買ってしまう。あの言葉達には人を惹き付ける魔力があるのだろうか。不思議だ。
早々に自分の分を食べきった空さんは猫達に煮干しをあげている。チョコレートが体温で徐々に溶け始めていた。残りを口に放り込み、銀紙を丸めてポケットに突っ込んだ。
チョコレートというよりバニラアイスの味が口に残ったまま、空さんと会話を交わす。
新しい猫に出会っただとか、最近観た映画が思っていた以上に面白かっただとか、うっかり猫用のお菓子を食べてしまっただとか、読書に夢中になって遅刻してしまいそうになっただとか。他愛のない話ばかりだ。
話はしっかり聞いているつもりだった。内容を理解した上で相槌を打っている。それなのに意識はどうにも会話に向いてくれない。
空さんの栗色で緩くウェーブのかかった髪の隙間から見える首に視線が奪われる。
手を伸ばせば届く近さには無防備にさらされた白い首。切り裂いて、赤い液体を噴き出させて、華奢な体が倒れて、辺りに血の海を形成していく。空さん、色白いから赤が映えるだろうな。さぞかし綺麗なものが見られるに違いない……。
「エイちゃん?」
名前を呼ばれて我に返る。空さんの髪と同色の瞳が見開かれていた。空さんの視線の先を辿るとエイの手があった。指先が空さんの首に触れている。瞬時に状況を理解して、サーっと血の気が引いた。大慌てで手を引っ込め、頭をフル回転させる。
「ゴミついていたので、つい」
「そうなんだ。急に触られたから、びっくりしちゃった」
「すみません、一言断ってからにすればよかったですね」
咄嗟に思い付いた苦しい嘘を空さんは疑わなかった。それどころか「ゴミとってくれてありがとう」と花が咲いたように笑って、御礼を口にした。
こんな人を疑うことを知らなくて優しい人に自分は何をしようとしたんだ? 罪悪感が沸き上がってき、心を侵食していく。
「私、そろそろ帰りますね」
このまま此処にいたら何をしでかすか解らない。撤退しようと立ち上がる。
「わかった。引き留めちゃってごめんね」
「いえ。チョコありがとうございました」
まだ猫と戯れている空さんに手を振り、エイは足早に帰途についた。
駄目だ。このままだと白昼堂々と犯行に及ぶだけではなく、知り合いに手をかけてしまう可能性が高い。室町さんが張り込んでいないと信じて、今晩殺りに出るしかないだろう。
エイは心に決め、最後は半ば走るようにして部屋に帰り着いた。

日付が変わる数分前。何時もより大分遅くなったのは室町さんを警戒してのことだった。
「念には念をってやつだね」
言い訳がましい呟きに苦笑した。何だか落ち着かなくて、エイは洗面所に立った。鏡の中には数刻前とは異なった装いの自分が写っていた。
黒い無地の大きめなパーカーを着る。髪を耳の下で一つにまとめ、パーカーの中に入れた。右手で愛用のハサミを握り、袖の中に隠す。準備完了。撮影でも似たような格好をしているから、懐かしさはない。だが、撮影とは違い、今夜は実際に殺せる。抑えなくていい。赤く染まった人間が見られる。心が踊った。
鏡の中の自分は楽しそうだ。上がった口角に指を添える。殺人鬼っぽい顔をしているな、と思いながら鏡の前から離れた。
さあ、久しぶりのお楽しみの時間だ。

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